【巻末解説】『海の城 海軍少年兵の手記』【解説:福間良明】
戦後79年、記憶が遠くなる中で、先の大戦で失われた人々の痛みと悲しみを、私たちはどのように聞き取ることが出来るのか? 大日本帝国海軍の内部を舞台に、一海兵の苦闘を描いた孤高の戦記文学から考える。
7月10日に発売される角川新書『海の城 海軍少年兵の手記』より、巻末解説を特別公開します。
解説 「天皇への問い」の起源――「海上の城塞」の閉鎖性と暴力
福間良明(歴史社会学)
元農民兵と海の「内務班」
1960年代末、日本戦没学生記念会(第二次わだつみ会)は、大きく揺れていた。戦没学徒遺稿集『きけ わだつみのこえ』(1949年)の刊行を契機に生まれたこの反戦思想団体には、安田武をはじめとする学徒兵世代(戦中派)の文化人が多く集っていた。彼らは、共産党の内紛に翻弄された第一次わだつみ会への反省から、政治主義とは一定の距離を置き、戦争体験そのものを突き詰めて思考しようとした。それに対し、若い世代は苛立ちを隠さなかった。「政治の季節」を生きていた彼らからすれば、戦中派は戦争体験に閉じこもるばかりで、思想的・政治的有効性を顧みようともしない存在だった。シンポジウムや総会は、たびたび非難の応酬の場となった。1969年5月のわだつみ像破壊事件(立命館大学)は、これに拍車をかけ、会は空中分解の状態に陥った。
その後、わだつみ会(第三次)で事務局長を引き受け、立て直しを担ったのが、渡辺清である。渡辺清は、『砕かれた神』(1977年)・『私の天皇観』(1981年)などで、昭和天皇の戦争責任を厳しく問うたことで知られる。第三次わだつみ会でも、機関誌で計11回にわたり「天皇問題」を特集した。
もっとも、渡辺の経歴は、わだつみ会ではやや異質だった。この会は『きけ わだつみのこえ』にちなむだけに、そこに集った戦中派の多くは元学徒兵であり、戦時期に帝国大学や私立大学などで高等教育に触れていた。それに対し、渡辺は高等小学校を出た後、海軍に志願で入隊した元「農民兵」だった。
渡辺は、1925年に静岡県富士郡上野村精進川(現富士宮市)の農家の二男として生まれた。生家は自作農ではあったが、富士山麓の農地は瘦せており、農閑期の出稼ぎなしには生計が成り立たなかった。高等小学校では学業優秀で、教師は渡辺に旧制中学への進学を熱心に勧めたという。だが、家庭の経済状況から、それはあきらめざるを得なかった。
半ばその代わりとして選んだ進路が、海軍であった。「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ」「国を守り天皇陛下に尽せるのは兵隊だけなんだ」「兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ」――こうした思いが、その動機だった(渡辺清『私の天皇観』辺境社、1981年)。渡辺は16歳で海軍に志願し、二等水兵となった。
渡辺は戦艦武蔵に乗り組み、マリアナ海戦やレイテ沖海戦に参加している。戦艦武蔵はレイテ沖で撃沈されたが、渡辺はそこで奇跡的に生還を果たした。その凄惨な体験は、『戦艦武蔵の最期』(1971年、角川新書版に再録)に詳らかに綴られている。
とはいえ、渡辺が経験したのは、戦闘だけではなかった。そもそも、戦艦は常時戦闘に従事しているわけではない。海上を航行したり、訓練にあたったり、港に停泊するなど、直接的な戦闘から離れている時間のほうが、圧倒的に多い。だが、そのようなときでも、乗組員たちは一時的な「上陸」などを除いて、艦を離れることはできない。逃げ場のない戦艦は、陸軍で言えば「内務班」のようなものだった。
そこでの渡辺自身の体験を下敷きにして、「軍艦の内部をできるだけありのままに書こうと努めた」のが、本書『海の城』である。戦艦大和と同型艦の武蔵(本書では戦艦播磨との架空艦名で表記)は、「不沈艦」とされる頑強な「城」だった。だが、その頑強さは外敵に対してのものだけではない。水兵らを艦内に閉じ込め、さまざまな抑圧から逃れられない空間をも、生み出していた。本書は、当時の軍事技術の粋を集めた「海の城」の内部で再生産される暴力の構造を、余すところなく描いている。
鉄の閉鎖性と抑圧の移譲
軍隊のなかでは、私刑は禁じられていた。だが、艦内では、「教育」に名を借りた暴力が、横行した。下士官や兵長らは、末端水兵のささいな過失をとらえて、あるいは捏造さえして、日常的に凄惨な暴力を振るった。甲板整列では、バットのような棍棒が新兵らの臀部めがけて幾度も振り下ろされた。倒れて起き上がれなければ、殴り蹴られ、気を失えば、海水をぶっかけて起こされては、再び棍棒が見舞われる。ときに鉄のチェーンやグランジパイプ(消火ホースの先に付いている金具)が用いられることさえあった。
それは、古年兵や下士官らの憂さ晴らしでしかない。進級が遅れる。外出が取り消される。上官から𠮟責される。その苛立ちは、無抵抗な新兵に向けられた。暴力が上官から下級者へと順に振り向けられ、「上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」(軍人勅諭)との論理でもって、正当化される。最末端の水兵たちは、その累積された暴力をひたすら引き受ける存在だった。「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」のゆえに「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲」する「抑圧の移譲」を、そこに見ることができる(丸山眞男『超国家主義の論理と心理』岩波文庫、2015年)。
もっとも、彼らも暴力のはけ口を持たないわけではない。古年兵や下士官らも、かつては最末端の水兵だった。上官の理不尽な暴力を、ただひたすら耐え忍んできた。だが、年月が経ち、彼らは新兵の上に立つ身分となった。ひたすら溜め込んだ「抑圧」は、ようやく移譲する対象を見出したのである。
別段こっちに殴られる理由があるわけじゃない。理由はむこうが勝手につくっておしつけてくる。「太鼓は叩けば叩くほどよく鳴る、兵隊は殴れば殴るほど強くなる」というわけだ。むろんそこには下士官、兵長たちの「うらみ返し」もある。彼らもかつて「若い兵隊」だったころ散々殴られてきたが、殴られっぱなしじゃ気がすまない。そのうらみつらみは、いつか晴らさなくちゃならない。そして、いまになってやっとその爆発の機会が彼らに与えられたのだ。こころに何の痛みもなく、平気でひとを殴ることができるのは、自分もかつて同じような目にあわされた体験が根にあるからなんだ。
ここに作動しているのは、「抑圧の移譲」の無限ループである。
本書では「性暴力」にも触れられている。軍艦のなかは「男」だけの社会である。海上航行中の閉鎖的な軍艦では、ヘテロセクシャルな性欲を満たす機会はほぼない。そのはけ口も、しばしば新兵に向けられた。抵抗できない若い水兵を物陰で押さえつけ、口を封じ、「女」の代替として扱うこともないわけではなかった。
「顕彰」という断絶
これらの暴力は、ときに兵士たちの命を奪うものでもあった。班長のレイプを受けた水兵は、甲板整列で、酒に酔った兵長から箍の外れた暴力を受け、泡まじりの血を吐きながら死亡した(第五章‐4)。別の水兵は、一時帰郷で実家に戻った際に山中で自殺する。生き地獄のような軍艦生活に耐えかねてのことだった(第九章‐2)。
だが、こうした事態を招いた責任が問われることはない。甲板整列で水兵をなぶり殺した兵長は、軍法会議にかけられることもなく、軽微な訓戒処分で済まされた。兵長のみならず、艦上層部の責任も問われかねないうえに、連合艦隊の旗艦「播磨」の名誉をも傷つけることになる。それを避けるための措置だった。
加えて、その兵長はほどなく下士官に進級した。本来であれば進級対象から外されるはずであったが、事件時には、すでに艦長が進級の推薦リストを鎮守府に提出していた。事後になってそれを撤回することは、事件が艦外に公になることを意味する。それを防ぐ意味合いもあって、当該兵長は「進級」のままにされたのである(第六章‐2)。
こうした「無責任の体系」に対する渡辺の怒りも、本書には綴られている。
上のやつら、口じゃえらそうなことを言ったって、いよいよとなると自分のことしか考えないんだ。死んだやつなんかどうだっていい、御身大切というわけよ。ふん、これじゃ江南〔殴殺された水兵〕のやつはますますうかばれなくなる、可哀想によお。
もっとも、死亡した水兵に「名誉」が与えられなかったわけではない。鎮守府への提出書類では「戦病死」とされ、その通例に則って一階級進級の措置が取られた。だが、それも責任の所在を覆い隠すものでしかなかった。
帰郷中に自殺した水兵をめぐっては、組織の責任は議論の俎上にさえのぼらず、本人の「弱さ」と「不忠」が糾弾された。検視に来た憲兵は、遺体にかけられた莚を引きはがし、遺族のまえで「この不忠者、国賊……」と罵りながら、遺体を長靴で幾度も蹴り上げた。 渡辺のこうした記述から思い起こされるのは、橋川文三の論考「靖国思想の成立と変容」(1974年)である。橋川は1970年前後の靖国神社国家護持運動を念頭に置きながら、こう述べている。
靖国を国家で護持するのは国民総体の心理だという論法は、しばしば死に直面したときの個々の戦死者の心情、心理に対する思いやりを欠き、生者の御都合によって死者の魂の姿を勝手に描きあげ、規制してしまうという政治の傲慢さが見られるということです。歴史の中で死者のあらわしたあらゆる苦悶、懐疑は切りすてられ、封じこめられてしまいます。
靖国合祀をはじめ、死んだ兵士らを顕彰する動きは、いまもなお小さくはない。だが、死者を美化することは、死者に寄り添うのではなく、むしろ、死の間際の憤りや苦悶から目を背け、都合よく口を封じることにほかならない。そこには、死者への謙虚さを欠いた生者の傲岸さこそが、浮かび上がる。殴殺された先の水兵が「戦病死」扱いにされ、一階級進級の措置がとられたのは、まさに、これを裏打ちする。
それは、水兵の自殺を招いた組織病理を顧みることなく、遺体を蹴り上げる軍のありようとも、通じている。自殺した水兵は靖国に祀られることはないが、その憎悪や絶望を顧みない点で、靖国合祀の顕彰のロジックと等価である。
「忠誠」から「反逆」へ
海軍の不条理に直面するなか、渡辺の胸中から「つきつめた熱っぽさ」が消えていった。渡辺(本書のなかでは北野信次上等水兵)は、入団前日の日記に「私ハ愈々明日帝国海軍ノ一員トシテ皇国ノ海ノ守リニ就キマス。コノ上ハ醜ノ御楯トシテ粉骨砕身、尽忠報告ノ誠ヲ尽ス覚悟デアリマス」と記すなど、今後の軍隊生活に期待感と高揚感を抱いていた。だが、海兵団での新兵教育は、「毎日あけてもくれても、不動の姿勢、敬礼、整列、かけ足、罵倒、殴打、それに、うぐいすの谷渡り、食卓のおみこし、ミンミン蟬、電気風呂など、卑劣きわまる罰直」の連続だった。艦隊勤務となっても、そこに変化はない。軍隊生活への憧れが幻滅に変わるのに、さしたる時間を要しなかった。
それでも、天皇への「忠誠心」が揺らぐことはなかった。
むろんいまのおれには、このとき〔入団直前〕のようなつきつめた熱っぽさはもうなくなっている。火を落したボイラーみたいに、とうに醒めてしまっている。けれども、「天皇への忠誠」だけは、いまもその大根のところは変っちゃいない。なにもかも茫々と変ってしまったが、その一点だけは、埋れ火のように残っている。おれがこの生き地獄のような軍艦の生活(生活といえるかどうかは別として)にじっと耐えているのも、もとはといえばそのためである。なにごとも天皇のため……。それはいわばおれの初心だ。痴の一念だ。おれはそこに全身の重みをかけ、いのちを賭けている。
こうした情念を胸に迎えたのが、1944年10月のレイテ沖海戦である。渡辺が乗船していた戦艦武蔵は、そのなかで撃沈され、渡辺も一度は海に沈んだ。だが、船体の水中爆発で海面にまで引き上げられ、奇跡的に生き延びた。渡辺は艦が沈む際の阿鼻叫喚と無秩序を、『戦艦武蔵の最期』のなかで、以下のように記している。
露天甲板に上がってみると、ここも逃げまどっている生存者でごったがえしていた。仄暗い夜の空気をゆり動かして、青ざめた顔や恐怖におののいた声が龍巻のようにどよめいていた。上衣を脱いだまま、思案にくれて舷側をいったり来たりしているもの、両手を口にあてて大声で班員をかき集めている下士官、下のハッチから釣り床をひっぱりだしているもの、少しでも浮力をつけようと、カラの水筒を腰のバンドに巻きつけているもの、四、五人で一枚の道板を抱えて転げるように後甲板へ駈けていくものもある。
そこにはもう軍規も階級もない。いまがいままで保たれていた艦の秩序はなかった。乗員を動かしているのは、もはや艦長ではなく、血も凍るような死の恐怖だった。
だが、非戦闘時と戦闘時に、これらの凄惨な体験を経ながらも、渡辺の天皇崇拝の念は変わらなかった。それが一気に崩れ去ったのは、終戦して復員後に、昭和天皇とマッカーサーが並んだ記念写真(1945年9月)を新聞で目にしたときだった。そのときの激しい憤りを、渡辺はのちに「少年兵における戦後史の落丁」(1960年、『私の天皇観』所収)のなかで、こう記している。
僕はすべてを天皇のためだと信じていたのだ。信じたが故に進んで志願までして戦場に赴いたのである。〔中略〕それがどうだ、敗戦の責任をとって自決するどころか、いのちからがら復員してみれば、当の御本人はチャッカリ、敵の司令官と握手している。〔中略〕厚顔無恥、なんというぬけぬけとした晏如たる居直りであろう。
僕は、羞恥と屈辱と吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだった。それどころか、いまからでも飛んでいって宮城を焼き払ってやりたいと思った。あの壕の松に天皇をさかさにぶら下げて、僕らがかつて棍棒でやられたように、滅茶苦茶に殴ってやりたいと思った。いや、それでもおさまらない気持だった。できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っぱっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその目に見せてやりたいと思った。これがあなたの命令ではじめられた戦争の結末です。こうして三百万ものあなたの「赤子」が、あなたのためだと思って死んでいったのです。耳もとでそう叫んでやりたい気持だった。
天皇に対してこれほど激しい怒りを抱いたのは、逆説的ながら、天皇への強固な崇拝の念があったがゆえのことだった。「すべてを天皇のためだと信じていた」という思いがなければ、天皇に「裏切られた」との憤りを覚えることもあり得ない。甲板整列の暴力や戦艦武蔵撃沈時の凄惨な体験を経てもなお変わらぬ天皇崇拝の篤さがあったがゆえに、天皇を苛烈に批判し、その責任を突き詰めて思考するに至ったのである。のちに、日本戦没学生記念会事務局長となった渡辺が、機関誌で「天皇問題」特集を頻繁に組んでいく起点も、ここにある。
自己への問い
もっとも、渡辺の議論は、単に昭和天皇の責任を問うだけではなく、自らの責任、ひいては兵士や一般国民の責任をも問うものであった。渡辺は、復員後を扱った自伝的小説『砕かれた神』(1977年)のなかで、「おれは天皇に裏切られた。欺された。しかし欺されたおれのほうにも、たしかに欺されるだけの弱点があったのだと思う」「天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることでなければならない」と綴っている(渡辺清『砕かれた神』岩波現代文庫、2004年)。
こうした姿勢は、実際の行動についての責任ばかりではなく、状況が違えば自らが犯したかもしれない罪をも思い起こさせた。渡辺は、同書のなかで、中国戦線で数十人もの現地住民を斬殺し、強姦したことを誇らしげに語る近隣の復員兵に批判的に言及しながら、「たしかにおれは直接支那の戦線には出なかった。〔中略〕だがもしそこに居合わせたら、おれだって何をしでかしたかわからない」と記している。
そのことは、『海の城』の戦艦播磨において、水兵らに凄惨な暴力を振るった下士官や兵長らに重ねて見ることもできよう。彼らも海軍に入って間もない頃は、上官の暴力をひたすら堪え忍ぶだけの存在だった。こうした経験は、暴力を憎悪するのではなく、暴力を振るう矛先を見出すことにつながった。その対象が、新たに入団した新兵たちだった。先の復員兵にしても、暴力のはけ口を求めた点で、重なり合うものがある。そこに、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(1946年)の以下の文言を思い起こすことは容易であろう。
更にわれわれは、今次の戦争に於ける、中国や比律賓での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。
軍隊のなかでは、暴力を振るわれる側と振るう側の距離は、意外に小さい。天皇批判の延長で、自らの「責任」をも問う渡辺の議論は、暴力が生み出されるメカニズムを直視しようとするものでもあった。
「海の城」という起点
渡辺は、これらの思索を『私の天皇観』『砕かれた神』などに綴っていたが、その起点にあるのが、海軍での体験をもとにした『戦艦武蔵の最期』と本書『海の城』である。
もっとも、本書に記されたすべてが、渡辺が目にし、体験したものだったわけではない。新兵の殴殺事件への対応をめぐって、艦上層部や軍医らの「密談」の場面も描かれているが、むろん、そこに一水兵に過ぎなかった渡辺が同席するなどということはあり得ない。現に、渡辺も本書の冒頭で「私の四年余にわたる海軍での体験が主であるが、なかには間接に他艦の乗組員から聞いた事件なども含まれている」と断っている。
だとしても、そこで描かれているのが、末端の水兵から見た海軍の実像だったことは疑えない。渡辺自身も、「文中にあるような出来事は、多かれ少なかれ、どの艦にもあったとみて差支えない」と記している。渡辺個人の体験に加えて、戦死した他の水兵たちの体験や情念をも刻み込もうとしたのが、本書である。戦艦武蔵をモデルにしつつ、実在しない「播磨」を舞台としたのも、そのゆえだった。
こうした戦争体験を振り返るうえで、渡辺が「有効性」から距離を取ろうとしていたことも、押さえておくべきだろう。渡辺清は1967年の座談会で、「戦後派の若い人達は思想をいつも何か有効性において測っていこうとするように思う。その点僕はいつもひっかかるんです。それは僕の戦争体験からくる思想の空しさみたいなものだろうと思う。有効性で測ろうとすると案外もろいのではないかと思うわけです」と語っていた(座談会「戦記物ブームを考える」『わだつみのこえ』第三九号、1967年)。
ベトナム反戦運動や大学紛争、沖縄返還問題が焦点化されるなか、政治的な有効性の観点から戦争体験を読み込もうとする動きは、顕著に見られた。だが、渡辺はそれに違和感を覚えた。有効性やわかりやすさ、心地よさから距離を取りながら、末端の兵士の体験や情念にどう向き合うのか。そこから天皇、軍組織、ひいては兵士や一般国民の責任や暴力の構造をどう捉え返すのか。本書『海の城』は、渡辺清という「農民兵」の思想家の起点をなすものである。
書誌情報

体罰、いじめ、私的制裁……海戦史に埋もれたもう一つの「戦争」を描く!
「どうせ、……いつかはお互いに、戦場で死んでしまうんだ、それなのに……それなのに……」
志願兵として「不沈艦」に乗り組んだ少年・北野が直面した海軍の現実とは? 1943年春、いまだ戦火から遠い播磨(武蔵をモデルとした架空の船)はトラック島へ入港、同型艦大和から連合艦隊旗艦を引き継ぐことになる。帝国海軍の旗印として聳え立つ「海の城」の上では、法外な私的制裁、理不尽な罰直、性的虐待が横行していた。北野たち新兵は、剥き出しの暴力を必死に切り抜けるが、やがて同胞の命を失うことに……。銃火も爆撃もない、知られざる地獄を描く無二の戦記文学、復刊!
◆毎日のように甲板に整列させられ、棍棒で殴られる
◆自殺した同胞の遺体に暴行する憲兵
◆同年兵同士を殴らせ合う「対向ビンタ」
作品名:海の城 海軍少年兵の手記
著 者: 渡辺 清
価 格:1,540円(税込)
発売日:2024年07月10日
I S B N:978-4040825106
★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!
Amazon
楽天ブックス
電子書籍ストアBOOK☆WALKER
※取り扱い状況は店舗により異なります。ご了承ください。
