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自由と平等は同義語である【アンチワーク哲学】

自由とはなにか? やりたいと思ったことができることであり、やりたくないと思ったことをやらなくて済むことである。ここでは主に、自然による制約ではなく、社会的な制約がないことを意味する。たとえば、僕たちは光よりも早く動きたいと思っても動くことはできないし、呼吸をしたくないと思っても呼吸しなければならない。だからといって僕たちは不自由だとは感じない。一方で、オフィスでデスクワークしているときに家に帰って昼寝をしたいと思っても、自然による制約はそれを妨げることはない。しかし社会的な制約はそれを妨げ、やりたくないライン作業を継続することを強制する。そのとき僕たちは不自由を感じる。このように自由を抑圧する社会的な制約は誰かが生み出している。つまり、不自由とは、誰かが誰かに命令している状況を意味するのだ。

では、平等とはなにか? それは誰かが誰かの上に立って命令したり、誰かが誰かの下に立って命令されたりしないことを意味する。あるいは、仮に命令されたとしても拒否する能力を万人が保有している状況を意味する。

つまり、自由と平等は、どちらも誰も命令されないし、されたとしても拒否できることを意味している。このように考えれば、自由と平等は同義語なのである。

しかし、多くの人は次のように考えている。


自由なら格差が生じて不平等になる。平等なら自由が制限される。だから自由と平等は対立する。


すでにそうではないことはあきらかにした。しかし、なぜこの手の言説がこれほどまでに人気なのだろうか?

おそらく平等が分配の平等・・・言い換えればソ連的な平等を想定しているからだと思われる。つまり強大な権力がすべてを奪い、人民に等しく分配するような類の平等である。たしかにこれは逆立ちしても自由とは呼べない

とはいえ、これはそもそも平等ではないことに注意する必要があるだろう。権力が存在している以上は平等とは呼べない。現に、ソ連とは共産党員とそれ以外の人たちによる階級社会であった。平等ではない状況をとりあげて「ほらな、平等だと自由が制限されるだろ?」と言ったところで、それは自由と平等が対立する根拠にはならないだろう。

さて、人々は次のように反論するはずだ。「権力による強制がないなら、なるほどそれは自由だろう。だが、それはたんなる無秩序であり、けっきょくは搾取し、搾取される関係が生まれる。それは平等でもなんでもない。だから自由と平等は両立しない」と。なるほどそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。ここで重要なのは、搾取される関係性に耐え忍ぶ必要があるかどうかである。

耐え忍ぶ必要があるのはどういう状況か? それは耐え忍ばなければ殺されたり、食い扶持が維持できなかったり、人間としての尊厳のある生活が送れなかったりする状況である。そもそもこれは自由とは呼べない。自由とは、搾取に耐え忍ばなくても、殺されることがなく、食い扶持が確保され、尊厳のある生活ができることを意味するのだから。「自由と平等が対立する」論者のいう「自由」も、搾取される側からすれば「不自由」でしかないのだ。ならば先ほどと同じ反論が有効だろう。自由ではない状況を指して、「ほらな自由だと平等ではなくなるだろ?」と言ったところで、それは自由と平等が対立する根拠にはならない。

こうなってくると議論は袋小路に近づいているようだ。あなたはきっと今こう考えている。「万人に自由を保証しながら、万人に食い扶持を保証し、万人に尊厳のある生活を保証できるなら、自由と平等は両立できるかもしれない。だが、それはカモ肉のローストが自動的に生成され、自動的に口に飛び込んでくるようなユートピアでなければ実現しないだろう。ユートピアでない時代を生きる我々は、けっきょくは誰かが誰かに命令しなければ、カモ肉のローストを生み出すことができない。つまり命令する側とされる側の不平等が必要なのだ」と。

ここでアンチワーク哲学の出番である。人は命令されずとも、カモ肉のローストをつくり誰かに提供することを自由に欲望する。むしろ、命令されなければされないほどに、それを欲望する。仮にそうだとすれば、万人が真の自由を手にしつつ、真の平等を手にすることは可能である。そこには一切の権力が存在せず、不愉快な強制も存在せず、万人が平等なまま、万人の自由の基盤となる衣食住を生み出し続けるのだ。

「そんなことはあり得ない!」と人が言うときに、権力が呼び起こされる。そして権力による命令はますますカモ肉のローストをつくって提供したいという欲望を抑圧する。そして「ほらな。怠け者たちは権力に強制されなければならないんだ・・・」と権力者たちはほくそ笑む。こうして性悪説(性怠説?)が跋扈してきた。

僕がこれまで書いてきた文章はすべてこうした冷笑に対する反論であったと言ってもいい。『14歳からのアンチワーク哲学』を読んでも、『労働廃絶論』を読んでも、ひたすらにこうした冷笑に反論してきた。議論の続きを楽しみたい方は、そのあたりを参考にしてもらうとして、そろそろこの記事はまとめに入ろう。

要するに、真の自由と真の平等は対立するのではなく同義語である。どちらも権力の不在を意味する。それはつまり支配の不在であり、労働の不在である。

「自由と平等が対立する」という言説は、権力がなければ人間社会が成立しないことを前提としていて、その前提によってますます自由は失われ、平等も失われる。性悪説は悪を生み出し、悪はますます性悪説を必要とする。僕たちはこの負のサイクルからいい加減に抜け出すべきであろう。自由と平等は同義語である。僕たちホモ・サピエンスは両方を同時に実現する能力を持っている。

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