【翻訳】『シェイクスピアと音楽』(1896年)

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)は、ジョン・ダウランド(1563-1626)や、ウィリアム・バード(1540-1623)等の同時代人であって、ルネサンス音楽の愛好家であれば、シェイクスピアの戯曲に散りばめられた音楽的背景を楽しむこともできるでしょう。
そうしたシェイクスピア作品に登場する音楽要素と、当時の音楽事情を解説している本書は19世紀の著作ですが、決して侮れません。著者のエドワード・W・ネイラー(1867-1934)はイギリスのオルガニスト・作曲家で、エリザベス朝のヴァージナル音楽に関する著作もあります(An Elizabethan virginal book, 1905)。本書の「古楽」関連の記述も本格的で、大半が今でもそのまま通用するものです(『フィッツウィリアム・ヴァージナルブック』が『エリザベス女王のヴァージナルブック』だったり、リコーダーが珍しい「古楽器」としてヴィオラ・ダ・ガンバなどと同等の扱いを受けているのは、流石に時代を感じさせますが)。
しかし、どうやら日本語訳が存在しないようなので、翻訳して電子書籍を作ってみました。
結構な文量がありますが、シェイクスピアに馴染みのない古楽ファンでも、音楽に不案内なシェイクスピアンにも、面白く読んでいただけると思います。もちろん肩までエリザベス朝に浸かった方にも。
試読用にイントロダクションと第一章の分を下に掲載しておきます。完本は第七章まであって、さらに付録は楽譜集となっています。
本書の翻訳にあたって、利用できるシェイクスピア作品の日本語訳で音楽事情がまともに考慮されているものが皆無なので、引用も(畏れ多くも)自分で一から訳す他ありませんでしたが、音楽用語剥き出しの何とも無粋な訳になっております。本書の趣旨を鑑みてご寛恕ください。
なお、「viol」の英語での発音は「ヴァイオル」なのですが、日本語としては一般的でないので、「ヴィオル」としました。また、「proportion」は「プロポーション」なのですけど、音楽用語として一般的な「プロポルツィオ」としています。同様に「burden」は「バーデン」ではなく「ブルドン」、「diapason」は「ダイアペイソン」ではなく「ディアパソン」等。人物名の読みなども慣例に従いました。

序論
偉大な作家の作品の主な特徴の一つは、各人がその中に自ら求めるものを見出し、そして、それがまるで自分の見解に沿って書かれているかのように感じられることである。
ある読者は単に劇的な興趣を求め、またある者は自然哲学を、さらに別の者は道徳を求めるが、各々が関心のある主題の扱いに大いに満足する。
したがって、音楽を学ぶ者がシェイクスピアの作品に音楽を求め、それが多様な観点から完全かつ正確に扱われているのを見出すのは、さほど驚くべきことではない。
このことは、文学において音楽ほど正確性を軽視され、また本質的な関心を欠いて扱われてきた題材はほとんどないという事実を考えれば、一層満足を与える。
数少ない例外として、『ジョン・イングルサント』の著者であるショートハウス氏は、音楽に関する知識を「詰め込んだ」かどうかは別として、チャールズ一世時代に実践されていた音楽芸術の、生き生きとした、かつ極めて正確な描写をその書において示している。
ここで、事実を顧みず無知を誇るかのように音楽について語った多くの著名な作家の名を挙げる必要はない。彼らが他の分野で同じことをすれば、いかなる批評家からも正当な軽蔑を受けたであろうことは明白である。
シェイクスピアの作品における音楽を研究する者は、必然的にこの主題を二つの異なる観点から見ることになる。第一は純粋に歴史的なものであり、第二は(いわば)心理的なものである。
第一の観点について言えば、シェイクスピアの戯曲をエリザベス朝時代の音楽芸術の実践と社会的地位に関する記録と比較するだけでも、彼がこの分野においてあらゆる点で信頼に足る案内人であることが分かる。
一方、第二の観点について言えば、音楽を情緒的な視点から扱った極めて興味深い記述が多く見られ、それらはシェイクスピアが音楽のより高次で精神的な特質を深く理解していたことを明確に示している。
『ハムレット』において、役者は時代の要約で簡潔な年代記であると語られる。我々はこれをしばしばよく分からないまま信じているが、演劇の目的は過去にも現在にも、自然に対して鏡を掲げ、時代の様相(very age and body of the time)を映し出すことにあるのである。
シェイクスピアの時代の「age and body」のこの側面を研究し、彼の作品に見られる「要約された簡潔な年代記」の驚くべき正確さを明確に把握することは、シェイクスピアがあらゆる思想や行動の側面を見事に捉えていたという考えをより確かなものとするだろう。
「彼がこの分野で信頼に足るのであれば、あらゆる分野で信頼できる」ということは言うまでもない。専門家にとって、「素人」の書き手が専門分野について簡単な一節を書く際に、少しも深刻な誤りを犯さずに済んでいるという事実は、その作家に対する大きな評価となるものである。
結局のところ、シュミットの素晴らしい辞典が「ヴァージナルは小型のピアノフォルテの一種である」という誤解を招くような記述をしていたり、非常に著名なシェイクスピア学者が自著で「ヴィオルは六弦のギターである」などということを書いて出版してしまったりしていることを考えれば、シェイクスピアを学ぶ者にある程度の一般的な助けが必要であることは否定できないだろう。
シェイクスピアの37作品のうち、少なくとも32作品には本文中に音楽や音楽的な事柄についての興味深い言及が含まれている。また、音楽的な性質を持つ舞台指示が300以上あり、これらは37作品中36作品に登場する。
本文中の音楽に関する言及は、主に喜劇に見られ、言葉遊びや機知を示す機会や手段として使われることが一般的である。一方、音楽的な舞台指示は主に悲劇に属し、その多くは軍事的な性質を持っている。
シェイクスピアと音楽について研究する者にとって、シェイクスピアの時代の音楽の社会的地位と影響について明確な理解を持つことは不可欠である。そのため、以下で歴史について簡単に概説しよう。読者におかれては、シェイクスピアの作品の中でその仔細を確認するという心構えで読んでいただきたい。

社会における音楽(16世紀から17世紀)
モーリー『平易な実用音楽入門』(1597年)、 1-2頁。ここでは、とある晩餐会の様子が書かれている。そこでの話題は音楽のことばかりであって、また、夕食後の習慣として、女主人が「パート譜」を皆に配った。フィロマテスは自分の歌唱力のなさについて何度も言い訳をしたが、最後にはまったく歌えないことを白状せざるを得なくなった。これを聞いた他の出席者は「驚き」、何人かは隣の人に「彼はどんな育てられ方をしたのだろう?」とささやいた。
フィロマテスは恥ずかしくなり、音楽教師グノリムスのもとへ向かう。教師は彼を見て驚いた。というのも、フィロマテスはこれまで「音楽は礼儀を乱し、悪徳へと誘うものだ」と激しく非難していたからである。 しかし、晩餐会での経験が彼の考えを大きく変え、できるだけ早く「ストア派の人間」から「ピタゴラス派の人間」へと変わりたいと願った。そこで教師は、まるで子供に教えるかのように、音楽の基礎から彼に教え始めた。
その後、長い授業が続き、最後にフィロマテスが教師に次のような別れの言葉を述べて締めくくられる。
「先生、ありがとうございます。次にお会いするまでに熱心に練習を重ね、先生の言われたことを全てできるようになりたいと思います。それまでの間、先生におかれましては、ご自身が願われるように、あるいは母が子に願うように、心の平安と身体の安楽が得られますように(先生の健康は長い間とても悪かった)」
「ありがとう。生徒たちが学業において順調に進歩していくのを見ることは私の喜びの中でも決して小さなものではない。君も適度な努力をもって練習に励めば必ずやそうなるだろう」
その後、第3部(p. 136)では、フィロマテスの兄であるポリマテスが、フィロマテスとともにグノリムスのもとを訪れ、ディスカント、つまり既存のプレーンソングに即興でパートを追加する技法のレッスンを受ける。[※1]
この兄は以前、ポケットにプレーンソングの楽譜を入れて持ち歩く教師からレッスンを受けており、彼も同じことをするように言われていた。
「それで、野原を歩きながら、彼はプレーンソングを歌い、私にディスカントを歌わせたのです」
ポリマテスはまた、彼の教師にはディスカントを歌う友人がいて、よく訪ねてきたが、「先生と一緒にいると必ず口論になった」と語っている。
「なんたること、お前はプロポルツィオを守っていないではないか」
「お前こそ間違った歌い方をしている」
「このプロポルツィオは何だ?」
「セスキパルテリーだ」
「いいや、お前はそれが何かわからずに歌っている。お前は床屋に行ってきたばかりのようだから、そこで《グレゴリー・ウォーカー》でも聴いたのだろう(これは《クアドラント・パヴァン》の別名であり、「床屋や大道芸人の間で最も一般的だった」)でなければ、近頃彼らが見つけた新しいプロポルツィオの『セスキブリンダ』や『セスキハーケンアフター』で弾いたコラントでも聴いてきたに違いない」。
[これらの「セスキパルテリー」「セスキブリンダ」「セスキハーケンアフター」といった用語は冗談であり、16世紀に実際に使用されていたセスキアルテラ(3つの等しい音符を2つの音符に対応させる)のような「プロポルツィオ」をもじったものである]
208頁では、フィロマテスとポリマテスの両者が若き大学生であって、将来的には「国家の重大事を任される」ことを期待していることがわかる。
彼らの授業は、最後に師に対して「作曲の指針となり、真面目な学問の後の気晴らしとなるような歌曲をいくつか教えてほしい」と願うことで締めくくられる。
これから、エリザベス女王の治世においては、貴婦人の客人が夕食後に「パート譜」から無伴奏で合唱することが「慣習」とされていたことがわかる。そして、合唱の「パート」を受け持つことができない者は、他の出席者から批判を受ける可能性があり、さらには、その者の教育に疑問が投げかけられるほどであったのだ。
また、ある音楽教師は、紳士階級の弟子たちを常に「自らのそばに」置き、彼らが「野原を歩きながら」歌の練習をするようにしていたことがわかる。
そして、楽譜を用いたパート合唱や、記譜されたプレーンソングに対して即興で第二声部(ディスカント)を歌うことは、こうした若き大学生たちの娯楽であり、勉強の後の適当な息抜きと見なされていたのである。
16世紀において、音楽は聖職者の教育に不可欠な要素と考えられていた。
1592年にバース・アンド・ウェルズ司教であったジョン・スティル博士について、ジョン・ハリントン卿がチャールズ一世の兄ヘンリー王子に宛てた書簡には、次のように述べられている。
「彼らの言うところの『bene le bene con bene can』すなわち『よく読むこと』『よく解釈すること』『よく歌うこと』ができなければ、誰も聖職者として剃髪を受けることはできなかった。そして、この最後の『よく歌うこと』について、彼は優れた判断力を持っていた」
また、ホーキンスの『音楽史』(p. 367)によると、ヘンリー八世によって創設されたケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの規則では、フェロー候補者の試験の一部として「Quid in Cantando possint」(歌唱において何ができるか)が課されていた。そして、実際「すべてのメンバーは聖歌隊の奉仕においてパートを歌う能力を備えていること」が求められていた。[※2](そのずっと以前の1463年には、音楽博士トマス・セイントウィクスがケンブリッジ大学キングス・カレッジの学長に選出されている)
すなわち、ヘンリー八世は次男として教会に仕える運命にあり、最終的にはカンタベリー大司教の座を目指していたが、優れた実践的音楽家でもあったことがわかる。エラスムスは、ヘンリー八世が教会の典礼音楽を作曲したと述べている。アンセム《O Lord, the maker of all things》はヘンリー八世の作とされ、ホーキンスは三声のモテット《Quam pulchra es》を王が作曲したものと紹介している。
チャペルの『古いイングランドの流行音楽』には、1515年頃の特命大使パスクアリゴの書簡の一節が引用されており、そこにはヘンリー八世が「リュートとヴァージナルを巧みに演奏し、楽譜を見て即座に歌うことができる」と記されている。また、第1巻には、ヘンリー八世が作曲した二つのパートソング《Pastyme with good companye》と《Wherto shuld I expresse》が掲載されている。
ヘンリー八世の些か不謹慎な娯楽について、ジョン・ハリントン卿(ジェームズ一世時代)の記述がある。『ブラック・サンクトゥス、あるいは聖サタンへの修道士の賛歌』と題された古い修道士の詩があり、ハリントンの父(ヘンリー八世の庶子と結婚した人物)がこれを三声のカノンに編曲した。そして、ヘンリー王は「陽気な気分のときにこれを歌うのが常であった」この楽曲と歌詞については、ホーキンスの著作(pp. 921-922)を参照のこと。
アン・ブーリンは熱心な音楽愛好家であり、ホーキンスによれば「ジョスカンとモートンの曲に夢中になり、自身と侍女たちのためにその楽譜を収集させた」
エドワード六世の日記によると、彼も音楽を嗜んでいたことがうかがえる。1551年7月19日、フランス大使の前で、自身の様々な特技を披露した際、そのひとつとしてリュートを演奏したことを日記に記している。
また、メアリー一世の母であるキャサリン王妃(アラゴンのキャサリン)からの書簡があり、その中で王女メアリーに対し「もし持っているなら、ヴァージナルやリュートを弾くように」と勧めている。
エリザベス女王については、優れたヴァージナル奏者であったという豊富な証拠が存在する。
最も有名なヴァージナル音楽の写本(ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館所蔵)は『エリザベス女王のヴァージナルブック』として知られてきた。そして、ホーキンスはロンドンで1752年に刊行されたメルヴィルの回想録から、次のような興味深い逸話を引用している。
同日の昼食後、ハンズドン卿が私を静かな回廊へと案内し、そこで音楽を聴くことができるようにしてくれた。(ただし、彼はそれを公にする勇気はないと言っていた)そこで私は女王陛下がヴァージナルを演奏するのを聴くことができた。私は部屋の扉の前に掛かっていたタペストリーをそっと脇へ寄せ、しばし立ち止まって女王陛下の見事な演奏を聴いた。しかし、女王陛下は振り向いて私の姿を見るや否や、すぐに演奏をやめてしまった。女王陛下は私の姿を見て驚いた様子で、こちらへ歩み寄り、まるで手で私を打とうとするかのようにしながら、人前で演奏はしない、憂いを払うために独りで弾くのだ、と仰られた。
[エリザベス女王のヴァージナルはサウスケンジントン博物館に所蔵されている]
王室の音楽家たちについて話を続けよう。(彼らは、その振る舞いによって当時の流行を作ったであろう点で興味深い)ジェームズ一世の治世において、チャールズ王子がコペラリオ(ジョン・クーパー)からヴィオラ・ダ・ガンバを学んだことが知られる。
また、プレイフォード(チャールズ二世時代)は、チャールズ一世について、「王はしばしば自ら礼拝の内容やアンセムを決めた」と述べており、「バス・ヴィオル(ヴィオラ・ダ・ガンバ)を見事に演奏した」とも記している。
生まれながらの宮廷人であったジョージ・ハーバートは、音楽を「最も重要な気晴らし」とし、「自ら多くの賛美歌やアンセムを作曲し、それらをリュートやヴィオルに合わせて歌った……。彼の音楽への愛は非常に深く、彼は毎週2度、ソールズベリー大聖堂に通い、帰宅すると、祈りと教会音楽に費やした時間は魂を高揚させ、まさに地上の天国だったと語った」。
しかし、この詩人兼聖職者であったハーバートは、単なる教会音楽愛好家ではなかった。ウォルトンの『伝記』によれば、「ベマートンへ戻る前に、彼は決まって私的な音楽会に参加し、そこで歌い演奏していた」のである。これはシェイクスピアの死から14年後のことであった。
1651年にオックスフォード大学に在籍していたアンソニー・ウッドは、オックスフォードにおけるヴィオル(それにヴァイオリンも。これはチャールズ二世の時代までに音量の小さいヴィオルに取って代わった)による室内楽の演奏習慣について、非常に興味深い記録を残している。
A.W.がよく通っていた私的な集まりにおいて、紳士たちはヴィオルを用いて三声、四声、五声の合奏を行っていた。すなわち、トレブル・ヴィオル、テナー、カウンター・テナー、バスの編成であり、そこにオルガン、ヴァージナル、またはハープシコードが加わることもあった。彼らはヴァイオリンを単なる大道芸人の楽器であると考え、それが演奏に加わることで集まりが軽薄で騒々しいものになるのを恐れ、決して受け入れようとはしなかった。
ウッドは、オックスフォードで行われていた週ごとの音楽会に通っていた。彼が「演奏に参加していた」と名を挙げる人物の中には、ニュー・カレッジのフェローが4名、オール・ソウルズ・カレッジのフェローで「卓越したリュート奏者」とされた人物、「ハリウェル(オックスフォード近郊)に住むカトリック信者で、「ヴィオルの滑らかで見事な演奏で称賛されていた」ラルフ・シェルドン氏、そして自身のカレッジで毎週音楽会を開いていたマグダレン・カレッジの文学修士が含まれている。この集まりには、アマチュアのほかに8人から9人のプロの音楽家も参加していた。
これは1656年のことであり、1658年にはウッドはさらに16名以上の人物の名前を挙げている。彼らは皆、カレッジのフェロー、文学修士、もしくは少なくとも大学の所属者であり、ウッドは彼らと共に演奏や歌唱を行っていた。その中には、「ニュー・カレッジの若手学生トマス・ケン」(のちにケン主教となり、革命時に罷免された七司教の一人)が含まれており、彼は「自身のパートを歌うことができた」。その他の者たちは、ヴィオル、ヴァイオリン、オルガン、ヴァージナル、ハープシコードのいずれかを演奏するか、あるいは『歌い手』であった。「彼らは毎週の集まりに頻繁に参加し、市井の音楽家たちと交わることで、大いに上達した」。
これらの集まりには、純粋な楽しみ以外の要素はほとんどなかったようである。32名のうち、好ましくない特徴を持つ者はわずか2名に過ぎなかった。すなわち、クライスト・チャーチのオルガニストであったミスター・ロウは「傲慢な男」で、「一般の音楽家が集まりに来るのが我慢ならなかった」。もう一人は「リンカーン・カレッジのフェローであり、ヴァイオリニスト兼ヴィオリストであったネイサン・クルー修士」であるが、彼は「常に音を外していた」。このクルー氏は後にダラム主教となった。
このように、16世紀および17世紀において、音楽の実践的な知識が、君主、身分の高い紳士、そして上層中産階級の教育の一環として一般的であったことがわかる。
ヘンリー八世は教会音楽を作曲し、同時に、彼の友人である高貴な紳士が作曲した三声のカノンを歌って楽しんでいた。同時代において、トリニティ・カレッジのフェローは礼拝で「自分のパートを歌う」ことが当然とされていた。エドワード六世、メアリー、エリザベスの三者が皆、リュートやヴァージナルの演奏に堪能であった。エリザベス朝時代の司教にとって、歌が上手であることは最低限の資質であった。また、生まれ育ちの良い若い大学生は、プリックソング(書かれたパート)やディスカント(即興の対位法)の技法を学ぶことを、特別なこととは思わなかったし、「パートソング」を歌って疲れを癒やすのが普通であった。シェイクスピアの時代のすぐ後、ジェームズ一世の廷臣や、不運な運命をたどったチャールズ王太子自身が、教会音楽と室内楽の双方に熱心であった。そして最後に、国王殺害の2年後には、オックスフォード大学が音楽教育の中心となっていた。後に司教、大執事、聖堂参事会員となった者たち、さらに16人のカレッジ・フェローや、多くの名家の紳士たちが、室内楽の演奏や合唱を実践することを恥じることなく、現代では類を見ないほど熱心に取り組んでいた。
また、より間接的な証拠ではあるが、下層階級の人々も上流階級と同じくらい音楽に熱心であったことを示すものが多く存在する。
同時代の著作には、パートソング(特に「キャッチ」)の合唱が、鍛冶屋、炭鉱夫、織工、靴屋、鋳掛け屋、夜警、田舎の聖職者、兵士たちの間で一般的な娯楽であったことが、はっきりと記されている。
『デイモンとピシアス』(1565年)では、炭焼のグリムが「唸るような低音」を歌い、彼の友人のジャックとウィルが「その上でクイデル(quiddel)する」、つまり旋律と歌詞を歌う。
ピールの『老妻物語』(1595年)には、「この鍛冶屋は王様のように陽気な生活を送っている。おいフロリック、お前も何か一曲ぐらい持っているだろう? 間違いなくクランチ(鍛冶屋)も自分のパートを歌えるはずだ」とある。
ボーモンとフレッチャーの『コックスコム』には、次のような一節がある。
その間、夜警たちはどこにいた? あの善良で真面目な紳士たちは
あいつらは市の用心深い奴らのように、
せっせとエールを飲み、キャッチを歌っていたのさ。
同じくボーモンとフレッチャーの『誠実な友』にはこうある。
ベル:お前らキャッチを歌うか?
カルヴ:ええ、中尉。
ブラック:俺が思うに、兵士[※3]ってのはキャッチ以外を歌うもんじゃない。知ってのとおりキャッチは俺らの人生だ。
ウィリアム・ダヴナント卿(1635年頃に活躍)の喜劇『ウィッツ』では、登場人物のスノアがこう言う。
「もう手遅れに違いない。私たちが行く前に、釘職人のノックはメイドたちと教理問答をして、キャッチを3つとソングを1つ歌い終えているだろう」
サミュエル・ハースネットは『驚くべき詐欺の暴露』(1603年)において「陽気なキャッチ」《神は老シメオンと共に》に言及し(これについてはリンボーの『イングランドのラウンド、カノン、キャッチ』を参照)、この歌が鋳掛け職人たちによって「火のそばに座り、足の間に良いエールのジョッキを置きながら」歌われていたと述べている。
また、『エドモントンの陽気な悪魔』(1631年)には、粉屋のスマグが陽気な牧師とエールハウスでキャッチを歌い、「お前の土地に俺の馬をつなぐ」という歌詞をあちこちで繰り返しているうちに、スマグがキャッチを歌っていることを忘れ、牧師と口論し始めるという滑稽な話がある。スマグは牧師が(歌の通りに)本当に自分の土地に馬をつなごうとしていると思い込んでしまったのだ。
最後に、トーマス・レイヴンズクロフトによって編纂された「三声、四声、五声、六声、七声、八声、九声、十声のラウンドとキャッチ集」『パンメリア』(1609年)には、興味深い序文がある。それによれば、「キャッチは非常に広く愛好されている……なぜなら、それらは普通の音楽的能力に合致しており、音楽への愛が技術を上回る人々にとっては、まことにありがたいものだから」と述べられている。さらに序文は、この本が「良き仲間たちを喜ばせるためだけに出版された」と断言している。
エリザベス朝およびシェイクスピア時代の下層階級における器楽について話を続けると、上のモーリー(1597年)の引用には、床屋で髭を剃ってもらう順番を待つ間に楽器を演奏する習慣についての言及がある。これはベン・ジョンソンの『錬金術師』と『静かな女』にも登場する。
後者の劇では、床屋のカットバードがモローズに妻を推薦する。モローズは寡黙な伴侶を期待していたのに、「鋭い舌を持つ」女性を娶らされてしまい、「あの忌まわしい床屋め! 俺は奴の皆が弾くシターンを娶ってしまった」と叫ぶ。これは、床屋のシターンが常に演奏されていたように、彼の妻も常にしゃべり続けていることを意味している。
18世紀に昔の時代について語った詩がある。
かつて、こう非難されていたものだ
床屋の音楽は最も野蛮だと
これが真実であったかどうかはともかく、16世紀と17世紀には、床屋で楽器が聴かれるのが慣習であったことは確かである。通常はシターンという、ギターのように4本の弦とフレットを持つ楽器が使われ、これは卑しい楽器と考えられていた。[※4]
器楽のもう一つの役割は、居酒屋の客を楽しませることだった。1643年に出版されたパンフレット『役者の抗議』は、1642年の劇場閉鎖に続く居酒屋での音楽の衰退について次のように述べている。
「我々の音楽は、かつては[つまりシェイクスピアの時代]非常に魅力的で貴重なものと見なされ、2時間で20シリング以下の報酬では居酒屋に来ることを軽蔑していたが、今や[1643年]、楽器を(持っているなら)マントの下に隠して家々を巡り、部屋ごとに『旦那方、音楽はいかがですか?』と声をかけてまわっている」
最後に、ゴッソンの『虐待学校の短い謝罪』(1587年)には、「ロンドンは益体もない笛吹きやフィドラーで溢れており、誰かが居酒屋に入れば、すぐに2、3人の連中が後をついてきて、彼が出ていくまで踊りを披露する」と書かれている。彼らはバラッドやキャッチも歌った。また、晩餐の間にも演奏した。リリー曰く「饗宴にフィドラーを呼ぶのは、祭りに乞食を呼ぶようなものだ」。
以上からの正当な結論として、もしある国が「音楽的」と呼ばれるに相応しいとしたら、それは16世紀と17世紀のイングランドであったといえる。
王も廷臣も、農民も耕作人も、それぞれが「パートを受け持つ」ことができ、音楽は各々の日常生活の一部であった。二分音符と四分音符の違いを知らないことは、紳士にとって恥ずべきこととされていた。
少なくともこの点において「古き良き時代」は確かに私たちが今目にする時代よりも優れていた。エリザベス朝時代には居酒屋の歌でさえ三声のカノンであり、それは現代では一流のプロの歌手でなければ初見で歌いこなすことができないようなものだったのだ。
第一章:専門用語と楽器
それでは、シェイクスピアの作品の中の音楽に関連する代表的な箇所を考察していこう。
これらはおおむね6つの分野に分けられる。
(1)専門用語と楽器
(2)音楽教育
(3)歌と歌唱
(4)セレナーデやその他の家庭的「音楽」
(5)ダンス
(6)その他、シェイクスピアが音楽のより精神的な側面について述べたものを含む
では、最初の分野から始めよう。専門用語が散りばめられた非常に興味深い箇所が多くあるが、読者はそれらをただ一般的な意味で理解しがちで、その結果、要点を完全に、または部分的に見逃してしまうことがある。適切な説明と、不明瞭に見える単語やフレーズを軽視しないように注意を促すことで、これらの箇所がより深い理解のもとで理解されるだろう。
以下に引用する例は、戯曲のものではないが、音楽的な比喩に満ちているため、最初に取り上げるのに良いだろう。
『ルークリースの凌辱』1124行
My restless discord loves no stops nor rests;
わが絶え間なき不協和音は、止まず休まず
A woful hostess brooks not merry guests.
悲しみに沈む主は、陽気な客人たちを拒む
Relish your nimble notes to pleasing ears;
そなたらの軽やかな音は歓喜の耳を愉しませよ
Distress like dumps, when time is kept with tears.
悲しみはダンプの如く、涙で拍子を刻む
(そしてナイチンゲールに向けて)
Come, Philomel, that sing'st of ravishment,
来たれ、フィロメル、凌辱の歌い手
Make thy sad grove in my dishevell'd hair:
わが乱れし髪の中に、汝の悲しき巣を作れ
As the dank earth weeps at thy languishment,
湿る大地が汝の憂いに泣くように
So I at each sad strain will strain a tear,
私も悲しき調べに涙を絞り
And with deep groans the diapason bear;
深い呻きでディアパソンを支える
For burden wise I'll hum on Tarquin still,
私はブルドンのようにタークィンを口ずさむ
While thou on Tereus descant'st better skill.
なれば汝はテレウスのディスカントをよく歌え
And while against a thorn thou bear'st thy part,
汝が棘に向かいて己の声部を受け持つは
To keep thy sharp woes waking....
鋭き悲しみを眠らせぬがため…
These means, as frets upon an instrument,
かくして、それは楽器のフレットのごとく
Shall tune our heart-strings to true languishment.
心の弦を真の憂いに合わせるだろう
ここでルークリースは、鳥たちに楽しげな音を止めるよう告げて、ナイチンゲールにテレウスの歌を歌うよう呼びかけ、自分は呻き声の「ブルドン(ドローン)」で支える。
最初の行には「休符(rests)」と「絶え間ない(restless)」という言葉遊びが含まれている。
「素早い音(Nimble notes)」は、シェイクスピアの時代には「華やかな音楽」という意味で使われた。
ルークリースはトリルや速いパッセージを楽しむ気分ではなく、むしろゆっくりと涙で拍子を刻める「ダンプ」を望んだ。ダンプ(スウェーデン方言の「dumpa」に由来、ぎこちなく踊るという意味)は遅く哀しい踊りだった。[付録参照]
1131行目には、「strain」の言葉遊びがある。ストレインはエリザベス朝において音楽作品の形式的な楽句を指す用語であった。
例えば、パヴァーヌについて、モーリー(『実用音楽入門』1597年)は、「ストレイン」は8、12、または16セミブレーヴ(現代では「小節」と呼ぶだろう)で構成されるべきだと述べている。「しかし8つ未満のパヴァーヌは見たことがない」。
「ディアパソン」はオクターヴの音程を意味する。ここでルクレースは、深い呻き声で「ディアパソンを支える」、つまりナイチンゲールの「ディスカント」よりも1オクターブ低い「ブルドン」ないしドローンを口ずさむと言っている。
既知の最古の「ブルドン」は、13世紀の古いラウンド《夏は来たれり》に見られる。この曲は四声部が以下の歌詞をカノンとして歌う。
Sumer is icumen in, Lhudè sing Cuccu,
夏は来たれり、高らかに歌え、カッコウ
Groweth seed and bloweth mead and springth the wdè nu,
種は育ち、牧場は花咲き、森は芽吹く
Sing Cuccu,
歌え、カッコウ
Awè bleteth after lomb, lhouth after calvè cu,
雌羊は子羊を求めて鳴き、雌牛は子牛を求めて鳴く
Bulluc sterteth, Buckè verteth, murie sing cuccu,
雄牛は跳ね、鹿は走る、陽気に歌え、カッコウ
Cuccu, Cuccu,
カッコウ、カッコウ
Wel singès thu cuccu, ne swik thu naver nu.
よく歌え、カッコウ、止むことなかれ
その間、他の2つの低声が「Sing cuccu nu, Sing cuccu」という単調なリフレインを歌い、ラウンドを歌う4人が疲れるまで果てしなく繰り返す。
このリフレインは「ペス」(または「フット」)と呼ばれ、ルークリースが「ブルドン」と言っているのはこのようなものを指す。「hum」という語は音楽用語ともみなせる。序文の「唸るような低音」に言及している箇所を参照。《Light o' love》という曲[付録参照]は、『から騒ぎ』第3幕第4場41行からわかるように、ブルドンなしで歌われることが多く、そのため「軽い」曲と考えられていた。『ヴェローナの二紳士』第1幕第2場80行を参照。
1134行目の「ディスカント」については説明を要する。「ディスカント」とは、書かれたメロディに対して即興的に第二の「パート」を歌ったり演奏したりすることを意味した。重要な点は、それが即興であるということである。もし書かれたものであれば、それは真のディスカントではなく、「プリックソング」と呼ばれた。
大まかな例としては、今も教会では即興的に歌われることのあるバスやアルトのパートが挙げられる。[※5]
より正確なディスカントの例は次のようなものである。Aが賛美歌、例えば《オールド・ハンドレッド》を歌い、BがAに即興的に和声の範囲内で別のメロディを付ける。エリザベス朝のディスカントの技術は、現代でいう「厳格対位法」(contrapunctus つまり「プリックソング」または「書かれた」ディスカント)に近いものであった。
1135行目の「bear a part」の現代の同等表現は「sing a part」である。[ソネットVIIIも参照]
当時、まともな教育を受けた人なら誰でも「bear a part」ができた。つまり、ホストが客の娯楽のために提供した作品のソプラノ、アルト、テノール、またはバスの「パート」を初見で歌うことができた。[序文参照]
1140行目。「楽器のフレット」は、現代でもマンドリン、ギター、バンジョーで見られるものである。シェイクスピアの時代、ヴィオル、リュート、シターンにはすべて指板にフレットがあったが、当時は単に適当な位置に弦を巻き付け、接着剤で固定しただけのものであった。その使用法は次の行で言及されており、弦を「tune(調律する)」、つまり各半音で正確に弦を「stop」することである。
1135-6行目について、ナイチンゲールが「棘に向かって歌い、目を覚まし続ける」という描写は、ヘンリー八世のお気に入りのパートソング《By a bank as I lay》の歌詞の中にも見られる。その詩にはナイチンゲールについて次のような行がある。
She syngeth in the thyke; and under her brest
彼女は茂みの中で歌い、その胸の下には
A pricke, to kepe hur fro sleepe.
棘がある、眠らぬように
これと密接に関連しているのが、『ヴェローナの二紳士』第1幕第2場76-93行におけるジュリアとその侍女ルセッタの会話で、プローテュースからの手紙についてのものである。
Jul. Some love of yours hath writ to you in rhyme.
ジュリア:あなたの恋人か何かが韻文で手紙を書いたのでなくて。
Luc. That I might sing it, madam, to a tune: Give me a note: your ladyship can set.
ルセッタ:私が節をつけて歌うのに、音符をくださいな。お嬢様ならできるでしょう。
Jul. As little by such toys as may be possible: Best sing it to the tune of "Light o' love."
ジュリア:そんな遊びにはできるだけ関わらないようにしているわ、《ライト・オ・ラヴ》の曲で十分よ。
Luc. It is too heavy for so light a tune.
ルセッタ:これはそんな軽い曲には重すぎます。
Jul. Heavy? belike, it hath some burden then.
ジュリア:重い? じゃあ、何かブルドンが付いているのね。
Luc. Ay, and melodious were it, would you sing it.
ルセッタ:はい、お嬢様が歌えば良い調べになりましょう。
Jul. And why not you?
ジュリア:あなたが歌えばいいじゃない?
Luc.I cannot reach so high.
ルセッタ:私にはそんなに高い音は出せませんよ。
Jul. Let's see your song.—How now, minion!
ジュリア:歌を見せてごらんなさい……まあ、こいつったら!
Luc. Keep tune there still, so you will sing it out; And yet, methinks, I do not like this tune.
ルセッタ:その調子を保ってくださればしっかり歌えます。でも、この曲はどうも気に入りません。
Jul. You do not?
ジュリア:気に入らない?
Luc. No, madam, it is too sharp.
ルセッタ:ええ、お嬢様、音が高過ぎます。
Jul. You, minion, are too saucy.
ジュリア:あなた、生意気よ。
Luc.Nay, now you are too flat, And mar the concord with too harsh a descant: There wanteth but a mean to fill your song.
ルセッタ:まあ、今度は低すぎます。その荒っぽいディスカントでは協和が台無しです。ミーン(中声部)が足りませんね、この歌を完成するには。
Jul. The mean is drown'd with your unruly base.
ジュリア:そのミーンは、あなたの騒々しいバスに埋もれてしまったのよ。
Luc. Indeed, I bid the base for Proteus.
ルセッタ:ええ、その通り、私はプローテュースのために卑怯(base)をしているのですもの。
おそらく、上で斜体にした言葉の多くが、今でも音楽家に普通に使われていることを指摘するだけで十分だろう。例えば、歌のピッチを「合わせる(set)」ために「音を与える(give the note)」こと、「調子を保つ(keep in tune)」こと、「しっかり歌う(sing out)」こと、あるいはある声が別の声に「埋もれる(drowned)」こと。例えば「ミーン(アルト)」が「バス」に埋もれるように。
ここでもまた、音楽用語を使った言葉遊びがある。ルセッタは「曲(tune)」つまり、プローテュースの手紙に対するジュリアの苛立ちが「高すぎる(too sharp)」と言い、また彼女自身を叱る態度が「低すぎる(too flat)」と言う。これは、どちらもラブレターの精神と「調和(concord)」しないことを意味している。ルセッタは中間の道、つまり「ミーン(アルト声部、トレブルとバスの中間)」を勧め、「歌を完成させる(fill the song)」つまり、ハーモニーを完全にすることを提案する。最後のルセッタの言葉遊びは、プローテュースの「卑怯(base)」な行動、つまりジュリアを捨ててシルヴィアに走ることについて幾分予言的に言及している。78行目と79行目で「set」が二重の意味で使われていることも見逃せない。
『ロミオとジュリエット』第3幕第5場25行、ロミオとジュリエットの夜明けの別れでは、ジュリエットの台詞においてヒバリの歌が音楽的な比喩を示している。
Romeo. How is't, my soul? let's talk, it is not day.
ロミオ:どうしたんだい、僕の魂よ? 話をしよう、まだ朝ではないだろう。
Jul. It is, it is; hie hence, be gone, away!
ジュリエット:いいえ、朝よ、朝よ、さあ早く行って!
It is the lark that sings so out of tune,
あんなにも調子外れに鳴いているのはヒバリ、
Straining harsh discords, and unpleasing sharps.
耳障りな不協和音と不快な嬰音を張り上げている。
Some say, the lark makes sweet division;
ヒバリは甘美なディヴィジョンをするという人もいるけど、
This doth not so, for she divideth us.
でもそれは違う、私たちを引き裂くのだから。
ジュリエットは明らかにポーシャに与しており「何であれ配慮を欠けば良くない」と考えている。ヒバリが夜明けを告げるので、ロミオは彼女を去らなければならず、そのためヒバリは「調子外れに」歌い、歌声は「不協和音」と「シャープ」で満ちている。
最後の2行には「ディヴィジョン(division)」という言葉を「私たちを引き裂く(she divideth us)」にかける、興味深い暗示が含まれている。ディヴィジョンとは簡単に言えば、長い音符のシンプルなパッセージをもとにした、短い音符の華麗なパッセージである。古風な変奏曲(《調子の良い鍛冶屋》のような)を指す用語に「音符分割(Note-splitting)」というのがあるが、これはそれ自体と、さらに古いディヴィジョンの説明にもなる。
《メサイア》の〈Rejoice greatly〉にディヴィジョンの明確な例が見られる。「Rejoice」の2番目の音節にある長い走句(4つの16分音符を組にした幾つかのグループからなる)は、まさしく各グループの最初の音符の「ディヴィジョン」ないし「音符分割」である。
しかし、この語にはさらに別の用法があり、それはヴィオラ・ダ・ガンバで「ディヴィジョン」を演奏することである。これは16世紀および17世紀の紳士たちに好まれた技能であった。サー・アンドルー・エイギュチークは、これを自身の技能の一つに数えている(『十二夜』第1幕第3場24行を参照)。
また、『ジョン・イングルサント』の読者は、「イングルサント氏は、求めに応じて、イタリア風にグラウンド・バスの上にディスカントを奏でた」という場面を思い出すだろう。グラウンド・バスの上にディスカントを奏でるとは、即興で「ディヴィジョン」ないし変奏を演奏することを意味した。その際、ハープシコード奏者は、「グラウンド・バス」の旋律を(適切な和音とともに)何度も繰り返し、そして、ヴィオル奏者がそれ以上ハーモニーの「ブレイキング(細分化)」を生み出せなくなるまで演奏が続けられた。
1665年、この技法に関する教則本が出版された。それは『Chelys Minuritionum』、すなわち「ディミニューションの亀甲」であるが(Chelys とは亀甲で作られた竪琴を意味する)、「ディヴィジョン・ヴィオル」とも呼ばれた。この本は、王党派の軍人で、著名なヴィオラ・ダ・ガンバ奏者でもあったクリストファー・シンプソンによるものである。この本は3部構成で、その第3部はグラウンド上でのディヴィジョンの演奏法に特化している。

彼自身の言葉を引用すると、「グラウンドに対するディミニューションあるいはディヴィジョンとは、バスないし、適用可能な任意の上声部をブレイクすることである。これを演奏する方法は以下の通り…」
「グラウンド(Ground)、主題(Subject)、あるいはバス(Bass)と、呼び方は任意だが、それは2つの別々の譜面に書き記される。1つは、オルガン、ハープシコード、またはこの目的に適した楽器でグラウンドを演奏する者のためのものである。もう1つは、ヴィオルを演奏する者のためのものである。彼はそのグラウンドをテーマないし主題として目の前に置き、自身の技量とその場での創意に応じて、それに調和するさまざまなディスカントやディヴィジョンを演奏するのである」
[付録にあるシンプソンによる例を参照]
さらに彼は、「グラウンド音のブレイキング」と、「グラウンド上のディスカント」を区別している。この「音をブレイクする(breaking notes)」という表現は、シェイクスピアのいくつかの箇所で言及される「ブロークン・ミュージック(broken music)」の部分的な説明として解釈されうる。
しかしながら、この語のより適切な説明は、おそらくリュートの本来的な不完全さにあるだろう。リュートは撥弦楽器であり(すなわち、弦を弓で弾くのではなく、指で弾く楽器である)、「崩れた(broken)」形でしかハーモニーを示すことができなかった。まず低音の音を弾き、それから音階の上の方でおそらく2つ程度の音を同時に鳴らす程度であったろう。演奏者は、聴き手が和音を補完して聴き取ることに頼らざるを得なかったのである。
全く異なる説明としては、チャペル氏が述べたものがある(オールディス・ライトのクラレンドン・プレス版『ヘンリー五世』にて)。すなわち、ヴィオルのコンソート(合奏)が不完全であった場合、つまり奏者の一人が欠けていた場合、その代わりに異なる種類の楽器、例えばフルートが用いられたとき、その音楽は「ブロークン」であると言われたのである。
[参照:マシュー・ロック『ブロークンおよびホール・コンソートのための作品集』(1672年)]
[オールディス・ライト氏に、ベーコンの『シルヴァ・シルヴァルム』第3巻278頁および『仮面劇と凱旋車について』を参照することを教示していただいた。これらの文献によると、「ブロークン・ミュージック(Broken Music)」とは異なる種類の楽器の組み合わせ全般を指すものと理解されていたことが分かる。『シルヴァ・シルヴァルム』において、ベーコンはよく調和するいくつかの「楽器のコンソート(consorts of Instruments)」について述べている。例えば、「アイリッシュ・ハープとバス・ヴィオルはよく調和する」「リコーダーと弦楽器はよく調和する」「オルガンと声はよく調和する」といった具合である。しかし、「ヴァージナルとリュートは…それほどよく調和しない」とも述べられている。これらすべて、および同じような組み合わせが『ブロークン・ミュージック』と呼ばれていたようである。]
この点については、『ヘンリー五世』第5幕第2場248行を参照せよ。ここではヘンリーがキャサリンに求婚している。
K. Hen. Come, your answer in broken music; for thy voice is music, and thy English broken; therefore, queen of all, Katherine, break thy mind to me in broken English: wilt thou have me?
ヘンリー王:さあ、「ブロークン・ミュージック」で答えてくれ。というのも、おまえの声は音楽であり、おまえの英語は「ブロークン」だからな。それゆえ、一切の女王たるキャサリンよ、「ブロークン・イングリッシュ」で心の内を私に「ブレイク」してくれ。私を受け入れてくれるか?
また、『トロイラスとクレシダ』第3幕第1場52行以降(後述)も参照せよ。
「break」の全く別の用法として、「ブロークン・タイム(broken time)」という表現がある。これは音符が本来の長さや比率通りに演奏されないという、単純明白な意味を持つ。これに関連して、ポンテフラクト城の牢獄におけるリチャード王の独白の一節を取り上げることにしよう。彼が外から聞こえてくる音楽を耳にする場面で、それは彼に好意を持つ者たちによって演奏されている。
『リチャード二世』第5幕第5場41行。獄中のリチャード王。
K. Rich.Music do I hear?
リチャード王:音楽が聞こえる?
Ha, ha! keep time.—How sour sweet music is,
はは! 拍子を守れ。なんと甘くもまずい音楽よ、
When time is broke, and no proportion kept!
拍子外れで、プロポルツィオを保てぬとは!
So is it in the music of men's lives.
人生の音楽もまた同じこと。
And here have I the daintiness of ear,
私は鋭敏な耳を持ち、
To check time broke in a disorder'd string;
乱れた弦の拍子の外れを指摘することはできても、
But, for the concord of my state and time,
しかし、自身と時勢の調和については、
Had not an ear to hear my true time broke.
まことの拍子外れを聞き取る耳を持たなかったのだ。
* * * * *
This music mads me: let it sound no more:
この音楽は私を狂わせる。もう鳴らすな。
For though it hath holp madmen to their wits,
それは狂人を正気に戻したこともあるが、
In me, it seems, it will make wise men mad.
私には、賢者を狂わせるものに思える。
ここでの比喩は完璧であり、「time broke」に関する言葉遊びも見事である。「45行目において、リチャードは音楽における「ブロークン・タイム」を聞き取る自らの鋭敏な「耳」と、彼自身と時代の「ブレイキング」を聞き取ることのできなかった鈍さとの、悲しい対照について省察している。「乱れた弦」とは彼自身のことであり、彼は自らのパートを「拍子を外して」演奏していたのだ。
(「disorder'd」とは単に「本来あるべき場所を外れた」という意味であり、現在の表現で言えば「1小節間違えた」というようなものである)
その結果、「調和(concord)」、すなわち、国家を構成する諸要素の和声を崩してしまったのである。
プロポルツィオ(Proportion)について、少し説明を加えておく必要がある。この語はエリザベス朝時代には、現在の「拍子(Time)」とほぼ同じ意味で用いられていた。現代の音楽で用いられる「拍子」は、実質的に2種類に整理される。すなわち、二拍子(Duple、1小節に2拍)と三拍子(Triple、1小節に3拍)である。しかし、エリザベス朝時代の「プロポルツィオ」の分類表は非常に複雑なものであった。もちろん、これらの「プロポルツィオ」の多くは実際にはほとんど使用されなかったが、それでも、すべてを整理した後にも、なお多くの謎が残された。
モーリーは『入門』(1597年)において、「最も一般的に使用される」5種類のプロポルツィオを挙げている。すなわち、デュプラ(Dupla)、トリプラ(Tripla)、クアドルプラ(Quadrupla)、セスキアルテラ(Sesquialtera)、セスキテルティア(Sesquitertia)である。
最初の3つは、現代でも使用されている二拍子、三拍子、四拍子に相当する。つまり1小節に2拍、3拍、4拍である。「小節(Bars)」という概念は16世紀末までは一般的ではなかったが、その原理としては同様であった。小節線自体は単に便宜を図るためのものである。
セスキアルテラはより複雑であり、「同種の音符2つに対して3つの音符を歌う」ことを意味する。そしてセスキテルティアは、「同種の音符3つに対して4つの音符を歌う」ことを指す。
「しかし」(とモーリーは付け加える)「歌唱法を学ぼうとする者がフランキヌス・ガウフリウスが著書『De Proportionibus Musicis』[1496年]に記したすべてのプロポルツィオを習得しようとするならば、それは困難どころか、ほとんど不可能なことであると感じるだろう」
オルニトパルクスは、その著書『ミクロログス』(1535年)において、このプロポルツィオという主題が、より「学識ある」著述家たちによってどのように扱われていたかを示している。彼曰く、
(1)音楽が考慮するのは、不均等なプロポルツィオのみである。
(2)これには2種類がある。すなわち大きな不均等と小さな不均等である。
(3)大きな不均等には五つのプロポルツィオが含まれる、すなわち「multiplex」 「superparticular」「superpartiens」「multiplex superparticular」「multiplex superpartiens」である。
これは理解を促すというよりは、むしろ滑稽と言えるだろう。
この一節の最後の3行は、特定の楽曲を用いた病の治療に関する、事実か作り話かはともかく、さまざまな逸話に言及している。
そのような病の中でも最もよく知られているものの一つが、「タランティズム」、つまりイタリアにおいてタランチュラの咬傷によって引き起こされる狂乱状態のことである。博識なイエズス会士であったアタナシウス・キルヒャー(1601 - 1680)は、その著書『普遍音楽』において、この狂気が特定の旋律によって治癒されるという話を伝えている。その旋律によって患者は激しく踊り、その際に生じる発汗が治療効果をもたらすのだという。また、キルヒャーは『新音響学』(1673年)において、実際にある症例が治癒したとされる楽曲の楽譜を掲載している。この文脈において、キルヒャーはサウル王の狂気にも触れており、それがダビデの竪琴の演奏によって和らげられたとされる。これをシェイクスピアも念頭に置いていた可能性がある。[ジョージ・ハーバートの詩『最後の審判』第2連を参照]
現代の「タランテラ」は、その名称と特徴的な速いテンポを、かつての「タランチュラ」に負っている。
『リア王』第1幕第2場137行。エドマンドはエドガーの登場に気づかないふりをする。
Edmund (aside). Pat he comes, like the catastrophe of the old comedy: my cue is villainous melancholy, with a sigh like Tom o' Bedlam.—O! these eclipses do portend these divisions. Fa, sol, la, mi.
エドマンド(傍白):ちょうどいい、奴が来たぞ。古い喜劇の幕切れのようだ。俺の役どころは、酷い憂鬱症、《トム・オ・ベドラム》のような嘆息。おお! 蝕はこの決裂の前兆だったのだ。ファ、ソ、ラ、ミ。
《Tom o' Bedlam》のような歌、いわゆる「マッドソング」は、17世紀のイングランドで非常に広く歌われていた。オリジナルの《Tom o' Bedlam》の旋律と歌詞は、チャペルの『古い流行音楽』第1巻175頁に掲載されている。その成立は1626年以前とされ[※6]、第1連は「痩せ衰え飢えたゴブリンから(From the hagg and hungrie Goblin)」で始まり、『リア王』第3幕のように「哀れなトム(Poor Tom)」の叫びに満ちている。
最後の一文には、「divisions(分裂/ディヴィジョン)」という語の二重の意味を巧みに利用した言葉遊びがある。この直後の数行で、エドマンドは蝕の後に生じるとされる「親子の断絶、古き友情の解消、国家の分裂」等の「分裂」について説明している。しかし、引用部分で彼の頭には「ディヴィジョン」の音楽的な意味もよぎっている。それで彼はすかさず、「ファ、ソ、ラ、ミ」と口ずさむことで、エドガーの存在に気づかぬふりを続けるのである。
[バーニーは『音楽通史』第3巻344頁において、この箇所について興味深い見解を述べている。すなわち、エドガーは[訳注:原文ママ]この音楽的なフレーズを用いて、親子の不自然な断絶などに言及しているという。このフレーズには増四度、すなわち「mi contra fa」が含まれており、古い音楽理論家たちはこれを「悪魔の音程(diabolus est)」と称していた]
グイード・ダレッツォ(またはアレティヌス)は、『ミクロログス』(1024年頃)の中で、ヘクサコルド(例: C, D, E, F, G, A)の6音に「Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La」という名称を与えた。これらは聖ヨハネ賛歌の各節の冒頭音節を取ったものであり、その歌詞と旋律は、ホーキンズの著作(163頁)に記されている。
Ut queant laxis
Re-sonare fibris
Mi-ra gestorum
Fa-muli tuorum
Sol-ve polluti
La-bii reatum, Sancte Joannes
その大意は以下の通り。
「あなたのしもべが心のままにあなたの偉業を称えられるように、聖ヨハネよ、穢れた唇の罪から私たちを解き放ちたまえ」
この詩の古い旋律で大文字で示された音節に割り当てられた音は順に C, D, E, F, G, A であった。そして、16世紀になっても同じ音節が歌唱に用いられていた。しかし、音階はより少ない名称で容易に表現できることが認識され、そのため、クリストファー・シンプソンは自著『概論』(1667年)の中で、「Ut と Re は不要であり、それゆえ多くの現代の教師たちによって廃されている」と述べている。彼の著書では、全音階8音は「Fa, Sol, La, Fa, Sol, La, Mi, Fa」と名付けられている。
しかし、現代のトニック・ソルファ唱法の実践者は、この体系をまったく異なるものとして理解するだろう。「C, D, E」は、それぞれ「Do (Ut), Re, Mi」と呼ばれ、続く「F, G, A」は「Fa, Sol, La」となる。そして「導音」(最高音の一つ手前)は、Si の代わりに Ti と呼ばれる。そしてオクターブ上の C から再び Do で始まる。
読者は「C, D, E」の音程関係が、次の3音「F, G, A」の関係とまったく同じであることを思い出されるだろう。すなわち、C から D は全音、D から E も全音であり、F から G、G から A も同様である。したがって、半音で区切られたこれら2組の3音は、同じ名称で呼ぶことができ、それが「Fa, Sol, La」である。このようにして、音階の最初の6音は「Fa, Sol, La, Fa, Sol, La」となる。そして、最後に残る一音、すなわち導音の B は、シンプソンの体系では Mi と呼ばれる。したがって、当時のソルミゼーションにおいて最も重要なことは「Mi を見つける」ことであり、これは現代的に言えば「調を特定する」ことであった。例えば、C調では Mi は B にあり、G調では Mi は F♯ にあり、F調では Mi は E にあるという具合である。残りの6音は先述の通り「Fa, Sol, La, Fa, Sol, La」と名付けられる。したがって、エドマンドの「Fa, Sol, La, Mi」は「F, G, A, B」に対応するが、「C, D, E, F♯」、あるいは「B♭, C, D, E」にも対応する。つまり、歌手がどの音高を基準にするかによって異なるのである。
これに関連して以下の一節を見よ。
『じゃじゃ馬ならし』第1幕第2場16行。
Petr. 'Faith, sirrah, an you'll not knock, I'll wring it:
ペトルーチオ:誓って言うがな、もしお前が叩かんのなら、ひねってやるぞ。
I'll try how you can sol, fa, and sing it.'
お前が「ソル・ファ」ができるか、歌えるか試してやろう。
[He wrings Grumio by the ears.
(グルーミオの耳をひねる)
ここでは「wring(ひねる)」と「ring(鳴らす)」の語呂合わせが使われている。また、「sol-fa」は「歌う」の同義語として用いられている。
さらに重要なのは、「ホーテンシオのガムート」である(『じゃじゃ馬ならし』第3幕第1場72行)。「Gam-ut」とは、最も低い「Ut」の名称であり、「現代のバス譜表の最下線にある低い G に相当する。この音は特別にギリシャ文字の Γ(ガンマ)で表記されたため、「Gam-ut」と呼ばれるようになった。この語はやがて「音階」の同義語となった。この一節に登場する音名は、16世紀から17世紀のあらゆる教則本に見られるものと同じである。
Gam-ut I am, the ground of all accord,
「Gam-ut」我はすべての和声の基礎なり
A-re, to plead Hortensio's passion;
「A-re」ホーテンシオの情熱を訴え
B-mi, Bianca, take him for thy lord,
「B-mi」ビアンカよ彼を夫とせよ
C-fa-ut, that loves with all affection:
「C-fa-ut」すべての愛情をもって愛する
D sol, re, one cliff, two notes have I:
「D sol, re」一つの譜表に二つの音
E la, mi, show pity or I die.
「E la, mi」憐れみ給え、さもなくば我は死に至らん
ここでホーテンシオは、音楽教師の教える「ガムート(音階)」に偽装して恋の詩を織り交ぜている。これらの詩行はそれぞれの音節に対する幻想的な注釈としても、またビアンカに向けた隠れた意味を持つものとしても解釈できる。たとえば、当時の音階の最低音であるガムートは「すべての和声の基礎」と呼ばれている。「A-re」はおそらく恋人のため息を表し、「情熱を訴える」ものだろう。「B-mi」は、その行の残りの言葉の意味を考えれば、「Be mine(私のものになれ)」と解釈できるかもしれない。一方、「D sol, re 一つの譜表に二つの音」は、明らかにホーテンシオの変装を指している。「cliff」は現在「クレフ(音部記号)」ないし「キー」と呼ばれるものである。つまり楽譜上のその位置が半音と全音の配置を決定する「鍵」となっている。ここで言及されている6つの音は、バス譜表における「G, A, B, C, D, E」である。それらは(現在と同様に)1つのクレフ、すなわちヘ音記号でしか記されなかった。「二つの音」という表現はD音に関して使われており、G調では D は「sol」と呼ばれ、C調では「re」と呼ばれることを意味する。ちょうどホーテンシオがホーテンシオでありながら、同時に歌の教師に扮しているのと同じである。
書かれた旋律に即興で対位法を加える技術は「ディスカント」と呼ばれていたことはすでに述べた。書かれた旋律自体は「プレーンソング」と呼ばれていた。したがって、プレーンソングとディスカントを合わせた全体の演奏も「プレーンソング」と呼ばれるようになった。
これに対し、プレーンソングに記譜されたディスカントを加えて演奏する場合は「プリックソング」と呼ばれた。
モーリーは、即興のディスカントがしばしば満足のいかない演奏になること、特にプレーンソングに対して即興のパートを一度に複数加えようとした場合はなおさらであることを明確に示している。
「全員が最高に優れた音楽家であったとしても……互いに正確に合わせることは不可能である」
以下の一節を読めば、この点がより明らかになるだろう。
『ヘンリー五世』第3幕第2場3行。アルフルールの戦い。
Nym. Pray thee, corporal, stay: ... the humour of it is too hot, that is the very plain-song of it.
ニム:伍長殿待ってくれ、熱くなりすぎだ、なんてプレーンソングだ。
Pistol. The plain-song is most just, for humours do abound.
ピストル:正しいプレーンソングさ、気質旺盛だ。
* * * * *
第41行
Boy (speaks of the 3 rogues).... They will steal anything, and call it purchase. Bardolph stole a lute-case, bore it twelve leagues, and sold it for three half-pence.
少年(三人の悪党について話す):……奴らは何でも盗んで、それを戦利品と呼ぶ。バードルフはリュートのケースを盗んで、十二リーグも運び、それを三ハーフペンスで売った。
フォルスタッフの勇敢な護衛たちは、戦いでの激しい打撃に疲れつつある。ニムは、彼らの最近の活動をやや華やかな「プレーンソング」(即興のディスカント、上述の通り)に例えている。ピストルは、それは「正しい」プレーンソングだと言う。「正しい」プレーンソングとは、歌い手が即興のディスカントを「間違った和音や禁止されたディスカントを歌うことなく」うまくやり遂げたことを意味する。同様に、古参兵と伍長の両者が、小競り合いに参加して、なるべく大怪我を避け得たことにはほとんど疑いの余地はない。
41行目の少年の言葉からは、バードルフが音楽愛好家の仲間入りをしたと言い難い。いずれにせよ、彼はリュートケースを盗み、それをとても気に入ったようで、36マイルも運んだ後、ついに彼のより悪い本性が勝り、1.5ペンスで売ってしまった。
次の引用は、ジャック・フォルスタッフとその仲間たちに関するもので、彼らは(歴史に厳密に従えば)皆、実践的な音楽家であったようだ。今回、彼らはディスカントではなく、プリックソングについて話している。プリックソングにおける最も重要な美徳は(おそらく聖俗両方の多声音楽を理解していたフォルスタッフとニムによれば)「拍子を守る」ことであり、休符を敬虔に数えることである。「1、2、3、そして3つ目は胸にしまう」そして歌い始めたら「拍子、音程、プロポルツィオ」を守らなければならない。マーキューシオがティボルトに剣術について言ったように(『ロミオとジュリエット』第2幕第4場20行参照)。
『ウィンザーの陽気な女房たち』第1幕第3場25行。
Falstaff (of Bardolph) ... his thefts were too open; his filching was like an unskilful singer, he kept not time.
フォルスタッフ(バードルフについて)...奴の盗みはあまりに節操がなかった。奴の盗み方は下手な歌い手のようで、拍子を守らなかった。
Nym. The good humour is to steal at a minim's rest.
ニム:二分休符の間に盗むのが上々ってものだ。
[「minims」 は現代の推測]
この比喩は、例えば四声のアンセムやマドリガルに関するものである。「ガーター亭」の女将がカントゥス、給仕がアルトゥス、主人がテノール、そしてニムがバスを担当していると仮定しよう。先の3人(女将、給仕、主人)は、それぞれの「パート」に熱心に取り組んでいる。1人は厨房で、もう1人は酒場で、3人目は玄関先で親しげに会話をしている。しかし、ニムには「二分休符」があり、その短い休息の間に、他の3人の「歌手」が熱中しているのをいいことに、手の届く範囲にある持ち運び可能なものを何でも盗もうとする。「二分休符」は短い時間だが、肝要なのはそこである。音楽家なら誰でも、短い「休符」の間に何ができるかを知っているだろう。例えば、弓に松脂を塗ったり、楽譜の次の数ページの角をめくったり、ガスランプをつけたり、別の本に登場したり。
それでは次の例に移ろう。
『ペリクリーズ』第1幕第1場81行。ペリクリーズがアンティオコス王の娘に語りかける。
Per. You're a fair viol, and your sense the strings,
ペリクリーズ:そなたは美しきヴィオル、その感覚は弦、
Who, finger'd to make man his lawful music,
もし正しく音楽を奏でれば、
Would draw heaven down and all the gods to hearken;
天を引き寄せ、すべての神々に耳傾けさせるだろう。
But being play'd upon before your time,
しかし、時ならぬうちに奏でられれば、
Hell only danceth at so harsh a chime.
地獄だけが耳障りな音に合わせて踊るだろう
ペリクリーズは、妻に対する正当な愛を、優れたヴィオル奏者の演奏になぞらえている。その演奏に求められる適切な特性は、「調子があっていること(in tune)」と「拍子を守ること(in time)」である。
第84行における比較では、この娘の道ならぬ情熱が、悪いヴィオル奏者の「外れた」演奏になぞらえられている。その奏者は、いわば「ずれて」しまい、「時ならぬうちに」演奏してしまうことで、音楽を完全に台無しにし、それは天使ではなく悪魔のための舞踏となってしまう。
エリザベス朝時代において、確かにヴィオルは弓で奏される弦楽器で最も重要であった。ヴィオルには3つの異なるサイズがあった。読者はヴィオルのサイズとその使用法について十分に正確な理解を得ることができるだろう。すなわち、トレブル・ヴィオルは現代のヴァイオリンに近く、テナー・ヴィオルは現代のヴィオラ(アルト、テナー、またはブラッチェとも呼ばれるもの)に相当し、バス・ヴィオルまたはヴィオラ・ダ・ガンバ(膝の間に挟んで演奏することに由来する名称)は、現代のチェロに相当する。
現代の弦楽器との主な違いは、すべてのヴィオルが6本の弦を持っていたのに対し、現在では4本より多い弦を持つ「フィドル」は存在しないことである。
第2の違いとして、すべてのヴィオル属の楽器には、音の位置を示すためのフレットが指板に備えられていたのに対し、現代の楽器の指板はすべて滑らかであり、奏者はそのような補助なしに指の位置を決めなければならない点が挙げられる[※7]。
ジョン・プレイフォードは『音楽技能入門』(1683年)でヴィオルについて説明している。ケンブリッジのトリニティの聖歌隊員であったトーマス・メイスは『音楽の記念碑』(1676年)でヴィオルやその種の楽器がどれだけ必要か詳細な指示を与えている。
これらの書物から、ヴィオルは常に6つ組で保管されており、2つのトレブル、2つのテナー、2つのバスの組が「チェスト(箱)」とされていたことがわかる。
メイスはまた、トレブル・ヴィオルの弦はバス・ヴィオルの弦の半分の長さであり、テナーはその間の中間のサイズであるとも述べている。
また、彼はこれに加えて、陽気な場面に使うためにヴァイオリンを2つ(当時はやや庶民的で騒々しい楽器と考えられていた)と、2つの「力強い、フルサイズのテオルボ[※8]」を加えれば、「世界一の王侯を楽しませる準備が整う」と述べている。
バス・ヴィオルの6本の弦の調弦は、バス譜表上において、以下のように配置されていた。
第1弦(トレブル)は譜表上のD。
第2弦(スモール・ミーン)は最上線のA。
第3弦(グレート・ミーン)は第3間のE。
第4弦(カウンター・テナー)は第2間のC。
第5弦(テナーまたはガムート)は第1線のG。
第6弦(バス)は譜表下の低いD。
最も完全なヴィオルには、半音階的に配置された7つのフレットが備えられており、そのためバス・ヴィオルないしヴィオラ・ダ・ガンバの音域は、バス譜表の下のDからトレブル譜表の第2間のAまで、およそ2オクターブ半に及んだ。
[サウス・ケンジントン博物館には、現在も12のフレットを残しているヴィオラ・ダ・ガンバが収蔵されている。その音域はほぼ3オクターブに達することになる]
テナー・ヴィオルの最上弦は、トレブル譜表の第2線上のGに調弦され、残る5本の弦は、バス・ヴィオルの上位5本の弦と同じ音高であった。
トレブル・ヴィオルは(前述の通り)、バス・ヴィオルのちょうど1オクターブ上に調弦された。
ヴィオルの音色は、現代の弦楽器とよく似ているが、主な違いは音がやや弱く、より穏やかである点にある。その理由は、ヴィオルでは力強いボウイングが危険を伴うためである。というのも、駒の湾曲上に6本の弦が配置されているため、4本の弦しか持たないヴァイオリンよりも、一度に2本、あるいは3本の弦を誤って弾いてしまう可能性が高く、より注意が必要となるからである。
音楽愛好家は、自宅に6つのヴィオルからなる「チェスト」を備えており、音楽仲間が訪れた際には、通常「ファンシー」(または「ファンタジア」)を演奏した。『ヘンリー四世』後編、第3幕第2場323行を参照。これらの楽曲は、参加者の人数に応じて、二声から最大六声までのパートに分かれて演奏された。
この種の音楽を作曲した者の中には、多くの作曲家がいるが、著名な者としては、ジョン・ジェンキンズ、クリストファー・シンプソン、ウィリアム・ローズ、コペラリオ(ジョン・クーパー)、そしてイタリアのモンテヴェルディが挙げられる[訳注:?]。これらの楽曲では、オルガンや他の鍵盤楽器がヴィオルと共に演奏し、「コンソート」と呼ばれる合奏の和音を補完することが一般的であった。
現在でも、オーケストラにはヴィオル属の楽器が1つ残っている。コントラバス(またはヴィオローネ)は、「チェスト・オブ・ヴァイオルズ」の直系の子孫である。特に肩の部分の形状が顕著であるが、他にも、胴部の緩やかなカーブ、背面の輪郭、さらには弓の形状に至るまで、その特徴を備えている。
ヴィオラ・ダ・ガンバで即興的な変奏を演奏することは、当時の紳士の優雅な教養の一つとしてすでに言及した通りである。したがって、以下の2つの引用については、特に補足の説明を要しないであろう。
『十二夜』第1幕第3場24行
Maria [of Sir Andrew Aguecheek] ... he's a very fool, and a prodigal.
マライア(サー・アンドルー・エギュチークについて):……彼はまったくの馬鹿者で、放蕩者ですよ。
Sir Toby. Fie, that you'll say so! he plays o' the viol-de-gamboys ... and hath all the good gifts of nature.
サー・トービー:なんてことを言うんだ! あいつはヴィオラ・ダ・ガンバを弾けるんだぞ……それに、天性のすばらしい才能をすべて備えている。
『リチャード二世』第1幕第3場159行、ノーフォークの追放。
Norfolk. The language I have learn'd these forty years,
ノーフォーク:私がこの四十年間学んできた言葉、
My native English, now I must forego;
母語である英語を、今や捨てねばならぬ。
And now my tongue's use is to me no more
そして、もはや私の舌は、
Than an unstringed viol, or a harp;
弦のないヴィオルやハープの如し。
Or like a cunning instrument cas'd up,
あるいは、仕舞い込まれた名器、
Or, being open, put into his hands
あるいは、開かれ、手に取られても、
That knows no touch to tune the harmony.
それはハーモニーを奏でる技を知らぬ者。
1650年まで、ヴァイオリン属の楽器は音楽家の間で不安定な立場にあった。しかしその後、ヴィオルは急速に人気を失い、18世紀初頭にケンブリッジのタドウェイ博士が息子への手紙の中で「チェスト・オブ・ヴァイオルズ」について詳述しているが、そのことから1700年までに完全に廃れていたことが明らかである。
ヴィオルが廃れると、ヴァイオリンがその座を占め、それ以来その地位を保ち続けている。ヴァイオリン属の楽器は、ルイ十四世の宮廷の庇護のもとで広く普及し、流行するようになった。それゆえ、イギリス国民は「ダブレットはイタリアで、ラウンドホーズはフランスで、ボネットはドイツで買い、振る舞いはあらゆる場所から学ぶ」という昔ながらの習慣に忠実に「フレンチ・フィドル」を取り入れ、自国の伝統であった「チェスト・オブ・ヴァイオルズ」を見捨てることとなった。
この音楽にも及んだフランス流儀への傾倒は、以下の箇所でも言及されている。
『ヘンリー八世』第1幕第3場41行。イングランドにおけるフランス趣味の流行。
Lovell. A French song, and a fiddle, has no fellow.
ラヴェル:フランスの歌とフィドルには敵わぬ。
Sands. The devil fiddle 'em! I am glad they're going,
サンズ:くたばれ、フィドル弾きめ! 消え失せてくれてありがたい。
For, sure, there's no converting of 'em: now,
宗旨替えなど無理な相談。
An honest country lord, as I am, beaten
自分のような堅気の田舎貴族は、
A long time out of play, may bring his plain-song,
長らく追いやられていたが、ようやくプレーンソングを披露し、
And have an hour of hearing: and, by'r lady,
ひととき耳を傾けてもらえる時が来たのだ。そして、まことに、
Held current music too.
流行りの音楽としても認められよう。
いまだ説明の足りない唯一の語は「current music」であるが、これは単に、サンズ卿が言及している古い技芸が、依然として「最新」のものと見なされ、流行に適うという意味だと私は思う。
家庭で広く使われていたもう一つの楽器にリコーダーがあった。これはフラジオレットに似た「ビーク・フルート」の一種である。ベーコン卿によれば、この楽器は円錐形の管体を持ち、6つの指穴があったという。したがって、現代のオーボエと概ね同じ形状をしていたが、リードの代わりに「ホイッスル」マウスピースで演奏された。
この6つの穴は、現在でもペニーホイッスルや、楽器店で見られる真鍮製のフラジオレットに見ることができる。
リコーダーはその甘美な音色で知られていた。詩人たちは「record」という語を、鳥のさえずり、特にナイチンゲールの歌声を意味する言葉として用いた。
ホーキンスは「Fistula Dulcis, seu Anglica(甘美な笛、あるいはイングランドの笛)」をこれに同定し、次に引用する文を説明するのに役立つ2つの図を示している。
サウス・ケンジントン博物館には、黒木で作られたリコーダー[※9]が所蔵されており、これは実質的に大型のフラジオレットにほかならない。このリコーダーの長さは2フィート2インチであり、その管の内径は現代のフラジョレットや古いフルートと同じく円錐形で、広い方の端が奏者の口に近い構造となっている。
『ハムレット』第3幕第2場346行。リコーダーを持った役者たちが登場。
Ham. O! the recorders: let me see one....
ハムレット:おお、リコーダーか。ひとつ見せてくれ……
351行
... Will you play upon this pipe?
……吹いてみるか?
Guildenstern. My lord, I cannot.
ギルデンスターン:殿下、できません。
* * * * *
Ham. It is as easy as lying: govern these ventages with your finger and thumb, give it breath with your mouth, and it will discourse most eloquent music. Look you, these are the stops.
ハムレット:そんなのは嘘をつくのと同じくらい簡単だ。この穴を指と親指でふさぎ、口で息を吹き込めば、実に雄弁に音楽を奏でる。見ろ、ここが音栓だ。
Guil. But these cannot I command to any utterance of harmony: I have not the skill.
ギルデンスターン:しかし、私にはこの笛からハーモニーを引き出すことができません。その技量がないのです。
Ham. Why, look you now, how unworthy a thing you make of me. You would play upon me: you would seem to know my stops; ... you would sound me from my lowest note to the top of my compass; and there is much music, excellent voice, in this little organ [the recorder], yet cannot you make it speak. 'Sblood! do you think I am easier to be played on than a pipe? Call me what instrument you will, though you can fret me, you cannot play upon me.
ハムレット:それならお前は私を馬鹿にしているのだ。お前は私を演奏しようとし、私の音栓を知っているかのように振る舞う……私の最低音から最高音まで鳴らそうとする。ここにある小さなオルガン[リコーダー]には素晴らしい音楽が宿っていながら、お前はそれを鳴らすことさえできないのに。畜生め! まさか私がこんな笛よりも簡単に演奏できると思うのか? 好きな楽器にたとえるがいい。しかし、たとえ私をかき乱すことはできても、演奏することはできない。
笛の穴は常に「通風孔(ventages)」と呼ばれてきた。これは、指を離すとそこから「風」が通るためである。それらは「指と親指」で「支配された(governed)」。メルセンヌ(1588年生)の図版のひとつには、前面に4つ、背面に2つの穴を持つ円錐形のフルートが描かれている。後者の穴は当然ながら親指で操作され、他の穴は両手の指でふさぐ形になる(現代のフラジオレットにも、背面に親指用の穴が残っている)。同時代には、より高級なタイプのビーク・フルートもあり、穴に加えていくつかのキーが備えられていた。
ハムレットが言及した「音栓(ストップ)」とは、単に「通風孔」のことである。指や親指で穴をふさぐ行為は「ストッピング」と呼ばれていた。さらに、メルセンヌが示した「Fistula Dulcis」の一例には、最低音のための異なる穴が左右に1つずつあり、右利き・左利きのどちらでも演奏できるようになっていた。この2つの穴のうち、一方は一時的に蝋でふさがれていた。[最後の行の「fret(フレット/悩ます)」にかけた言葉遊びも見逃せない]
次の引用では、ライサンダーが馬の調教にたとえた比喩を引き継ぐ形で、ヒッポリュタが「ストップ」の意味をもじってリコーダーに適用している。
『夏の夜の夢』第5幕第1場108行。序詞役が句読点をまったく無視して話す。
Theseus. This fellow doth not stand upon points.
シーシュース:この男は句読点を無視してるな。
Lysander. He hath rid his prologue like a rough colt; he knows not the stop....
ライサンダー:彼はまるで荒馬に乗るようにプロローグを駆け抜けた。止めることを知らないのだ…
Hippolyta. Indeed, he hath played on this prologue like a child on a recorder, a sound, but not in government.
ヒッポリュタ:本当に、プロローグをまるで子供のリコーダーのように奏でてしまった。音は出ても、抑えが効かない。
つまり、序詞役は句読点をすべて誤った位置に置いているのだ。止まることを知らない若馬のように、そしてリコーダーの穴をうまく塞げない子供のように。
鍵盤楽器の中で最も人気のあったヴァージナルが、シェイクスピアの作品には直接登場しないのは奇妙である。しかしながら、次の引用において、その鍵盤上での指の動きが言及されている。
『冬物語』第1幕2場125行。シチリア王リオンティーズの王妃ハーマイオニーと、ボヘミア王ポリクシニーズについて。
Leon. —— still virginalling
Upon his palm?
レオンティーズ:……まだ彼の掌の上でヴァージナルを弾くようにしているのか?
ヴァージナル(一般に「a pair of virginals」と呼ばれる)は、主に女性たちが私的な楽しみのために用いる楽器であり、このことからその名が由来すると考えられている。エリザベス女王はこれを好んで演奏したが、この楽器は彼女の時代より前から流行していたため、その名称を「処女王(ヴァージン・クイーン)」と結びつける必要はない(エリザベス女王が所有していたヴァージナルは、サウス・ケンジントン博物館に所蔵されている[※10])。その鍵盤は4オクターブあり、ケースは非常に古いピアノフォルテのように四角形をしている。ヴァージナルの弦は、羽軸[※11]によって弾かれた。羽軸は「ジャック」と呼ばれる部品に取り付けられ、それが鍵盤によって動かされる仕組みになっていた(ソネット第128番を参照)。弦は金属線である。
ヘンリー八世の時代にさかのぼる最古のカントリー・ダンスとして知られる《セレンジャーズ(セント・レジャーズ)のラウンド》が、ウィリアム・バードによってヴァージナルの「レッスン」として編曲されたものが『レディ・ネヴィルズ・ブック』にある。もう一つの著名なヴァージナル曲集として、ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館に所蔵されている『エリザベス女王のヴァージナルブック』があり、これは Breitkopf & Härtel 社から刊行中である。
ヴァージナルのための最初の印刷された楽譜は『パーセニア』であり、1611年にロンドンで刊行された。この曲集には、バード、ブル、ギボンズによるパヴァーヌとガリアードが主に収められている。『Parthenia, or the Maydenhead of the firste musicke』というタイトルと、ヴァージナルを演奏する若い女性の挿絵は、この楽器の名称の由来についての我々の説明を裏付けるもののように思われる。

ヴィオルに次ぐ人気の弦楽器は、リュート[※12]であった。
リュートは、軽快な「エア(Ayres)」を演奏する独奏楽器として、または声楽の伴奏楽器として、あるいは他の楽器とともに「コンソート」で用いられた。当然のことながら、リュートは「セレナーデ」にしばしば登場し、とりわけ淑女の窓の外で恋の歌を歌う際に用いられた。
リュートの全体的な形状はマンドリンに似ているが、大きさは約4倍ある。マンドリンと同様に、リュートは平らな表板と、大きく水盤状に膨らんだ裏板を持っている。しかし、それ以外の点では全く異なっている。リュートはギターのように演奏され、その弦(ガット製)は指で弾かれた。
1570年頃にパリで刊行されたアドリアン・ル・ロワの著書によれば、リュートの6本の弦の調弦は以下の通り。
第1弦(ミニキン)はトレブル譜表の第3間のC
第2弦(スモール・ミーン)は第2線のG
第3弦(グレート・ミーン)は譜表の下のD
第4弦(カウンター・テナー)はバス譜表の上のB♭
第5弦(テナー)は第4線のF
第6弦(バス)は第2間のC
しかしながら、スキピオーネ・チェッレート(1601年、ナポリ)は、8弦のイタリアン・リュートについて全く異なる説明をしており、その調弦は音域をバス譜表の下の C まで拡張していたようである。
トーマス・メイス(『音楽の記念碑』1676年)は、リュートに対するいくつかの批判を挙げており、特に注目すべきものは次の3点であった。第1に、維持・修理に費用がかかること、第2に、時代遅れであること、第3に、若者の体を歪ませるということである。
メイスはこれらの誹謗に反論しており、特に最後の点については、リュートの裏板の非常に独特な形状や、その大きさが理由で広まったに違いないと述べている。
ホーキンス(『音楽の歴史』pp.730–731)は、メイスによるリュート曲を2曲掲載している。ただし、実際には同じ曲が2回収録されており、最初はソロのリュート用、次にデュオに編曲されている。[付録参照]。
リュートの低音側5コースは「複弦」となっており、つまり、それぞれの音に対して2本の弦が張られていた。これは「共鳴」によって和音の響きを助ける役割を果たしていた。したがって、実際には11本の弦があったが、ピッチは6種類だけである。
指板には8つのフレットがあった。
リュートの変種として、アーチリュート[※13]やテオルボ・リュートがあり、これらはいずれも非常に長い二重のネックと多数の弦を備えていた。サウス・ケンジントン博物館に所蔵されているアーチリュートの一つは、実に24弦で、11コースは複弦である。
『ヘンリー六世』第1部第4幕92行
Talbot (of Salisbury dying). He beckons with his hand, and smiles on me,
As who should say, "When I am dead and gone,
Remember to avenge me on the French."—
Plantagenet, I will; and like thee, Nero,
Play on the lute, beholding the towns burn.'
タルボット(ソールズベリーの死に際して):彼は手招きし、私に微笑みかける、
まるでこう言わんばかりに。「私が死んだならば、
フランス人に復讐することを忘れるな」と。
プランタジネットよ、私はそうしよう。そしてネロよ、お前のように
リュートを奏でながら、街が燃え上がるのを見届けよう。
『ヘンリー四世』第1部第3幕第1場206行、モーティマー、レディ・モーティマーに向かって
Mort.... for thy tongue
Makes Welsh as sweet as ditties highly penn'd,
Sung by a fair queen in a summer's bower,
With ravishing division, to her lute.
モーティマー:…そなたの舌は、
ウェールズ語を見事に書かれた歌のように甘美に響かせる、
美しい女王が夏の木陰で歌うかのよう、
心奪うディヴィジョンをリュートで弾きながら。
「心奪うディヴィジョン」については、ジュリエットがヒバリの歌について語る台詞の説明を参照のこと。
リュートに導かれて、我々は楽器と専門用語より第二章へと向かう。
原注
※1:付録参照
※2:このホーキンスの記述はやや誇張されているように思われる。オールディス・ライト氏によれば、フェローシップの志願者に対する規則には歌唱の試験が定められており、同等の成績の場合にはその技能が志願者にとって有利に働いたという。すべての志願者に歌唱が求められたわけではないが、試験の第4日目において、随筆や詩作と共にこの科目が考慮された。
※3:ドレイトン(ジェームズ一世時代)は、『アジャンクールの戦い』第1199行で、戦いの前のフランス軍について「兵士たちはフリーメンのキャッチを歌う」と書いている(「freemen」は「threemen」の崩れたもの)。
※4:床屋の店に置かれていたシターンには4組の複弦(金属弦)があり、その調弦は次のとおりであった。第1弦:トレブル譜表の第4間のE、第2弦:それより全音低いD、第3弦:第2線のG、第4弦:第3線のB。楽器には彫刻された頭部が施されていた。『恋の骨折り損』第5幕第2場600–603行には、ホロフェルネスの頭の記述がある。また、口絵ではトレブル・ヴィオルとヴィオラ・ダ・ガンバの両方に彫刻された頭部が見られ、それぞれ異なる人間の顔が刻まれている。これらの楽器には、ドラゴンやガーゴイルなどの幻想的な頭部が装飾として施されることも多かった。
※5:付録、例1。
※6:リンボーがパーセルのオペラ《ボンデュカ》の音楽古物研究協会復刻版に寄せた序文によると、《マッド・トム》は1612年にコペラリオによって、ボーモンによるインナー・テンプルとグレイズ・インのための仮面劇のために書かれたとされている。それは《我が悲しみと暗き小部屋より》というものだった。
※7:口絵参照
※8:テオルボは、二重のネックを持つリュートの一種。その名前は、香料をすりつぶすための臼「ティオルバ」に由来し、リュートの鉢状の背面を指している。
※9:口絵参照
※10:口絵参照
※11:羽軸だけではなく革製のプレクトラムも使用された
※12:口絵参照
※13:口絵参照
