「スパイダーマン:ブランドニューデイ」マン映画とユニバース映画の再肯定
『ブランド・ニュー・デイ』は「ノー・ウェイ・ホーム」の後日談である以上に、「MCUとは何だったのか」を再定義する映画であり、同時に「スパイダーマン」という作品が本来持っていた男性の青春譚を現代にアップデートした作品である。
「スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ」は、MCU再肯定映画だ
「スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ」を観終えて真っ先に思ったことがある。
これは単なる『ノー・ウェイ・ホーム』の続編ではない。公開目に言われていた仕切り直し1作目でもない。
この映画は、「MCUとは何だったのか」を18年目にして改めて問い直した映画だった。
近年のMCUは迷走していると言われ続けてきた。
マルチバース。別次元。あまりに多い映画とドラマ。
その後が描かれるのかも不確かな大量のキャラクター。
要素が増えれば増えるほど、感情的には置き去りになっていった感が否めない。
そんな中で『ブランド・ニュー・デイ』は、それら全てを真正面から受け止め、
「だからこそ人間はどう生きるのか」
という極めてシンプルなテーマへ帰っていく。それがこの映画の素晴らしさだった。
「マルチバース」に人生を壊されたピーター
『ノー・ウェイ・ホーム』は最高のお祭り映画だった。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
ピーター・パーカーという一人の青年は、自分という存在を世界から消し、恋人も、親友も、人生そのものも世界中から忘却されることで失った。
マルチバースというシリーズ最大のギミックは、
観客にとっては興奮だったが、ピーターにとっては人生を破壊する災害だった。
『ブランド・ニュー・デイ』はそこから始まる。
スマホ越しに、楽しそうな大学生活を送るネッドやMJを眺める。
しかし彼らはもう自分を知らない。
一人で部屋へ戻り、黙々とスーツを修理し、事件を調べる。
この冒頭のモンタージュがあまりにも辛い。本当なら自分も共に過ごせるはずだった大学生活の4年間をインスタ越しに見て、ピーターとしての自分も失った彼はひたすらスパイダーマンとして孤独に戦いを続ける。
劇場で辛くて涙が出たし吐き気すらした。
この痛みと辛さは、マルチバースという空想のギミックではなく、現実の人生そのものだった。
「孤独になる」と「孤独でいる」は違う
本作で最も好きだったテーマがある。
人生いろいろある。孤独になることはある。でも孤独でいる必要はない。
このニュアンス。
ものすごく繊細だった。孤独になることは避けられない。
しかし、そこから誰とも関わらないことを選び続ける必要もない。
この二つは似ているようで違う。しかし、その境界線は存在しない。
グラデーションだからこそ、人は気付かないうちにはまり込んでしまう。
経験しても人生で何度も何度も繰り返してしまう。
だからこのテーマを、スパイダーマンというシリーズがリブートされて語り直され続ける意義がある。
MCUであることが、今度は「救い」になる
本作を観て改めて思った。
MCUスパイダーマンシリーズは、毎回その時代のMCUを最も上手く使っている。
『ホームカミング』ではアベンジャーズが揃い踏みして当たり前となった世界でのルーキーとして。
『ファー・フロム・ホーム』ではエンドゲーム直後の敗戦処理、そして後継者として。
『ノー・ウェイ・ホーム』ではマルチバースによる新旧共演によって遂に直面する「大いなる力には大いなる責任が伴う」。その代償を背負わざるを得なくなった者として。
そして今回は、孤独になってもその世界(ユニバース)で生き続ける者として。
『ノー・ウェイ・ホーム』では、マルチバースがピーターを壊した。しかし今回は、ユニバースであるが故の様々なヒーローや能力者との繋がりが彼を少しずつ孤独から救っていく。
皮肉にも、前作で人生を壊したシリーズの仕組みが、今回は人生を支える側になる。
まるで『ノー・ウェイ・ホーム』に対する返歌のようだ。
だからこれは、18年目にして、MCU再肯定映画なのである。
「マン(男性)映画」
今回最も驚いたのはここだった。
本作は極めて自覚的な「マン(男性)映画」だった。
ライミ版『スパイダーマン』を観て育った人なら分かると思う。
あのシリーズは蜘蛛超人の映画というより、思春期男子の身体や精神の変化をスパイダー能力へ仮託した映画だった。
ウェブが突然出る。精神状態で出なくなる。力が暴走すると攻撃性も増す。これらは全て男性の第二次性徴を思わせるメタファーとして読める。
1作目でピーターが部屋でウェブを撃ちまくっていたところへメイおばさんが来て、「大丈夫だから!」と頑なにドアを開けずに焦る描写には思春期男子なら苦笑いするしかないだろう。
思えば『ホームカミング』や初登場の『キャプテンアメリカ/シビル・ウォー』でトムホピーターの能力開花描写は省略されていた。
今回はクモの能力が強化されて始めるというテイを取りながら、トムホが変化や能力に戸惑うことが彼の精神状態や成長と密接に関係しているというライミ版『スパイダーマン』を彷彿とさせる描き方になっていた。
女性ヒーロー映画や混成チーム作品が当たり前になった今だからこそ、
改めて
「○○マン映画とは男性性についての映画ではないか」
という原点へ立ち返ったように感じた。
恋愛ではなく、「男同士の友情」
だからこそ、本作では実は恋愛以上に友情が重要になっている。
ピーターが何度も見ているのは、MJ(彼女の性格からSNSはやらないだろうが)ではなくネッドのSNSだった。またMJには記憶忘却のこと含めて明かすが、ネッド相手には躊躇し続ける。
ライミ版でもアメイジングでもハリー・オズボーンとの友情は大きなファクターであった。
男同士だからこそ言えないこと。共有できる時間。ヒーローだからこそ必要な同志。本作は恋愛だけではなく、シスヘテロ男性にとって同性の親友がどれほど大切なのかまで丁寧に描いているのも「マン映画」らしいところだ。
「ロード・オブ・ザ・リング」オマージュ小ネタ
本作で最も好きな小ネタがある。
ピーターとネッドが、『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』のフロドとガンダルフの再会後のやり取りを真似する場面だ。
ただのマニアネタには思えなかった。あの会話は、久しぶりに再会した旧友だから成立する。
つまり、二人で息の合ったモノマネすること自体が、
「俺たちはいろんなことを乗り越えてきた仲間なんだ」
という示唆になっている。
近年のMCUスパイダーマン恒例となったスター・ウォーズネタ以上に、このオマージュは胸にきた。
「便利な設定」と「等身大の人生」
本作を通じてMJの記憶は戻らない。御伽話のようにはいかない。
これは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』のガモーラにも通じる。
別次元の彼女は、同じ顔でも別人だった。だから恋愛もやり直せない。
『ブランド・ニュー・デイ』も同じだ。
人間は毎日変わる。記憶だけではない。
人格も、価値観も、時間そのものも積み重なる。
だからセーブポイントのように人生は戻らない。
魔術による忘却という架空のギミックなのに、
描かれているのは恐ろしく現実的な人生だ。
MCU18年目にして辿り着いた答え
ヒーローは辛い。何かを失う。
何もうまくいかないこともある。
取り返せないものもある。
それでも、かけがえのない同志はできる。
親愛なる隣人は、また別の隣人に救われる。
結局それこそが、ユニバースという形式を採るヒーロー映画最大の魅力だったのではないか。
『ブランド・ニュー・デイ』は、それを18年目のMCUで改めて思い出させてくれた。
もちろん、過去作へのオマージュは多い。
穿った見方をすれば「いいとこ取り」と言われるかもしれない。
しかし本作は、それらを単なる懐古趣味として消費するのではなく、「運命は繰り返される」というテーマへ昇華している。過去を引用しながら、新しい答えを提示してみせた。
だからこそ、これは『ノー・ウェイ・ホーム』の後日談であると同時に、MCUという巨大シリーズへの返歌でもあり、スパイダーマンというヒーローの原点回帰でもある。
近年のMCUの中では間違いなく屈指の力作であり、迷走が指摘されるシリーズの中にあって、「MCUであること」の意味を最も力強く再提示した作品だった。
そして何より、この映画は改めて思い出させてくれる。
ヒーロー映画とは、ヒーローを応援したくなる映画であってほしい。
『ブランド・ニュー・デイ』は、その当たり前を、これ以上ないほど誠実に取り戻した一作だった。
以下は音声で語った『ブランド・ニュー・デイ』評。もっと恥ずかしい話と本記事で敢えて触れていないあの要素の話をしております。
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