【試し読み】伊与原新『オオルリ流星群』大ボリューム特別公開!
第172回 直木賞受賞作『藍を継ぐ海』(新潮社)や、ドラマ化で話題の『宙わたる教室』(文藝春秋)をはじめ、科学的な要素と繊細な人間模様が織りなす物語で多くの読者を魅了してきた作家・伊与原新さん。
本記事では、そんな伊与原さんが手がける感動作『オオルリ流星群』(角川文庫)の大ボリューム試し読みを特別公開!
40代の主人公が学生時代の仲間と天文台を作りながら、各々の人生を取り戻していく姿に励まされます。人生に行き詰まった時、忙しい毎日にすり減ってしまった時、心をじんわりあたためてくれる物語。
『藍を継ぐ海』や『宙わたる教室』で伊与原ワールドの虜になったあなたに、ぜひ次に手に取ってほしい一冊です。
あらすじ
人生の折り返し地点を過ぎ、将来に漠然とした不安を抱える久志は、天文学者になった同級生・慧子の帰郷の知らせを聞く。手作りで天文台を建てるという彼女の計画に、高校3年の夏、ともに巨大タペストリーを作ったメンバーが集まった。ここにいるはずだったあと1人をのぞいて――。仲間が抱えていた切ない秘密を知ったとき、止まっていた青春が再び動き出す。
喪失の痛みとともに明日への一歩を踏み出す、あたたかな再生の物語。
伊与原新『オオルリ流星群』試し読み
序 晩秋――彗子
吐く息が白い。
今夜はこの秋一番の冷え込みらしい。
開いたスリットから、きんと締まった山の空気が天体観測ドームの中にしみ込んでくる。目立った雲はなく、湿度も低い。観測には申し分のない条件だ。
東の空では、二つの一等星、オリオン座のベテルギウスとぎょしゃ座のカペラがひときわ明るく輝いている。牡牛座のアルデバランとプレアデス星団も美しい。
けれど、今望遠鏡を向けているのはそうした名のある天体ではない。ちょうど牡牛座と双子座の間、黄道と天の川が交差する領域だ。口径二十八センチの反射鏡が、天の川銀河に浮かぶ幾千もの恒星を視野に収めている。
ただし、目的の天体は――どこにあるのかわからない。わからないまま、星々から届くすべての光をとらえ続けている。
そして、待っているのだ。どこかで星が翳る瞬間を。
いや、待っているという言い方も、少し違うのかもしれない。
星には星の時間があり、人間には人間の時間がある。例えば、今観測している天の川銀河の光は、数千年、数万年前に放たれたものだ。天頂付近に見える、隣りのアンドロメダ銀河にいたっては、二三〇万年前。
そんな遥かに隔たる時空が、偶然に重なる一瞬。その光景を見逃すまいとして、自分は生きている。
風の音さえしない、名も無い山の上に、たった一人。
それでも孤独を感じることはない。
彗子にとって、ここはそういう場所だ。
Ⅰ 四月――久志
幸せの総量には、上限がある。
店の待合スペース用に毎月とっている雑誌で、そんな記事を読んだ。
喜び、怒り、悲しみ。驚き、不安、嫉妬。名前こそ様々についてはいるが、感情と呼ばれるものの正体は所詮、脳の中で起きる化学反応だ。
幸福感についても同じこと。セロトニン、オキシトシン、ドーパミンといった、脳内で合成される神経伝達物質を介した電気信号のやり取りに過ぎない。
これら“幸せホルモン”の分泌量は常に増減しているが、その範囲には個人差がある。つまり、生まれつきよく出る人と出ない人がいるわけだ。したがって、ある人にとっての最大レベルで幸せホルモンが分泌され続けると仮定し、一生分の総量を求めると、それがその人の人生における幸福の上限値ということになる。
これでも薬剤師だ。こういう考え方には馴染みがあるし、納得できる部分もある。ただ同時に、上限があるから何なんだ、とも思う。
幸せホルモンを目いっぱい出し続けて生きていける者などいない。人間は、幸せにも慣れてしまうからだ。
宝くじに大当たりしたり、思わぬところから遺産が転がり込んできたりして突然大金持ちになったとしても、そのときの天にものぼるような多幸感はさほど長続きしない。数段ランクアップした生活も、何年かすればただの日常になる。
人間の体には、恒常性というものがあるのだ。大きく振れたメーターも、振り切れたままではいられない。必ずいつもの位置に戻るようにできている。幸せホルモンが分泌される頻度と量はいずれ、庶民的な暮らしをしていた頃と同程度にまで低下するだろう――。
「ねえ、はやくトランク開けてよ」
子どもの声で、久志は我に返った。
考えごとをしながら公園の駐車場に車を停め、そのままぼんやり運転席に座っていたのだ。全開にした窓のすぐ外で、次男の篤人が口をとがらせている。駐車場の端には、サッカーボールを蹴りながら公園に入っていく長男の悠人が見えた。
「ああ、何か出すんだっけ」
「だから、ブレイブボードだって」
車を降り、ロックを解除してバックドアを開けてやる。篤人が取り出したのは、子どもたちに人気の、真ん中が細くくびれたスケートボードだ。地面を蹴らなくても、体をくねらせるように体重移動することで前に進む。
「広場まで行ってからだぞ。ほら、ヘルメットも」
篤人はボードとヘルメットを抱え、兄を追って走り出す。その背中を見つめながら、久志はバックドアを閉めた。その拍子に、窓枠に溜まった砂ぼこりが舞う。
大金持ちになるのとはレベルの違う話だが、三年前、ずっと欲しかったこの八人乗りのミニバンを新車で買ったときも、そうだった。六年前、一階が店舗の自宅を思い切ってリフォームしたときも。
車や住宅のテレビCMには、いかにも幸せそうな家族の画がつきものだ。この車を買って、さあ出かけよう。家族の絆がもっと深まるはず。こんな家を建てて、本物のくつろぎを味わおう。うちに帰るのが楽しみでたまらなくなるはず。
まやかしだとまでは言わない。そういう瞬間は、自分にも確かにあったと思う。だがその魔法は、驚くほど早く解けてしまった。
妻の和美と熟考を重ねてリフォームした自宅には今や不満だらけだし、あんなに大事に乗っていたこのミニバンも久しく洗車さえしていない。家や車のおかげで家族に対する態度が根本から変わったということも、もちろんない。
きっと自分の脳の特性もあるのだろう。認めたくはないが、残念ながら生まれつき幸せホルモンに恵まれていないに違いない。その証拠に、子どもの頃から何をしていても、なぜか「つまらなそうだね」と言われることが多かった。不機嫌なわけではないが、楽しい気分でもない。そんな心の状態が、いつもそのまま表情に表れていたのだ――。
気がつけば広場まで来ていた。
普段の日曜よりも父親と子どもの組み合わせが多い気がする。春休みも今日で終わり。考えることは皆同じだ。最後にどこかへ連れて行けとごねる子どもたちを、父親たちが近場でごまかすとすれば、ここカルチャーパークぐらいしかない。
秦野市の中心部にある公園としては、一番大きい。球技場や図書館もある広い敷地が、水無川に沿って細長くのびている。公園と川とを隔てるのは背の低い植え込みと二車線の道路だけなので、土手に続く桜並木までよく見通せる。花は先週の春の嵐でほとんど散ってしまい、花見の客はもういない。
ヘルメットをかぶった篤人が、ブレイブボードの練習を始めていた。危なっかしいが、何とか一、二メートルは進めるようになっている。明日から二年生だというのに、まだまだ甘えん坊だ。転んですり傷でも作ったら、またべそをかいて「もう帰る」と言い出すかもしれない。
悠人はその向こう、遊具が並ぶエリアの手前で一人リフティングをしている。五年生からは地域のサッカークラブでも高学年チームに入ることになる。「レギュラーになりたいのなら少しは自主練でもしろよ」という久志の言葉が少しは響いたのか、最近はどこへでもサッカーボールを携えていく。
今のところは二人とも、いい子に育ってくれている。ただしそれは、学校生活や友人関係で問題を起こしたりしない、という意味でだ。家の中ではだらしないし、わがままも言う。放っておけば宿題もせず、ゲームばかりしている。兄弟げんかは毎日だ。勉強やスポーツが目立ってできるわけではない。リーダーシップを発揮したり、クラスで笑いをとって人気者になったりするタイプでもない。親の欲目で見ても、平凡な子どもたちだ。
両親が平凡なのだから仕方がないとは思う。それでも和美と時どき話すのは、平凡な子たちだからこそ、何か特別な習い事でもやらせたほうがいいのではないか、ということだ。だが、やりたいことがないか本人たちに訊ねても、「別に」と答えるだけだし、親は親で我が子のどこを磨けば光るのかがわからない。結局、日々の慌ただしさを言い訳に、二人の環境を何も変えてやれずにいる。
考えてみれば、幸せホルモンは子どもたちのことについても同じように作用しているのだろう。
彼らが生まれたときは、とにかく健康に育ってくれさえすればいいと心から願っていた。とくに次男の篤人は早産で生まれ、肺や腸の異常で一歳にならないうちに二度も入院した。その小さな体にメスを入れると聞いたときは、最悪の想像ばかりが頭をよぎり、どうか命だけはと神にも祈るような気持ちになったものだ。
幸い篤人も今は健康そのものだが、そのありがたさを嚙みしめることは、もはやない。幸福とは関係のない当然の事実として家族の中にあるだけだ。そればかりか自分たち親は、我が子に光るものが見当たらないなどと、厚かましいことを憂えている。
だが、そもそも。久志は小さく息をつき、道路側のベンチに近づいた。川のほうを向いて腰を下ろす。
この先、自分たち親か子どもたち本人が、これはと思うものを見つけたとして。そのための教室や学校に通わせてやれるかどうかは、わからない。店の経営状態がこのまま悪化の一途をたどるようであれば――。
一台の軽自動車が目の前を通り過ぎ、短くクラクションを鳴らした。そのままスピードを落とし、二十メートルほど先で路肩に停まる。
見覚えのある車だと思っていたら、運転席から出てきたのはやはり勢田修だった。最近一段と出てきた腹が、いつものカーキのナイロンパーカー越しにもよくわかる。薄緑色のレジ袋を下げ、こちらにやってくる。
「どこのじいさんかと思ったぞ。背中丸めやがって」
修はからかうように言って、隣りに座った。久志はむっとして背筋を伸ばす。修はがっちりしているが上背がないので、頭半分ほどこちらの目線が高くなる。
「白髪もまた増えたか?」修が側頭部を凝視してきた。
四十を過ぎた頃から白髪には悩まされている。市販の白髪染めを使っていたこともあるのだが、今はほったらかしだ。
「お前こそ、ひげぐらい剃れよ」修の無精ひげを見て言い返した。
「いいんだよ、これは。闘ってる証だ」
誇らしげにあごを撫でる修から目をそらし、ため息まじりに言う。
「くたびれもするって。今日まで春休みだったんだぞ。子どもたちがずっと家にいるって状況を想像してみろよ。暇だ暇だとうるさいし、仕事の邪魔はしにくるし」
「家族持ちは大変だな」
修はそう言って、レジ袋から缶コーヒーとペットボトルのカルピスを二本ずつ取り出した。袋の店名を横目で確かめると、思ったとおり白抜きの文字で〈マルミドラッグ〉とある。
缶コーヒーを一つ久志に握らせながら、修が広場を見回す。「カルピスは子どもたちに。二人とも来てるんだろ」
「ああ、悪いな」
「あの店、飲み物も安いんだな」修はジーンズに包んだ短い脚を組み、コーヒーをひと口飲んだ。「言っとくけど、薬は買ってないぞ。トイレットペーパーと、お袋に頼まれたお徳用のせんべいだけだ」
「いちいち言わなくていいよ、そんなこと。俺たちだって、行くことあるんだ」
「ま、あれば行くよな。駐車場も広いし」修は悪びれもせず言うと、軽い調子で訊いてくる。「で、どうなんだよ、三代目。『種村薬局』の調子は」
「別に変わんないよ」投げやりに言った。
「売り上げキープしてるってことか」
「違う。相変わらずじわじわ悪くなってる。何も変えてないんだから、当たり前だ」
「当たり前ってお前、他人事みたいに言うなよ」
種村薬局は、祖父が開業した。駅前の薬店でもなければ、大きな病院のそばで処方箋を受け付ける“門前薬局”でもない。住宅地の中にあって、調剤と市販薬の販売の両方をおこなう、昔ながらの町の薬屋だ。
その店が今、創業以来の危機に瀕している。すぐ近くの県道沿いに、神奈川県内に広く展開しているチェーンのドラッグストア、「マルミドラッグ」秦野店がオープンしたのだ。種村薬局からは直線距離で百メートルも離れていない。日用雑貨から食料品まで扱う大きな店舗で、調剤室も併設していた。
薬を処方してもらっている間に買い物を、と考える客たちがそちらに流れるのは当然だろう。種村薬局の売り上げは目に見えて落ち始め、先月はついに、前年の六割を割り込んでしまった。
久志は短く息をつき、修に問い返す。
「そっちこそどうなんだよ。のんびり買い物なんかしてていいのか。試験、もうすぐだろ」
「来月。正直、今回は厳しい。ま、腕試しだな」
試験というのは、司法試験のことだ。三年前、修は勤めていた東京の番組制作会社を辞め、弁護士を目指して法科大学院に入学した。この三月、無事に修了して秦野の実家に戻り、司法試験に向けて勉強を続けている。
「あんまりプレッシャーは感じてないみたいだな」
「ねえよ、そんなの」修は口角を上げた。「むしろ、わくわくしてる。この先何が待ち受けてるんだろうって。そういう気分がもう一回味わえるのも、『四十五歳定年制』の醍醐味だぜ」
「またその話か」
それは修の持論だった。二十歳前後で社会に出た人間は全員、四十五歳で一度定年し、職を変えなければならないという主張だ。一つの仕事を一生続けるなどというのは、人生九十年時代、百年時代にそぐわない。ある業種で経験を積んだ人々が、まったく別の様々な業界に流れていくことで、社会全体が活性化し、生産性も上がる――ということらしい。
うんざりした顔の久志を見て、修が「そうだ」と話を変えた。
「おいタネ、お前、知ってたか」
「何を」
「あのときのメンツ、今みんなこっちにいるみたいだぜ」
「みんなって、六人とも?」
「五人だ」修が眉を寄せて訂正する。
「ああ……そっか。お前が先月帰ってきて、四人だろ。あと一人って――」驚いて修の目をのぞき込む。「まさか、スイ子か? なんでまた?」
「わからん。俺も本人に会ったわけじゃない。千佳が見かけたんだってよ」
伊東千佳。同じ秦野で暮らしていながら、彼女にもずいぶん会っていない。メールのやり取りならたまにあるが、顔を合わせたのは一昨年の同窓会が最後だろう。
「二、三日前、千佳からメールが来てな」修が続ける。「車で子どもを塾に送ってたら、渋沢駅の近くをスイ子が一人で歩いてたんだってよ。慌てて声をかけようとしたらしいが、車を停めるのにもたついて、見失ったんだと」
「んなの、人違いだろ。スイ子が今さら秦野に何の用があるんだよ。帰ってくるところもないのに」
スイ子こと、山際彗子。彼女は高校卒業後、秦野を離れて東京の大学に進んだ。以来一度も会っておらず、今は電話番号もわからない。両親も、一人娘の上京と同時に生まれ故郷の島根に帰ったと聞いた。五人のうち音信不通になってしまったのは、彗子だけだった。
「千佳は自信満々だったぞ。あれは絶対スイ子だって」修は缶コーヒーを飲み干した。「もしそうなら、顔ぐらい見てやりたい」
「――まあな」久志はぼそりと言った。
家に入るなり、悠人と篤人はリビングに飛び込んだ。母親が用意していたチョコレート菓子をそれぞれつかみ、もう片方の手にカルピスのペットボトルを握って、二階の子供部屋に駆け上がっていく。
久志がソファにへたり込むと、キッチンから和美が険のある声で訊いてきた。
「あのカルピス、あなたが買ってやったの?」
「買ってない。修がくれたんだ」見たくもないテレビをつけながら、結局開けなかった缶コーヒーを見せる。「公園でたまたま会って」
「勢田さん、出歩いてていいの? 試験、もうすぐじゃなかった?」
「来月。でも、半分あきらめてるみたいだな。一回目だし、腕試しだとか何とか言ってたよ」
「そんなんじゃ一生受からないんじゃない?」和美は冷たく言う。「そんなこと言ってるうちに、五十になるよ。法科大学院でもクラスで最年長だったんでしょ?」
「五十になったっていいんだよ、あいつは」
「奥さんの立場だったら、たまったもんじゃないわ」
「独り者なんだから、好きにすりゃいいだろ」うんざりして雑に言い放つ。
正確には修はバツイチだが、子どもはいない。
和美は呆れ果てたように息を漏らすと、ダイニングテーブルから一枚の紙を取り、ソファのほうへやってきた。それを久志の面前に突きつけて言う。
「こういうのやってるところもあるんだって」
何の話かは見当がつく。仏頂面のまま受け取ると、案の定、医薬品関係者向け情報サイトの記事を印刷したものだった。〈最新リポート:薬局の現場から④〉とある。成功した薬局の事例を紹介しているらしい。
「ここ、うちと似たような個人経営の店なんだけど」和美が早口で続ける。「OTCの品揃えをとにかく増やして、それをアピールしたの。どうやったかというと、チェーンのドラッグストアを真似て、商品の空き箱をたくさん積んでディスプレイしたんだって。町の薬局からイメチェンして、小さいながらも“ドラッグストア感”を出したわけ」
「要は、見た目を変えただけか」
「大事なことでしょう? ばかにしたように言わないでよ。現に、うまくいってるっていうんだから。あなたみたいに、毎日ため息ついてるだけの人より、ずっと立派だよ。この店、他にもいろいろやってるの。例えば――」
「わかった」さえぎって腰を上げる。「読んどくから」
「ねえ、ほんとにどうするつもりなの?」和美が声をとがらせる。「ちゃんと考えてよ」
「考えてるよ」
妻の顔を見ず言い捨てて、リビングを出た。短い廊下のつきあたりの引き戸を開け、二段下りると店のバックヤードだ。サンダルをつっかけ、その四畳ほどのスペースに出る。おもてのシャッターは下りているし、ここには小窓が一つあるだけなので、うす暗い。
段ボール箱に囲まれるようにして、壁際に古い事務机が置いてある。そこは家の中で唯一、久志が一人になれる場所だ。
リフォームの際、建て増しをした二階に小さな書斎でも持てないか考えはしたが、子供部屋を将来二つに仕切れるよう広くとると、とても無理だった。
座面の破れた椅子に腰を下ろし、背もたれをきしらせる。缶コーヒーのタブを開け、ひと息に喉に流し込んだ。
店のことで和美になじられるたびに、ここへ逃げ込んでいる。大学時代に出会った和美も、薬剤師だ。結婚後はずっと仕事をしていなかったが、父が事実上引退してからは、毎日ほぼフルタイムで店に出てもらっている。悪化する一方の経営状況を肌で感じている和美が、毎日のように久志を責めるのは当然だ。
薬といえば種村さん。父の代には町内でそう言われていた。父は、久志がその血を引いているとは思えないほど快活で話好き。体の悩みから家族の愚痴まで何でも親身になって聞くので、得意客が多くいた。近所の開業医たちとの付き合いも怠らず、処方箋も多く持ち込まれた。
薬科大学を卒業した久志がここで働き始めると、後継ぎとしてすぐに認知はされた。だからといって、接客にせよ営業活動にせよ、父と同じようにできるものではない。それでも父が店主として奥に構えているうちは、経営もまずまず堅調だった。
状況が大きく変わったのは、二年前。年明け早々、持病の狭心症による心筋梗塞で、母が急死したのだ。見る間に老け込んだ父は体にも不調をきたし、加齢黄斑変性を発症。視力が極端に低下して、薬剤師としての仕事ができなくなってしまった。今は、昔からの馴染み客が訪ねてきたとき以外、店に出てくることはない。
そして去年の秋、追い討ちをかけるように襲来したのが、「マルミドラッグ」秦野店だった。
何か手を打たなければならないことは、久志が誰よりわかっている。わかってはいるのだが、気力が湧いてこない。必死に考えることができない。考えようとしても、いつの間にか頭の中は別の思いにとらわれている。
一九七二年生まれの、四十五歳。もう人生の折り返し地点を過ぎただろう。
久志にとって、この店と家とに区別はない。ずっとここで育ち、働いてきた。自身との一体感のようなものを愛着と呼ぶのならば、それは確かにある。ただ、愛着が日常と直結したものである以上、それは幸福感とは関係がない気もする。
人間は、貧しい暮らしや不自由な生活にも、愛着を感じ得る。それが日常となれば、ことさら不幸だとは感じないのかもしれない。そして、些細な幸運にも幸せホルモンがたっぷり出るだろう。その分泌量の日々の平均値は、裕福な人々と果たして大きく違うかどうか――。
いや、幸せホルモンのことはもういい。
とにかく自分は、わからなくなっているのだ。この先、どう生きていきたいのか。
どう頑張ったところで、この店が先細りだということに変わりはない。町の薬局として何とか生き残るために、どんな籠城戦をやっていくかという話だ。あるいは、撤退戦と呼ぶべきかもしれない。
果たして自分は、そんなことがしたいのだろうか。そんなことに残りの人生を費やして、本当にいいのだろうか。
こんな話を和美にすれば、ただの現実逃避だと一蹴されるだろう。だが、今回の危機はたぶん、きっかけに過ぎない。店を守るために自分が変わることを強いられたせいで、何年も心の底に積もり続けていた迷いが、不安と焦りが、喉もとまでせり上がってきたのだ。
飲み干したコーヒーの缶をしばらくぼんやり見つめ、机に置いた。黄ばんだ電気スタンドを点け、机の袖の一番下の引き出しを開ける。
もう何年も聴いていないCDや年賀状の束が放り込んである。その下に埋もれていたクッキーの缶を引っ張り出し、ふたを開ける。入っているのは学生時代の写真だ。
高校時代のものを一つかみ抜き取って、順にめくっていく。北海道への修学旅行。軟式テニス部の団体戦。教室での何気ないスナップ。そして、体育祭のクラス写真の下に、それはあった。
校舎の壁に屋上から吊り下げられた、巨大なタペストリー。幅十メートル、高さは八メートルあって、グラウンドに面した四階建ての壁を二階の窓の上まで覆っている。
真ん中に大きく描かれているのは、一羽の青い鳥。秦野の山々と相模湾を遠景に、大空を羽ばたいている。市の北部、丹沢のほうへ行けば見られるという、オオルリだ。
実はこのタペストリーは、空き缶でできている。三五〇ミリリットル缶の底に穴を開け、飲み口から太い針金を通してビーズのように編んであるのだ。絵柄はもちろん、缶の色を使って描いている。要した空き缶の数は、ざっと一万個にのぼる。
実際に吊り下げてみるまで、完成したタペストリーの出来栄えはよくわからなかった。だから、屋上でその作業が終わるや否や、校舎の階段を駆け下りた。息を切らし、グラウンドから初めて仰ぎ見たオオルリの姿が、今もはっきり目に浮かぶ。西日を受けてきらきら輝く青い翼を瞬きも忘れて見つめていると、自分の体まで空へ浮き上がっていくように感じた。
これを作ったのは、高校三年の夏。九月の文化祭に出展した、三年D組の作品ということになっている。だがもちろん、クラスの全員が関わったわけではない。何らかの形で協力してくれたのは、せいぜい半数程度だろう。
秦野西高校は、名門でも何でもない県立高校だが、生徒の大半は大学に進学する。部活を引退した三年生は受験モードに入っているし、夏の大会を最後にという生徒たちは当然ながら練習しか頭にない。文化祭など三年生には無関係という空気が常識のように存在したし、実際、クラスとして文化祭に何かを出したのは、学年でD組だけだった。
久志自身はこの空き缶タペストリーを、六人で作り上げたと思っている。
六月に計画を立て始めたときは、十人ほどの有志が話し合いに加わっていた。だが、作業の大変さがわかってくると一人、二人と消えていき、一学期が終わる頃にはさらに減って、ついには久志を含む六人だけになった。六人は結局、高校最後の夏休みを丸ごと全部、一万個の空き缶に捧げることになったのだ。
あれはまさに、特別な夏だった。この歳になっても一つ一つのシーンを鮮やかに思い出すことができる、濃密で長い夏。受験勉強から逃げている自分を心のどこかで責めながらも、十八歳の体にこもった逃げ場のない熱が、一瞬の光として放たれたような夏。
投げ出したくなるような苦労もあったが、言葉にできないほどの感動も味わった。あのとき自分の頭の中で、どんな脳内物質がどれだけ分泌されていたかは知らない。ただ、あんなに激しく感情が揺さぶられる季節は、この先自分には二度と訪れてくれないだろう。
久志は写真の上の端に視線を移した。あのときの仲間たちが、タペストリーを吊り下げた屋上に並んで写っている。どの顔も日焼けして真っ黒だ。手すりに身を乗り出し、カメラに向かって思い思いのポーズを取っている。
真ん中で拳を天に突き上げているのが、勢田修。それをはさんで、丸顔にいつもの笑みをたたえてピースサインをしている伊東千佳と、誇らしげにタペストリーを指差している梅野和也――梅ちゃんだ。久志は左端で手すりに両腕をのせている。
そして、右端に少し離れて突っ立っている眼鏡の女子生徒が、スイ子――山際彗子。このときは確か、「わたしはいい、写真は好きじゃない」と拒む彼女を、修と千佳で無理やり引っ張ってきたのだ。
写っているのは、その五人。本当は、ここにもう一人いるはずだった。
槙恵介。空き缶タペストリーを作ろうと言い出した張本人だ。恵介のリーダーシップと行動力がなければ、この作品はきっと企画倒れになっていただろう。
恵介のことを思い出すたび、久志の気持ちは沈む。三十年近く経っても整理のつかない思いが、ため息になって漏れる。
この写真の中で彗子と久志だけが、笑顔を見せていない。彗子がこのとき何を思っていたのかは知らないが、自分についてはよく覚えている。ふと恵介のことを考えてしまって、笑えなかったのだ。
恵介が写っていない理由は単純だ。彼はここにいなかった。結局、文化祭には一度も顔を見せなかったと思う。
恵介は、タペストリーが完成する前に、仲間を抜けていた。制作も大詰めの八月下旬になって、突然に。
本当の理由はわからない。これからも決してわからないだろう。恵介はこの一年後、十九歳の夏に死んだからだ。
*
「そういうのを、ミドルエイジ・クライシスってんだよ」
ナイフを握った修が、日替わりランチの照り焼きチキンを切りながら言った。
久志は味噌汁をひと口すすり、「何だよそれ」と訊き返す。
「“中年の危機”。仕事、家庭と忙しくやってきて、気づけば四十代。それまでの生き方を振り返ったり、人生の後半戦について考えたりするだろ? そしたら急に、『俺の人生、このままでいいのかな』と不安になったり、うつっぽくなったりするやつが出てくるわけよ。ちょうど、悩みの多いお年頃なんだな。思春期ならぬ、思秋期ともいうらしいぞ」
「おい、あんまりでかい声で言うな」まわりの席に目をやって、声をひそめる。「お年頃とか思秋期とか、いいオヤジがみっともないだろ」
「タネが相談してきたんだろうが」
「別に相談はしてない。そっちが訊いてきたんだ」仕事の調子はどうだとまた訊かれたので、最近の自分の心理状態をありのまま伝えただけだ。
日曜の午後一時半。国道沿いのファミレスは満席だ。久志たちもこのテーブルに案内されるまでに、十分ほど待たされた。
「だからずっと言ってんじゃん」修はチキンを嚙みながら言う。「そんな危機に陥らないためにも、俺の――」
「四十五歳定年制の話なら、もういいぞ」
「まあ聞けよ」修はナイフを振った。「それが当たり前の世の中になったら、いいことしかない。お前みたいな悩みを抱くやつもいなくなる。誰もそのままじゃいられないんだからな。全部吹っ切って新しい世界でリスタートすりゃいい。精神的にも若返るぜ、きっと」
「そんなの人によるだろ。転職で環境が変わることがストレスになる人間だっている」
「環境の変化なら、子どもの頃から何回も経験してるだろうが。小学校に入る、中学に上がる、高校、大学、就職。そのたびに不安もあったけど、希望のほうがでかかっただろ? 四十五になってもそれは同じだ。現に今の俺がそうだからな」
修は、平塚にキャンパスがあるマンモス私大を卒業したあと、東京の小さな番組制作会社に就職した。もともと正義感の強いところはあったが、大学でジャーナリズムに目覚めたらしい。報道に強いという理由でその会社を選んだと言っていた。
アシスタントディレクターとして修業を始め、五年目にディレクターになった。仕事の大半は大手制作会社の下請けだったようだが、修が企画段階から携わった社会派ドキュメンタリーもいくつか実現させていた。
久志が三十一歳で結婚した翌年、修も同僚の女性と結婚した。修は式を挙げなかったこともあり、久志は結局その女性と一度しか会っていない。夫婦とも仕事が忙しく、しばらく子どもは作らないと決めていたそうだが、三年ほどすると相手の女性が、アメリカで映像制作の勉強をしたいと言い出した。修も強くは反対しなかったらしい。「あいつの人生だからな」と淡泊に言っていたところをみると、その頃にはもう二人の関係は、ただの同居人程度のものになってしまっていたのかもしれない。彼女が手始めに半年間の語学留学を決めたのを機に、離婚した。
修は大学二年のときに父親を病気で亡くしている。母親が一人で暮らす実家には、就職して都内で生活を始めてからも毎月のように帰ってきていた。ついでに久志に連絡を寄越し、二人で飲みに出ることもよくあったので、疎遠になることはなかった。
四十になると、肩書きがプロデューサーになった。酒の席でも仕事の愚痴は漏らさなかったし、大きな番組を手がけたときは必ず「見てくれよ」と放送日時を伝えてくれていただけに、会社を辞めて弁護士を目指すと聞いたときは驚いた。本人は「一回目の定年だよ」としか言わないので、なぜ弁護士なのかはわからない。
「とくに俺たちロスジェネは」修はフォークでトマトを突き刺した。「みんな納得のいく就職なんかできなかった。タネも言ってたよな。大学の同期の就職先は、チェーンのドラッグストアばっかりだって」
「まあ確かに、そういうやつも多かったな」
バブル経済が崩壊し、就職氷河期が始まったのは、久志たちの大学在学中だ。二流私立薬科大の学生では、医薬品メーカーはおろか、病院に就職することさえ難しかった。
「そういう連中、今どうしてるよ? 店長か調剤部門の責任者にでもなってるんだろうが、どうせ青息吐息で働いてるんだろ? 本社から売り上げのことをやいのやいの言われて、胃薬飲みながら長時間労働させられてるんだろ?」
「やけに詳しいじゃん。知り合いでもいんのか」
「前に、ドラッグストアの舞台裏を取材したことあるんだよ。俺たちと同世代の店長が、そんな感じだった」
「ドラッグストア、給料は悪くないみたいだけどな」
久志の言葉は意に介さず、修はフォークを振る。
「とにかく俺たちの世代には、非人間的な働き方をさせられてるやつや、非正規の職を転々とさせられてるやつがわんさかいる。そういう連中こそ、思い切って新しい道へ打って出るべきなんだよ。どうせ失うものなんてないんだからさ」
「簡単に言うなよ。みんながみんな――」と言いかけたとき、出入り口に近い仕切りの上に、千佳の丸い顔がのぞいた。背が低いので背伸びをして店内を見回している。こちらに気づくと、肉づきのいい腕を振って足早にやってくる。
「ほんとにごめん。あたしから呼び出しておいて」
申し訳なさそうに眉尻を下げても、ベースにあるのはいつもあの写真の笑顔だ。十五分ほど遅れると連絡があったのだが、約束の時間からもう三十分近く経っている。千佳はハンカチで汗を押さえ、修の隣りに腰を下ろした。
「悪いけど、先に食べちゃってるよ」久志はメニューを千佳の前に置いてやる。
「ううん、全然。タネ、久しぶりだね。同窓会以来?」
「だな」
グレーのジャケットに紺のパンツという堅めの服装なのに、かばんはパンダが大きくプリントされたトートバッグ。昔から千佳は、何か一つは動物のグッズを身につけている。
「修も、ごめんね、試験前なのに」
「どのみちメシは食うんだからさ。そっちこそ大丈夫なの? お義母さんがどうとかって」
「うん。朝から急に、補聴器の調子が悪いって言い出してね。どうしても今日中に修理に出すって言うもんだから、一緒にお店まで行ってたの。思ったより時間かかっちゃって」
「大変だな」
「まあねえ」と言いながら、表情はむしろ明るくする。そこも昔から変わらない。「夫がいればよかったんだけど、今日は部活の練習試合で」
千佳は公立中学校で理科の教師をしている。夫も同じく中学の英語教師。秦野に建て売りを買ったときに、夫が自分の両親を足柄の山間の集落から呼び寄せたと聞いている。子どもは二人。長女はもう高校生、長男は中学生になっているはずだ。
パスタランチを注文して水をひと口飲み、千佳が訊いた。
「二人とも真面目な顔して、何の話してたの?」
「四十五歳定年制の素晴らしさについてだよ」修が言った。
「四十五歳? どういうこと?」
修がかいつまんで説明すると、千佳は微妙な顔で言った。
「まあ、わからなくはないけどねえ。あたしだって、もう辞めたいもう辞めたいって思いながら、二十何年だもん」
「そういう後ろ向きな話じゃなくてさ」修が顔をしかめて言う。「挑戦なんだよ。ステイ・ドリームなんだよ」
「何それ、また長渕?」千佳が笑う。下手くそなギターをかき鳴らして歌う修の長渕剛は、久志も放課後の教室でよく聴かされた。
「でもやっぱり、あたしなんかには現実的じゃないよ」千佳が力なくかぶりを振った。「お金のこと考えるとね。子どもたち、まだ毎年のように受験が続くし」
「ま、そういうことだ」久志もうなずいて見せる。「お前と違って、俺たちには守るべきものがある」
「何カッコつけてんだよ、思秋期まっただ中のおっさんが」修が声を高くして言う。
「だから、声がデケえって」
くだらない言い争いをしているうちに、千佳の食事が運ばれてきた。それをきっかけに、本題に入るよう修がうながす。
「で、スイ子の話なんだろ。連絡ついたのか」
「まだ。でもね」千佳がフォークにのばした手を止める。「彼女のことで、ちょっと妙な話を聞いたんだよ。うちのクラスに、加藤小百合ちゃんっていたじゃない?」
「ああ、バレー部の」修が言った。
「小百合ちゃんの娘さんとうちの息子が塾が一緒で、送り迎えのときに時どき会うんだけどね。スイ子と親しかったってことはもちろんないんだけど、一応訊いてみたの。山際彗子ちゃんの連絡先なんて、知らないよねって。そしたら彼女、『山際さん、やっぱりこっちに帰ってきてるんだ』って言うんだよ」
「やっぱりって、加藤もスイ子を見かけたってこと?」久志が確かめる。
「小百合ちゃんじゃないの。彼女とバレー部で一緒だった子が、秦野駅の駅前で不動産屋をやってる人と結婚しててね。今月の初めかな、そのお店にスイ子がふらっと入ってきたんだって」
千佳の話によると、対応したのは夫のほうだったが、元バレー部の妻も店の奥から顔を見たらしい。あとで来店受付カードの名前を確認して、三年D組にいた人じゃないかと加藤小百合に訊ねてきたそうだ。
「スイ子のことなんて、よく覚えてたな」修が首をかしげた。「いつも一人で勉強ばっかしてるようなやつだったのに」
「だからでしょ」千佳がパスタを巻きながら言う。「東都工科大なんかに入ったの、うちの学年でスイ子だけだもん。意外と有名人なんだよ」
「あいつ、部屋でもさがしてたの?」久志は訊いた。
「それならまだ話はわかるんだけど、違うんだよ。スイ子、その不動産屋さんで、『山の取り扱いはありますか』って訊いたんだって」
「山?」思わず訊き返した。
「そう。丹沢のほうに買ったり借りたりできる土地はないかってことだったみたい」
「なんでまた山なんか」修が眉を寄せる。
「わかんない。町の普通の不動産屋は、やっぱり山なんか扱わないらしいの。専門の業者に頼むか、最近は山林売買の仲介サイトがあるからそれを使ってみる。あるいは地主さんと直接交渉するしかありませんねってことで、話はすぐ終わったらしいんだけど」
思わず修と顔を見合わせたところに、千佳が続けて訊いてくる。
「どう思う? スイ子と山っていうのが、どうしても結びつかないんだよね。何しようとしてるんだろう」
「林業。キャンプ場経営。きのこ栽培。確かにあり得んな」修が口の端をゆがめる。「でも、人間嫌いの気があったし。東京の生活に疲れて山にこもりたくなったとかなら、あるかもしれん」
「そうだよ、仕事はどうしたんだよ。天文台は」久志は千佳に向かって言った。
「あたしもそれが気になって、国立天文台のホームページを調べてみたの。でも、どの部署のスタッフ一覧にも名前がなかった。何年か前に見たときは、ナントカ研究部ってところに載ってたんだよ。確か〈特任研究員〉みたいな肩書きで。それが消えちゃったってことは、もしかしたら――」
「辞めたってこと?」久志が先に口に出した。
「よそへ移ったんじゃねえの? 大学とか」修も横から言う。
「あたしもそう思って、〈山際彗子〉の名前で検索してみたんだけど、今の所属先っぽい情報が一つも出てこないんだよね」
「もしかして、あのスイ子が結婚したとか」修がにやりとする。「苗字が変わって検索に引っかからない。それを機に退職した可能性だってある」
「不動産屋さんで書いた苗字は、〈山際〉だったんだよ」
あっさり否定した千佳は、久志と修の顔を交互に見て続ける。
「だいたい、スイ子が研究をやめるなんて、信じられないよ。でしょ?」
「まあな」修が無精ひげのあごに手をやる。
「だから、余計に心配でさ」
山際彗子は本来、久志たちの仲間に加わるような生徒ではなかった。教室では誰とも一切コミュニケーションを取らず、いつも一人。授業中は教科書の横に見たことのない参考書を開いて勉強しているが、教師に指されればすらすらと答える。もちろん部活もやらず、放課後は一番に姿を消す。空き缶タペストリー作りがなければ、久志とはひと言も言葉を交わすことなく卒業していただろう。
そもそも、彗子がなぜ秦野西高校を選んだのかも、よくわからない。あれだけ優秀なら、近隣の市の有名進学校に難なく入れたはずだ。久志たちの学年はD組とE組が理系クラスだったが、彗子の成績――とくに数学と物理は二クラスの中でもずば抜けていた。苦手だという英語も、たまたま見てしまった二学期の実力テストの点数は、五十点そこそこだった久志より四十点も上だった。
夏休みの間、あれだけ久志たちに付き合ったにもかかわらず、彗子は現役で国立理工系大学の最難関、東都工科大学の天文学科に合格した。そこで大学院の博士課程まで進み、三鷹にある国立天文台の研究員になった。
高校卒業後、久志は彗子と一度も連絡を取っていない。修や和也もそうだ。大学以降のことは、彗子と年賀状のやり取りだけ続けていた千佳から聞いた。毎年、〈春から大学院です〉というふうに、最低限の近況が添えられていたらしい。だがその唯一のつながりも、彗子が国立天文台に入った年を最後に途絶えてしまった。翌年出した年賀状は、宛先不明で戻ってきてしまったそうだ。
だから、彗子がこれまでどんな研究に携わってきたのかは、まったく知らない。ただ、彼女にとって天文学がそう簡単に手放すことのできない世界だということは、久志にもわかる。天文学者になることは、彗子の幼い頃からの夢だった。それを叶えるためだけに、孤独な勉強にひたすら励んでいたのだ。
それを知っているのは、同級生の中で久志たちだけだろう。それまで自分のことをまったく話さなかった彗子が、あの夏のある日、帰り道に訥々と語ったからだ。流れ星が流れた、宵の空を眺めながら――。
「そういうことならなおさら、本人に話を聞かないとな」修が言った。「その不動産屋に訊けば、連絡先わかるんじゃないのか。来店カードに記入したんだろ」
「お前さ、それでも弁護士志望?」久志は呆れ顔を作る。「客の個人情報だぞ。いくら昔の同級生だからって、教えてくれるわけない」
「遵法意識の乏しい店なんだよ。現に、スイ子が何しに店に来たか、加藤小百合にぺらぺらしゃべったじゃねえか」
「それだって正直あり得ないよ。うちでそんなことしたら、大問題だ」
「そりゃそうだ」修が鼻息を漏らす。「そんな薬局、おちおち痔の薬も買いにいけねえ」
「あたしたちが連絡を取りたがってるって、不動産屋さんからスイ子に伝えてもらうのはどう?」千佳が真顔で言った。「小百合ちゃんを通じてお願いするんだよ」
「そんなことまでしてくれるかな」久志は首をかしげた。「一回相談に来たきりの客と、よく知りもしない俺たちのために」
「でも、やってくれたらそれが一番確実じゃんか」修は口をとがらせて言った。
話が一段落して、ようやく千佳がパスタを食べ始めた。すでに食事を終えている修に、申し訳なさそうに言う。
「ごめん、時間もったいないよね。もう帰って勉強して」
修は「んなこと、いいんだよ」と言ってメニューを開いた。店員を呼び止めてミニチョコパフェを追加で注文すると、頭の横を指でつつく。
「勉強の前に、脳にたっぷり糖分入れとかないとな」
「そんだけ食えるってことは、プレッシャーはあまり感じてないみたいだな」
からかうように久志が言うと、修は「わかってねえな」とかぶりを振った。
「中年の受験勉強は、一に睡眠、二に食事だぜ? 若い頃みたいに無理はきかないんだ。規則正しい健康的な生活があって初めて、勉強が続けられる」
「食って寝てるだけじゃないだろうな」
「真面目な話、仕事だってそうだろ。タネは、ちゃんと食って寝てるか」
「食ってるけど、眠りは浅いな。年々浅くなる気がする」
「わかる」千佳が口もとを手で隠して言う。「明け方に目が覚めちゃったりしたら、最悪だよね。もう一回寝ようとしても寝られない」
「気をつけろよ」修が神妙な面持ちで見つめてくる。「メンタルがやられることで体がおかしくなるんじゃないんだ。過労やなんかで知らず知らずのうちに体が弱っていて、それがメンタルを蝕むんだ」
「そうかもな」久志は素直に言った。
「心がぶっ壊れるまでやらなきゃならないことなんて、この世にない」
吐き捨てるように言った修に、千佳が確かめる。
「それ、梅ちゃんのこと言ってるの?」
「ああ。どっちかっていうと、あいつのほうが心配だよ」修は眉間にしわを寄せる。「こないだあいつの実家に電話して、お母さんと少し話したんだ。俺も秦野に帰ってきてるってことだけ伝えてくれって言っといた。状況は何も変わってないみたいだな」
梅野和也は今実家で暮らしている。だが、彼のスマホはもうずっと電源が切られたままで、メールや留守番電話への反応も一切ない。
千佳がうなずく。「うち、梅ちゃん家のすぐ近くじゃない。もちろん本人は見かけないんだけど、お母さんとは時どき道で会うのね。やっぱり見るからにやつれてるし、気の毒になっちゃう」
久しぶりに三人で顔を合わせたというのに、明るい話題が出てこない。アルコールでも入れば、昔話に花が咲くのかもしれないが。
束の間の沈黙のあと、久志はコップの水をひと口含み、ため息まじりに言った。
「いろいろあるよな。この歳になると」
*
「で、こっちがご主人のほう。前回と同じ、血液をさらさらにするお薬ですね。それから、血圧の薬と、胃薬」
安村家の玄関の上がり框に浅く腰掛けて、処方箋と照らし合わせながら袋から薬を出していく。居間のほうから夫がかすれた声で何か訴えているが、久志には聞き取れない。夫人も「はいはい」といい加減に返している。
「胃薬、前と違うのね」正座をした夫人が、どこかうつろな目で言った。
「いえ、いつものですよ。あと、今回はマイスリーという睡眠薬が出てますけど――眠れないことがあるんですか」
「いいえ、よく眠れるわよ」
「いや、ご主人です」
「ああ、主人。まあ、時どきね」
この安村夫妻は、父が長年親しくしていたお客さんだ。夫のほうは七、八年前に脳梗塞を起こし、右半身が不自由になった。夫人も以前から脚が悪く、思うように出歩けない。
彼らのように高齢になって来店が難しくなった客のために、父は定期的に自宅まで薬を配達していた。数多くは回れないので、昔からの得意客に限ってのサービスだ。父が店に出なくなった今は、久志がそれを引き継いでいる。
町の薬局として意義のある仕事だと思うし、父も継続を望んでいる。だが正直、負担は大きい。久志が外回りに出てしまうと、まだ調剤の手際がいいとはいえない和美が一人で店を切り回すことになる。
服用上の注意を説明していると、夫人が唐突に訊いてきた。
「お父さんは、お変わりない?」
「え? ええ、まあ何とか。調子がいいとは言えませんけど」
「そう。でも、こんな立派な跡取りもいるし、安心ね。あなた、結婚は?」
またいつもの質問だ。小さく息をつき、無理やり口角を上げる。
「ええ、もう小学生の子どもが二人」
「そう。大変だろうけど、今が一番いいときよ」
毎回毎回、同じ質問と、同じ話。苛立ちを隠し、続きをさえぎるように薬の説明に戻る。最後までひと息に終わらせると、「わからないことがあったら、お電話ください。また来ますね。お大事に」と早口に告げて、そそくさと玄関を出た。
路上に停めた車に乗り込み、深く息をつく。これが父なら、もっと穏やかに気長に話に付き合って、勧められればお茶の一杯も飲んで帰ったのだろう。すべてにおいて余裕のない自分が、心底情けなくなる。
エンジンをかけ、Uターンしようとハンドルを切りかけて、ふと手を止めた。正面に続く緩やかな上り坂は、先のほうで大きく左にカーブしている。そのままさらに一キロほど行けば、梅野和也の実家だ。
ファミレスでの会話を思い出す。修は和也の実家に電話をしたと言っていた。千佳も道端で彼の母親と時どき言葉を交わしている。それにひきかえ、久志はここ数カ月、和也のために何もしてやっていない。直接実家を訪ねたのは、一年以上前だ。忘れていたわけではもちろんないが、正直、人のことまで思い悩むだけの心のキャパシティがなかった。
腕時計に目をやる。午後二時五分。近辺の医院やクリニックはだいたいどこも、午後の診療を三時から始めるので、この時間帯はあまり処方箋が持ち込まれない。
とりあえず家まで行って、インターホンを押してみよう。親が出てきたら、玄関先で和也の様子を訊ねてみればいい。大した意味はないかもしれないが、何もしないよりましだ。少なくとも、昔の仲間が皆心配しているということは、本人にも家族にも伝わる。十五分もかからない。和美も文句は言わないだろう。
そんな言い訳めいたことばかり考えながら、アクセルを踏み込んだ。
坂の上に見える家並みの向こうには、もう山裾が迫っている。秦野市は大雑把にいうと、南半分が盆地状の市街地、北半分が表丹沢の山地だ。田畑も多く残るこの地区は、市街地の北の端に近い。
高校生の頃、修と連れだって和也の家へ行くときは、いつも自転車だった。当時はひどく長く感じたこの坂も、車を使えばあっという間だ。
和也が実家にひきこもるようになって、もう三年になる。その間久志たちは、彼の声さえ聞いていない。
久志が和也と親しくなったのは、彼が修と中学からの友人同士だったからだ。とはいえその性格は、修と正反対に近い。穏やかで口下手だが、やるべきことはきちんとやる。久志も修も、定期テストは和也のノート頼みだった。誰も真面目にやらない教室の掃除でさえ、決して手を抜かない。空き缶タペストリー制作の際も、意見はほとんど口にせず、自分で仕事を見つけては黙々とこなしていた。
仲間のうち、現役で大学に受かったのは彗子の他に和也だけ。進学したのは横浜にある私立大学の工学部だった。そこで機械工学を学び、川崎の産業用機械メーカーに入社した。ポンプやコンプレッサーが主力商品の会社なので、世間一般にその名が知られているわけではない。だが、大手メーカーなどには目もくれず、地味でも堅実な企業に絞って就職活動をしていたのは、いかにも和也らしいと思ったものだ。
配属されたのは、当初から希望していた開発部。作業着姿で機械油にまみれる仕事にも、独身寮と会社を往復するだけの毎日にも、和也は満足しているようだった。職場に未婚の女性はほとんどおらず、外に出会いを求めにいくようなタイプでもない。修が紹介した女性としばらく付き合っていたこともあるが、結局うまくいかなかったらしい。その後は趣味のオーディオに好きなだけ金を使いながら、気楽な独身生活を続けていた。
久志が和也と最後に会ったのは、四年前の夏。修と三人、横浜のビアガーデンでやった暑気払いだ。そのとき本人から、新技術を使ったコンプレッサーの開発チームに配置換えになったという話を聞いた。サブリーダーを任されたんだと張り切っていたので、まさかその数カ月後に休職することになるとは想像もしていなかった。
異変を感じたのは、その年の暮れあたりだったと記憶している。和也が電話にもメールにも一切応答しなくなったのだ。春になる頃には、久志たちの知らないうちに実家に戻ってきていた。うつ病と診断されたと彼の母親からは聞いたが、発症の原因は今もわからない。詳しい事情は家族にも話さないらしい。
修は、プレッシャーと過労によるものだろうと言った。手を抜くということを知らない和也の性格からして、それが一番ありそうなことだと久志も思う。だが、どれだけ体を休めても、和也の心は元どおりにならなかった。三カ月、半年と休職期間はのびていき、とうとう退職せざるを得なくなった。
そしてそのまま、三年間。和也は自室からほとんど出ることなく、母親が朝晩部屋の前に置いていく食事をとって生きている。抗うつ薬はもう飲んでいないそうなので、もしかしたら、うつ状態はすでに脱しているのかもしれない。
うつ病などの精神疾患からひきこもりに移行するケースは多い。それを知識として知ってはいても、経験者でもない久志には、閉ざされたままの和也の心を推し量ることなど到底無理な話だった。
和也の部屋の様子は、今もはっきり思い出すことができる。二階の六畳間で、壁は板張り、床は深緑のカーペットだった。整頓された学習机に、ベッドと本棚。そして何より目を引くのが、部屋の奥に鎮座するオーディオだ。
当時は若者の間で「コンポ」がブームだったのだが、久志のような普通の高校生にはなかなか手が届かなかった。ところが和也は、名機と呼ばれる高級機器ばかりの一式を持っていたのだ。アンプはサンスイ、スピーカーはヤマハ、カセットデッキはナカミチ。すべて、筋金入りのオーディオマニアだという従兄弟から譲り受けたものだった。
オーディオが本格的だからといって、クラシックやジャズに凝っていたわけではない。それも従兄弟の影響らしいが、「シュガー・ベイブ」や「はっぴいえんど」、「荒井由実」といった、久志たちにとってはひと世代前のポップスやロックを好んで聴いていた。「ナイアガラ・トライアングル」のLPを繰り返し聴かされ、長渕ファンの修が「いい加減にしてくれよ!」と怒って帰ってしまったこともあった。
あるとき、面白いものを従兄弟がくれたと言うので、修と二人で見にいった。細長い電球のようなものが並んだその機器は、真空管アンプ。あちこち壊れていて電源も入らないが、これからいろいろ勉強して自分で修理するつもりだと言っていた。使えるようになったかどうかは、結局聞かずじまいだ。
あのオーディオや真空管アンプは、まだあるのだろうか。西日のまぶしいあの部屋で、和也は一人何を思い、どう過ごしているのだろう――。
カーブを曲がり切ったあとしばらく平坦だった道が、再び緩やかな上りになる。山裾を切り開いて建てられた家々の間を進み、坂を上り切った高台で車を停めた。
道路の北側に面しているのが、梅野家だ。背後はすぐ山の斜面で、このあたりでは一番高い場所に建っている。ブロック塀に囲まれた、青い瓦の二階建て。白い壁は昔からすすけていたので、外観の印象はさほど変わらない。
車を降り、まず二階を見上げる。南西の角が和也の部屋だ。ここから見えるのは南側の窓だけだが、前回訪ねたときと同様、カーテンどころか雨戸まで閉まっていた。
門扉へ近づこうとしたとき、視界の隅で何かが動いた気がした。反射的に顔を上げ、二階に視線を走らせる。するとそのさらに上、切妻屋根のてっぺんに、人影がぬっと現れた。こちらを見下ろしたその男と、目が合う。
「――梅ちゃん」
髪もひげものび放題だが、間違いない。部屋着とおぼしきスウェット姿のまま、瓦の上で膝立ちになっているようだ。
「梅ちゃん!」思わず叫んだ。「おい、何やってんだ! 危ないって!」
和也はうろたえて顔をそむけた。唇こそ半開きにしているものの、言葉は発しない。
まさか――。背筋に冷たいものが走る。飛び降りても簡単には死なないだろうが、落ち方によっては大怪我をしかねない。
「待て! 動くな!」怒鳴りながら、押し留めるように両手を上げる。「すぐ行くからそのまま! 絶対動くなよ!」
門扉を乱暴に開き、玄関のドアに飛びついたが、鍵がかかっている。ドアを叩きながら、「すいません! 誰か!」と大声で何度も呼ぶ。誰も出てくる気配はない。
もう一度道路まで出て、屋根の上の様子を確かめる。和也の姿が見えない。「おーい! どこだ!」と叫ぶと、返事のかわりに、瓦がずれるような音がかすかに聞こえた。屋根の反対側からだ。慌ててまた門の中へ駆け込み、植木鉢や雨ざらしの不用品を飛び越えながら、家の裏手に走る。
せまい裏庭に出て見上げると、二階のベランダから屋根にかけられたはしごを、和也が下りてきていた。
「おい、梅ちゃん!」
ほっとして呼びかける久志には目もくれず、和也は逃げ込むようにベランダから家の中に入り、ガラス戸とカーテンを閉めてしまった。
*
「屋根の上?」電話の向こうで、修が訊き返した。「そんなとこで何してたんだ?」
「わかんないよ。訊いても答えないんだから」
バックヤードの床に散らばる空き箱を足でどけながら、スマホを片手に奥の事務机まで進む。椅子を引いて腰掛けた。
「まさか」低い声で修が言った。「変な気起こしたんじゃねーだろうな」
「俺も一瞬そう思って、焦ってさ。二階の屋根からだって、打ちどころによっちゃ死ぬし。結局、すぐ下りてきたからよかったんだけど、俺のことは完全に無視で、ベランダから家に入っちまった」
「じゃあ、何も話せずじまいか」
「うん。だからその夜、実家のほうに電話して、お母さんに伝えたわけよ。お母さん、『またですか』ってため息ついててさ。何週間か前にも上ってたらしいんだよ。お母さんが見つけて悲鳴上げたら、おとなしく下りてきたみたいだけど」
「今回は、家族が留守の隙に上ったわけだな」
「たびたび屋根に上るなんて、普通じゃないだろ。昨日、このこと千佳に話したら、あいつも心配してさ。『あたしも気にかけるようにするから』なんて言ってたけど、俺たちでずっと見張ってられるわけでもないし。どうしたもんかと――」
そのとき背後から、「ねえ」と和美が声をかけてきた。しかめた顔を店のほうからのぞかせている。久志は修に断りを入れ、〈保留〉をタップした。
「誰と話してるの?」
「修。向こうからかかってきたんだよ」迷惑そうな顔を作って言ったが、電話をくれと昨夜修の留守番電話にメッセージを残したのは、久志のほうだった。
「仕事の電話じゃないんなら、お店にいてくれない?」和美はとげとげしく言って、調剤室のほうにあごをしゃくる。「わたし、井上さんの軟膏作っときたいから。分量あるのよ」
「わかった。すぐ行くから」
和美が消えるのを待って、通話に戻る。
「悪い。だからさ、お前も勉強忙しいだろうけど、もし梅ちゃん家の近くを――」
「あのさ」修がさえぎった。「今思い出したんだけど、俺も昔、あいつの家の屋根に上ったことあるわ」
「は? なんで?」
「中学のときの話なんだけどさ。梅ちゃんが持ってたオーディオって、全部従兄弟のお古じゃん? 最初にもらったのが、確かチューナーなんだよ。あいつ、FM好きだったろ」
「ああ、エアチェックな」
当時は、安価に利用できる音源がレンタルレコードかラジオしかなく、若者たちはそれをカセットテープに録音して楽しんでいた。「エアチェック」というのは、FMで流れている曲をカセットに録ること。そのための番組表などを載せたFM情報誌も人気だった。
「そうそう」修が懐かしそうに言う。「あいつ、なるべくいい音で録りたいからって、FMアンテナも一緒にもらってきててさ。テレビのアンテナみたいな、棒が何本も出てる本格的なやつ。それを屋根に取り付けるって言うんで、手伝ったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「でも、ど素人の中坊二人でやることだろ。やたら苦労した覚えがあるよ。途中、配線がわかんなくなって、従兄弟に電話で訊いたりしてさ。あのアンテナ、まだ立ってんのかな」
「んなこと知らないけど、今回のこととは関係ないだろ」
「まあ、そりゃそうだけど。ラジオもネットで聴く時代だしな」
「そういう問題かよ」
調剤室のドアが開く音とともに、和美の声が響いた。
「ねえ、ちょっと! ご来店よ!」
久志は「悪い、お客さんだ。じゃあそういうことで」と早口で告げて、電話を切った。急ぎ足で店に戻る。
「いらっしゃいませ」と言いながらカウンターに入り、固まった。
商品棚の前に立っていたのは、彗子だった。
首をこちらに回し、にこりともせず指の背で眼鏡を軽く持ち上げる。
「スイ子――」
「お店、きれいになった」彗子のひと言目は、そんな素っ気ない言葉だった。
「ああ……リフォームしてさ。店舗のほうも、内装だけ」
肩までの黒髪に、高校時代にもかけていた縁なし眼鏡。化粧はしていたとしても、ごく薄い。瘦せすぎなほどの体形だけでなく、声もしゃべり方も、怖いぐらいにあの頃と変わらない。
そして、言葉を交わしたときに受ける、この独特な感覚。彗子は昔から、会話に余計な言葉を費やさない。
勝手に時間が巻き戻されていくことに動揺しながら、まず確かめた。
「もしかして、不動産屋さんから話聞いた?」
「うん。電話がかかってきて」
元同級生の加藤小百合を通じて、秦野駅前の不動産屋に彗子への伝言を頼んだということは、千佳から聞いていた。だが、まさか直接訪ねてくるとは思っていなかった。しかも、自分のところに。そんな疑問を察したかのように、彗子が続ける。
「種村薬局、ネットで調べたらまだあったから。ここへ来るのが手っ取り早いと思って」
自分がずっとこの街にへばりついていることを見透かされていたように感じて、背中に汗がにじむ。無理に口角を上げて言った。
「ほんとに帰ってきてたんだな。いつからこっちにいるんだよ」
「今月の頭」
「連絡くれればいいのに。千佳の実家の番号ぐらいなら、知ってるだろ」
「ああ、だね」
「今、みんなこっちにいるんだぜ。修も……梅ちゃんも」
「そうなんだ」彗子はそう言ったきり、二人について何も訊こうとしない。
「どこに住んでんの? 実家、もう秦野にないんだよな?」
「松原町にアパート借りた」
「松原町……ああ、渋沢駅の近くか」
調剤室から和美が出てきた。軟膏の容器を三つ抱えたまま、不思議そうな顔で初対面の客に会釈する。久志は慌てて彗子を紹介した。
「こちら、山際さん。高校の同級生。ほら、例の空き缶タペストリーのときの仲間」
「ああ」和美はすぐによそいきの笑顔を作った。「いつも主人がお世話になっております」
「初めまして。山際彗子です」彗子が神妙な表情で頭を下げる。
「今日は何か、お求めに?」和美が久志に訊く。
「いや……」
肝心なことを、まだ訊いていない。山の土地をさがしている理由も、天文台の仕事についても。だがどちらの質問も、彗子の今の人生に深く踏み込むものであることは間違いないだろう。妻の前でそんな話をさせるわけにはいかない。何より、自分一人でそれを受け止める自信がなかった。
続きを言い淀んでいると、彗子が商品棚に手をのばした。目薬の箱を一つ取って、カウンターに持ってくる。
「これください」彗子は財布を開きながら、通りすがりの客のように言った。
*
「そしたらスイ子、何て言ったと思う?」
国道沿いのチェーンの珈琲店で、久志は向かいの千佳に訊いた。
「行けたら行くよ、とか?」
「いや。『みんなで集まって、昔話でもするわけ』だって」
「うわ。相変わらずだねー、スイ子」千佳は苦笑いを浮かべる。
「でも、そう言いながら来るんだから、そこも変わんないよ」
二年ほど前にオープンした純喫茶風のこの店は今も人気で、広い店内にずらりと並ぶボックス席はほとんど埋まっている。よほど忙しいのか、なかなか注文を取りに来ない。
「忘れられてんのかな。もう一回押すか」
久志が呼び出しボタンに手を伸ばそうとすると、千佳がかぶりを振る。
「スイ子が来てからでいいよ。昔のままなら、時間ピッタリに来るはずだし」
久志は腕時計に目を落とした。あと一分で、約束の二時だ。「修はちょっと遅れるかもって言ってた」
「いいのかな、修」千佳が小首をかしげる。「試験前にたびたび呼び出して」
「いいんじゃない。あいつのことだから、息抜きの口実さがしてると思うよ」
「あ!」千佳が腰を浮かせて、出入り口のほうに手を振った。「来たよ!」
彗子は千佳に気づくと、手を上げるでもなく、ただ軽く眼鏡を持ち上げた。あの頃と同じ無表情で、こちらにやってくる。
「久しぶりい」千佳は彗子を隣りに座らせながら、嬉しそうに声を弾ませる。「やっぱりスイ子だ。ほんとにスイ子だ」
「人を幽霊みたいに」
「だって、二十八年ぶりだよ? ぜんっぜん変わんないねー、ほんとに変わんない」
「だから、人を幽霊みたいに」彗子は真顔で返しながら、呼び出しボタンを押した。
近況を交えたとりとめのない雑談をしているうちに飲み物が運ばれてきて、同時に修もやってきた。何年ぶりだの、変わらないだの、変わっただのとひとくさり繰り返したあと、彗子が誰にともなく訊いた。
「今日は、梅野君は?」
「ああ……梅ちゃんは――」久志が言葉を選びながら答える。「来れない。不調でさ、メンタルのほうの」
「あいつ、それでこっちに帰ってきたんだ」修が言った。「結局、会社も辞めちまって。もう三年になる」
「そうなんだ」彗子が初めて表情を変えた。うすい眉を寄せて言う。「心配だね」
「まあ、その件はおいおい、ね」千佳がつとめて声を明るくする。「修が今こっちで何をしてるかってことも」
「んな話は今度でいい」修が手を顔の前で振った。
千佳がうなずき、真顔になって隣りの彗子に体ごと向ける。
「今日はやっぱり、スイ子の話。あたしたち、心配してるんだ。スイ子、なんで秦野に帰ってきたのかなって。天文台の仕事は、どうしたのかなって」
彗子はコーヒーをひと口飲んでから、口を開いた。
「国立天文台には、もういられなくなった」
「クビってことか?」修が言った。
「まあ、そうだね」彗子はカップを持ったまま、淡々と応じる。「大学院を出てから、二年とか三年の任期付き研究員をずっと続けてきたんだけど、この三月を最後にとうとうその口が無くなったってこと。もともと、若手向きに用意されてるポストだし。あそこでわたしが常勤の研究職に就ける目は、もうない」
「スイ子みたいに優秀でも?」千佳が目を瞬かせる。
「わたし程度の業績の人は、いくらでもいる」
「大学の教員なんかにはなれないのか」修が訊いた。
「天文学科を置いてる大学なんて、ごくわずかだから。ポストは少なく、競争率は高い。よほど抜きん出たものがないと、助教や准教授にはなれない」
「厳しい世界なんだな」久志は小さく言った。
民間は、と続けかけてやめる。この歳まで天文学しかやってこなかった人間を歓迎する企業があるとも思えない。それ以前に、会社員として働く彗子の姿が想像できなかった。
「じゃあ……これから、どうするの?」千佳がおずおずと訊ねる。「研究は――」
「続けるよ」彗子はさも当然とばかりに言った。
「え、秦野で?」
「こんなとこ、大学も何もないぞ」修も言い添える。
「そんなのなくたって、やれることはある」
彗子はカップを置くと、顔を上げて言った。
「天文台を、作るつもりなんだ」
「作る?」千佳と修が同時に声を上げる。
「いや、そんなの、どうやって?」久志もつまりながら訊いた。
「どうにかして、だよ。小さいのでいい」
「あ」と千佳が目を見開いた。「もしかして、天文台を建てるために、山の土地をさがしてるの?」
「なんでそのこと――」一瞬眉を動かした彗子が、すぐに理解してあごを引いた。「ああ、あの不動産屋に聞いたのか」
「ちょっと待ってくれ」修が両手を上げた。「昔、野辺山の天文台に取材に行ったことがある。八ヶ岳のふもとだ」
「野辺山宇宙電波観測所だね」彗子が補足する。
「ものすごい施設だったぞ。広大な敷地に、バカでかい電波望遠鏡がずらっと並んでて。直径十メートルだとか、五十メートルだとかの」
「一番大きいのは、直径四十五メートル。十メートルのアンテナは、ミリ波干渉計」
「そうか。まあとにかく、今の天文台ってのは、ああいう設備のことをいうんだろうが」
「でも、小ぢんまりしたところだってあるじゃない」今度は千佳が言う。「何年か前に、教員向けの研修で秩父のほうまで行ったんだけど、帰りに近くの山の天文台を見学したよ。小さな二階建てで、半球のドームが一つあって。部屋はせまいけど、宿泊や研修ができるようになってるの。何てとこだっけな」
「秩父なら、たぶん堂平天文台」彗子がまたコーヒーをすする。「九十センチぐらいの反射望遠鏡があったはず。もう研究施設としては使われてないけどね」
「だろ?」したり顔の修が、彗子と千佳を交互に見る。「そういう小さな天文台は、もはやただのアミューズメント施設なんだよ。一般市民向けにイベントやるだけの」
「そうかもしれないけど……」千佳は彗子の表情をうかがった。
「実際、スイ子だって」修が続けて質す。「今までは、野辺山にあるような大規模な設備を使って研究してきたんだろ?」
「野辺山には縁がうすかったけど、すばる望遠鏡とかだね」
「すばるって、ハワイの?」理科教師の千佳が確かめる。「すごい。あの望遠鏡、世界最大級なんでしょ?」
「そんな最先端の研究をしてた人間が、丹沢に建てた手作りの天文台で何するんだ?」修の勢いは止まらない。「子どもたち集めて、星空観察会でもすんのかよ?」
「それもいいかもね」彗子が冷たく言う。
「本気で言ってんの?」久志は思わず口をはさんだ。
「待ってよ」千佳が眉をひそめ、修と久志を見る。「スイ子は専門家だよ。何か考えがあるに決まってるじゃん。でしょ?」
「考えなしに始めるわけないよ」
彗子は落ち着いた口調で返すと、またカップに口をつけた。それ以上説明しそうにない様子を見て、千佳がどこかあきらめたように微笑む。
「だよね。あたしたちじゃないんだから」
千佳の言葉の意味はもちろんわかったが、久志は笑えなかった。修も苦い顔のままだ。
「山というか、建てる場所の目星はついてんの?」久志は質問を変えた。
「まだ。全部これから」
彗子はカップをそっと皿に戻し、目を伏せたまま続ける。
「大丈夫。みんなに心配してもらわなくても、わたしは大丈夫だから」
「うん。でもさ――」
千佳が言いかけると、彗子が何か思いついたように顔を上げた。
「今、一つだけ困ってることがあって。わたし、車がないんだ」
リビングのソファでタブレットを開いていると、髪を濡らした長男の悠人がパジャマのボタンを留めながらやってきた。脱衣所のほうから母親を呼ぶ篤人の声が聞こえる。
「お母さんが、早くお風呂入ってって」
「ああ――うん」
生返事をしていると、悠人が「あ、それ」と言ってタブレットをのぞき込んできた。
「すばる望遠鏡じゃん」
「知ってんのか」久志が見ていたのは、国立天文台の公式サイトだった。
超遠方宇宙に巨大ブラックホールを発見。一二六億光年の彼方で成長中の銀河。すばる望遠鏡が描き出すダークマターの地図。そんな途方もない用語と美しい画像であふれたページだ。その直径八・二メートルの巨大望遠鏡がハワイのマウナケア山頂にあるということも、初めて知った。
「理科の授業でいろいろ見たよ。宇宙の画像とか」
「へえ。今どきは、最新のことまで習うんだな」
「なんでそんなの見てんの? 夏休み、ハワイ行くの?」悠人が目を輝かせる。
「行くわけないだろ。今年も伊豆だよ、伊豆」
「えー、たまには沖縄とか行きたい」
口をとがらせる悠人の手にタブレットを預けて、風呂場に向かった。
浴槽に体を沈め、たるんだ腰まわりをさする。ここ十年ほどで溜まったその贅肉が、自分が暮らす世界の卑小さを表しているように感じる。
生まれ育った街で家業の小さな薬局を継いだ自分にとって、天文学などというのはあまりに遠くまばゆい世界だった。すばる望遠鏡で遥か宇宙を見つめてきた彗子自身が、まるで宇宙人のような存在に思える。
だよね。あたしたちじゃないんだから――。
今日の珈琲店で、千佳はそう言った。彗子の「考えなしに始めるわけないよ」という言葉を受けての台詞だ。
そう。昔も今も、彗子は自分たちとは違う。久志にはとても考えが及ばないところまで、彼女はいつも見通している。
それを初めて思い知ったのは、あの夏――二十八年前の七月上旬。確か、期末テストが終わってすぐの頃だったと思う。
空き缶タペストリーの企画が持ち上がっても、当然ながら彗子はそれに興味があるような素振りを微塵も見せなかった。だから、こちらから有志に誘ったり、協力を頼んだりしたこともない。それどころか久志は、進んで孤独でいる彗子のことを、クラスの一員としてカウントすることさえしていなかった。
その日、久志たち有志はいつものように放課後の教室に残り、制作の相談をしていた。修、千佳、和也に加えて、あのときはまだ他にも一人か二人いたかもしれない。中心にいたのは、もちろん槙恵介だ。
当時の久志にとって、恵介は完璧な高校生だった。元バスケ部のエースで、長身かつ顔もよく、明るい性格。かといって、騒がしくはしゃいだり、悪ノリしたりすることはなく、言動にどこか余裕がある。勉強のほうはそこそこだが、読書家で話題も豊富。誰にでも分け隔てなく接するので、常に同級生たちに囲まれている。当然、モテないわけがない。その頃は誰とも付き合っていなかったはずだが、女子に手紙やチョコレートを渡されているところを目撃したのは一度や二度ではなかった。
タペストリーの図柄はオオルリに決まり、絵の得意な千佳が色鉛筆できれいな原画を描き上げてきていた。それを囲んでの話し合いはたびたび脱線し、バカ話になった。そのときもきっと、修のくだらない冗談で盛り上がっていたのだろう。
「ねえ、ちょっと」いつの間にいたのか、教室の後ろで彗子が言った。「これ、どけてほしいんだけど」
彗子が仏頂面で指差していたのは、箱詰めの状態で積み上げられた空き缶の山。すでにクラスに呼びかけて回収を始めていて、その時点でおそらく千個以上あったと思う。それが彗子のロッカーの前をふさいでいたのだ。
「ああ、わりい」恵介はいつもの朗らかな声で応じると、座っていた机から飛び降りて、和也と一緒にすぐ箱をどけた。
そこで終わると思っていたやり取りが、意外なことにまだ続いた。
「空き缶、何個必要なの」彗子がぼそりと訊いたのだ。
「目標は、一万個かな」恵介は気安く答えた。「山際さんも、家で集めといてよ」
「とくに何色?」
「色? ああ……何色だろ。一番使いそうなのは、たぶん、青系かな」
「たぶん?」彗子は眉をひそめ、空き缶の山を見上げた。「もしかして、何も考えずに集めてるの? 設計図は?」
「設計図かあ。やっぱいるよな、そういうの」恵介は苦笑いを浮かべて言った。「今はまだ、原画しかなくてさ」
恵介が彗子を久志たちのほうへ連れてきて、千佳の絵を見せた。
「どんな空き缶をどう並べて、この図柄にしていくわけ?」彗子は縁なし眼鏡を持ち上げて、恵介に訊いた。
「まだちゃんと考えてないんだけど……とりあえずこの絵を拡大コピーして、格子状に線を引いて――」
「効率が悪すぎる」彗子は冷たくさえぎり、机の上の絵を手に取った。「これ、二、三日借りていい?」
そして、三日後。彗子が持ってきたものを見て、有志みんなで仰天した。
まず、細かな長方形のピクセル一万個で描かれた、海と山を眼下に羽ばたくオオルリ。千佳の原画をパソコンを使って再現したものだった。当然ながら、個々のピクセルの縦横比は空き缶と同じ比率になっている。彗子が作成した画像を、父親の会社のカラープリンターで出力してもらったという。
その下の紙束には、〈1水水白白白銀銀……〉というふうな文字の羅列が延々と印字されていた。これは、「第一列は上から水色、水色、白色、白色……」の順で空き缶を並べるという意味だ。この表さえあれば、空き缶を針金でつないでいく際、原画や図面にあたることなく誰でも機械的に作業ができる。そして、一万個分の表の最後には、何色の缶が何個必要かというデータがまとめられていた。
久志が一番驚いたのは、彗子がこれらすべてを、自宅のパソコンで自らプログラムを組んでおこなったということだ。しかも、たった三日間で。プログラミングはおろか、当時はパソコンに触れたことさえほとんどなかった久志には、それが同級生の技術だとはとても信じられなかった。
恵介の感激ぶりは相当なもので、その場で「頼む、俺たちの顧問になってくれ」と彗子に頭を下げた。彗子が何と答えたかは覚えていないが、そのときから彼女が仲間の一員になったのは確かだ。
荷重に耐えられる針金の太さを計算したのも、タペストリーを屋上の手すりに固定する方法を考案したのも、それに必要な木材の部品を設計したのも、彗子だった。恵介に求められると翌日には回答を提示したので、おそらく彗子の頭の中ではほぼ完璧な設計図がとうに出来上がっていたのだろう。
彗子が担ったのは、あくまでブレーンとしての役割だ。炎天下での空き缶集めやその洗浄、穴あけや編み込みなどの作業には加わらず、夏休みは毎日学校の図書室で受験勉強に勤しんでいた。その行き帰りには時どき様子を見にきたし、必要となれば制作現場で指示も出したが、勉強第一という自分のペースを崩すことはなかった――。
額をつたってきた汗が、目に入った。浴槽の湯を手ですくい、顔を洗う。
彗子がいなければ、タペストリーは完成しなかった。修も千佳も、ことあるごとにそう言う。そのとおりだと久志も思うし、感謝もしている。ただ――。心の片隅に、ずっと何かが引っかかっている。感謝していることそれ自体に、かすかな違和感を覚えてしまうのだ。
修や千佳、和也に久志が抱いている感情は、感謝ではない。あの夏、ともに汗と涙を流した戦友への思いを表すのに、感謝という言葉がふさわしいとは思えない。
感謝はときに上下関係を形づくるからだ。すべてを見通していた彗子に対する感謝の念は、ともすると自分が見下されているという感覚を呼び起こす。その感覚の根っこにあるのは結局のところ、嫉妬と羨望なのだろう。彗子の非凡さに対する嫉妬。明確な夢を持ち、それを才能と努力で実現させていく姿への羨望。
子どもたち集めて、星空観察会でもすんのかよ――。
昼間、修は彗子にそう言った。いかにも修らしい心配の仕方だと思う。その言葉の裏にあるのは、「そんなんで終わるスイ子じゃねえだろ」という激励だ。
だが久志は、修の言葉を聞きながら、終わりであってほしいと心のどこかで思っていた。彗子が人生につまずくところを見てみたいという自分がいるのを、うっすら感じていた。
幸せホルモンの出が悪いと、人の不幸まで願うようになるのか――。
自己嫌悪を振り払うように、勢いよく湯から上がる。洗い場の椅子に腰かけてシャワーを出し、まだ冷たいまま頭に浴びた。
Ⅱ 五月――千佳
カーナビに表示された時刻を確かめて、千佳はハンドルを左に切った。少しぐらい回り道をしても、約束の一時には間に合うだろう。古めかしい家と新築が交互に並ぶ坂道を、ゆっくり上っていく。
目的地と逆の方向へ進んでいるのは、和也の家の前を通っていくためだ。自宅から車でたった一分の距離なので、急いでいないときは最近必ずそうしている。意味などほとんどないことはわかっているが、何もしないでいるのは落ち着かなかった。
坂のつきあたりで右に折れる。前方左手に、もう梅野家が見えている。青い瓦屋根に目をやるが、和也の姿などない。
そのままゆっくり通り過ぎようとしたとき、門の中に和也の母親の姿が見えた。反射的にブレーキを踏むと、向こうもこちらに顔を向けた。植木に水をやっていたらしく、じょうろを持っている。
助手席側の窓を下ろし、首をのばして「こんにちは」と声をかけた。
「あら……」うつろだった母親の瞳が、徐々に焦点を結ぶ。「伊東さん。こんにちは」
彼女は昔と変わらず、いつも旧姓で呼んでくれる。この世代の女性にそう呼ばれると、ふと肩が軽くなる気がするから不思議だ。
「お変わりありませんか」千佳はなるべくやわらかく訊ねた。道端で出会ったときも、もうずっとこの訊き方しかできないでいる。和也の様子だけでなく、彼女のことも気づかっているつもりだった。
「ええ、まあね」母親は力なく微笑む。「あれからおかしなことはしでかしてないから、それだけは幸い」
「そうですか。よかった」
ジャケット姿の千佳を見て、母親が訊いてくる。
「これからお仕事?」
「いえ、ちょっと友人と」
「ああ……世間は連休だわね」
今初めて気づいたかのようにつぶやく母親にどこか申し訳ない気持ちを抱いたまま、いとまを告げた。
しばらく直進してカーブを右に曲がると、坂の下に秦野の市街地が広がる。それを見下ろしながら、南に下っていく。
母親の言葉を聞いて、ひとまずほっとしていた。飛び降りなどという話をそこまで深刻にとらえていたわけではないが、理由もわからないまま二度も屋根に上っていたというのは、久志の言うとおりやはり普通のことではない。
昔の友人に過ぎない自分でもここまで心配になるのだ。母親にしてみれば、息子がいつか妙な気を起こしはしないかと、心労の絶えない毎日だろう。
坂を下り切り、畑と住宅の間を抜けて、葛葉川を渡る。しばらく行くと急に視界が開け、道幅も広くなる。工業団地を貫いて走る県道だ。
建ち並ぶ工場の一つに、製菓会社のロゴが見えた。ここを通りかかるたび、胸の奥を誰かにぎゅっとつかまれたような痛みを覚える。あの工場で一時期、恵介の母親が働いていたのだ。いつのことだったかは忘れたが、千佳がそこのチョコレートを食べているのを見て、恵介がぽつりとそう言った。
中学の卒業式で一度だけ、その母親を見たことがある。息子と同じですらっと背の高い、きれいな人だった。ずんぐりした自分の母親と見比べて、恵介をうらやましく思ったのを覚えている。
彼女は今、どこでどんな暮らしをしているのだろう。子どもを若くして亡くした母親の心の内は察するに余りあるが、そうした母親が浮かべる表情だけは想像がついた。時おり優しく微笑むことはあっても、その優しさが彼女自身に向けられることは決してない。自分の幸せなどとうに考えなくなったという空気を絶えずまとっている。
こんなことが言えるのは、自分の母親を見てきたからだ。彼女もまた、子を失った母親だった。
千佳には、彰洋という兄がいた。歳は四つ違い。小学一年生のとき交通事故に遭い、亡くなってしまった。下校途中、同級生たちと追いかけっこをしていて道路に飛び出し、大型バイクにはねられたと聞いている。
まだ二歳だった千佳に、当時の記憶はない。兄のことも、何も覚えていない。かろうじて思い出せるのは、母がよく一人で泣いていたということだ。記憶の中では、三歳か四歳の自分が「泣かないで、大丈夫だよ」と母を慰めているのだが、本当にそんなことを言ったのかどうか、定かではない。
家の中に悲しみが充満していることを、幼心にも感じ取っていたのだろう。千佳はあえて、どうでもいいことでよく笑った。自分が大笑いすると母もつられてにっこりしてくれることを知っていたからだ。
ハムスターをねだったのも、生き物が好きだったからだけではない。家族が増えればにぎやかになると思ったのだ。その後も実家では、インコ、カメ、ウサギなど、常に数種類の小動物を飼い、千佳が世話をしていた。
小学校に上がる頃には、家の雰囲気も少しは明るくなっていたように思う。ただ、入学式に出た母は、最後には保護者席にいられなくなるほどに、ぼろぼろ泣いていた。卒業式でも、中学の入学式でもそうだ。成長した娘の姿に感極まったのではない。亡き息子を思って泣いていたのだ。母が涙の向こうに見ていたのは、新品のセーラー服に身を包んだ自分ではなく、着ることのなかった詰め襟姿の兄だった。
寂しいと感じなかったといえば、噓になる。そういうことがあるたびに、ここにわたしがいるのにと、悲しくなった。わたしでは両親を幸せな気分にできないのだと、落ち込んだ。
そして、なお辛いことに、そんな気持ちをストレートにぶつけるには母の悲しみの深さがわかりすぎていた。死んだ兄がいる以上、自分は絶対に両親にとっての一番になれないのだということも。境遇がそうさせた面はあるだろうが、自分の子どもたちと比べるとずいぶん早熟だったと我ながら思う。
だから結局、千佳にできたのは、両親の前で笑顔を絶やさずにいることだけだった。それがすっかり板についてしまったらしい。いつもにこにこ。あっけらかん。十代の頃から今までずっと、人からはそう見られてきた。それを嫌だとは思わなかったが、周囲を騙しているという気持ちもどこかにあった。本当の自分はそんな陽性の人間ではない。笑顔の裏にあるのはいつも、無力感とあきらめだ。
そんな胸の奥の翳りを感じ取ってくれた人物が一人だけいた。恵介だ。
恵介と初めて出会ったのは、中学一年で入ったバスケットボール部。毎日のように隣り合うコートで練習するうちに、言葉を交わすようになった。
小学生の頃から地元のクラブでバスケをやっていたという恵介は、入部時から別格の存在で、一年生の冬にはスタメンで公式戦に出ていた。片や千佳は、三年生までずっと声出し要員。背が低く、運動神経も人並み以下なのだから仕方がない。一度は球技に挑戦してみたくて入った部活なので、それで満足だった。
恵介はその当時から、本当の人気者だった。いつもさわやか。完璧な男子。誰もが彼をそう評した。だが千佳は、ある日を境に、恵介がそれだけの人間ではないと思うようになった。少なくとも自分だけはそのことを知っている、と。
中学三年になる前の春休みのことだ。練習のあと、忘れ物をしたことに気づいて体育館に戻ると、恵介が一人でシュート練習をしていた。「頑張ってるね」と声をかけると、恵介は強いパスを寄越し、「やるなら教えてやるよ」と言った。
「いいよ今さら。試合に出られるわけでもないし」千佳はそう言ってボールを返した。
「あきらめが早くね?」
「そ。基本何でもあきらめてんの。実はネクラだし」茶化すように言った。「たぶんみんな勘違いしてるけど」
「俺はしてないよ」
「え――」思わず真顔になった。
「わかる。俺も同じようなもんだから」
「同じって……噓でしょ」
「うわべを繕うしかないじゃんね」恵介がフリースローラインから放ったボールが、ネットを揺らした。「みんなそこしか見てないんだからさ」
そのあと一緒に帰った道すがら、千佳は死んだ兄のことを話した。学校の友人に自らすすんでその話をしたのは、初めてだった。恵介のほうは自分のことをそれ以上語ってくれなかったが、千佳の話に静かに相づちを打つ横顔は、それまでよりずっと大人びて見えた。
今思えば些細なその出来事が、十四歳の千佳には何か特別なことに思えた。あの恵介と、他の同級生たちより少し深いところでわかり合えたような気がしたのだ。
それだけに、恵介も秦野西高校を受けると知ったときは、自分でも驚くほど心がさざめいた。きっとその頃には、彼に憧れ以上の感情を抱いていたのだろう。千佳はもう何も部活をやらなかったが、恵介は高校のバスケ部でもすぐにエースになった。中学時代のチームメイトが女子バスケ部にいたので、彼女にくっついてよく試合を観に行った。フォワードの選手として次々と華麗に得点を決める恵介は、本当にまぶしかった。
彼が練習中に怪我を負ったのは、二年生の冬。膝前十字靱帯断裂の重傷だった。手術を受けて、リハビリ。激しい運動ができるようになるまで八カ月はかかると医者に言われたらしい。結局、そのまま部活は引退ということになった。松葉杖で一人放課後の廊下を歩く後ろ姿が今も目に焼き付いている。千佳は声もかけられなかった。
三年生で同じクラスになったことは、やはり嬉しかった。気持ちを切り替えようとしていたのか、恵介の表情もずいぶん明るくなっていたと思う。
六月に入り、空き缶タペストリーを文化祭に出展しようと彼が言い出したときは、なんでこの時期に、とさすがに呆れた。だが、教壇から皆に訴えかける恵介の真剣な眼差しを見ているうちに、今しかないのかもしれない、と思い直した。このまま卒業すれば、恵介の高校時代は二年の冬で止まったままになる。彼にとってはこの夏が、ここで三年間走り切ったと思えるようになる最後のチャンスなのだ、と。
ならば一緒に走りたいと思った。恵介と何かをやり遂げるのは、千佳にとっても最初で最後の機会だった。下心だと言われたら、そうかもしれない。ただ、一つはっきり言えるのは、自分の想いを恵介に伝えるつもりは微塵もなかったということだ。恵介のような人の一番に、自分がなれるわけがない。あきらめる以前の問題だった。
普段どおりの笑顔で、男女問わず気安く話せる女子の役に徹していれば、誰も自分の想いになど気づかない。誰が見ても恵介とは釣り合わない自分がいくら彼と親しくしたところで、やっかむ女子もいない。実際、本人はもちろん、修たちや女子の友人にも卒業までまったく勘づかれなかったはずだ。
一回目か二回目の有志の集まりのあとだったと思う。みんなで学校を出たのだが、最後には千佳と恵介の二人になった。自転車を押して歩きながら、恵介が「タペストリーの絵、どんなのがいいと思う?」と訊いてきたのだ。
「そうだねえ」千佳は少し考えて、言った。「定番だけど、鳥とか」
「白いハトか?」
「ハトなんてダサいよ。もっとカッコよくて、地元感があって――あ! オオルリは? きれいな青い鳥。丹沢まで行けばいるんだよ」
「でかい鳥なの?」
「スズメよりちょっと大きいぐらい。頭から背中まで瑠璃色で、顔は黒くてお腹は白。春になると南から渡ってくんの。オオルリ、コルリ、ルリビタキ。その三つが日本の青い鳥御三家なんだって」
「へえ、さすが生物オタク」
「いやいや、そんなこと言ったら、本物のオタクに怒られるよ」
「青い鳥か。いいかもな。幸せの青い鳥」
「でもあたし、あの話はあんまり好きじゃないんだよね。チルチルとミチル。子どもの頃読んでさ、ちょっと辛かったよ」
「兄と妹の話だからか」
「そう」千佳はあえておどけた。「うち、チルチル死んじゃってるじゃん! その時点で幸せさがし無理じゃん! あーあ……って」
「千佳らしいな」恵介は小さく笑い、訊いた。「あの物語のラスト、どんなのか知ってる?」
「そりゃ知ってるよ。結局、兄妹は青い鳥を捕まえられないまま、夢から覚めるでしょ。そしたら家の鳥かごに、青い鳥がいる。ああ、本当の幸せって、普段の生活の中にあったんだね。チャンチャン、でしょ」
「それが、ちげーんだって」恵介はにやりとした。「『青い鳥』の原作って、実は劇の脚本でさ、結構長い物語なんだよ。で、ラストにはまだ続きがある。夢から覚めたら、鳥かごに青い鳥がいるじゃん。それを隣りの家の脚の不自由な女の子に抱かせたら、脚がすぐに治るんだよ。兄妹で大喜びしてたら、ふとした拍子に鳥が逃げ出して、どこかに飛んでっちまう」
「え、マジ? それでどうなるの?」
「どうにもなんない」恵介はかぶりを振った。「ミチルは泣き出す。チルチルは呆然として、僕たちに青い鳥を返してください、みたいなことを叫ぶ。以上」
「以上? 切ない、切なすぎる」
「でも、なんかわかるじゃん、そのラスト。俺はそっちのほうが好きだよ。千佳もだろ」
「ああ……そうかも」
翌日、『青い鳥』の原作を読んでみたくて学校の図書室に行ったが、そこにはなかった。市の図書館でさがしてみようと思っているうちに、タペストリー作りが忙しくなった。文化祭が終わり、受験勉強に本腰を入れるようになってからも時どきは思い出したが、後回しでいいと思っていた。
恵介とまた『青い鳥』の話をする機会ぐらいこの先いくらでもあると、当たり前のように信じていたのだ――。
いつの間にか、カルチャーパークの脇を通り過ぎていた。
つきあたった国道を、渋沢駅のほうへ進む。駅前に続く通りの手前で右に折れ、すぐ左手にあるコンビニの駐車場に入る。
端のスペースに停め、そのまま車の中で待っていると、通りに彗子の姿が見えた。やはり、一時ぴったりだった。
彗子を助手席に乗せて、国道を東に向かう。
彼女に頼まれたのは、丹沢のほうまで車で連れて行ってほしいということだった。目的はもちろん、天文台の候補地さがし。いい場所があれば、そこの地主を調べて直接交渉してみるつもりだそうだ。
面倒だとはまったく思わなかった。あの夏のことを彗子に何も返せないまま、二十八年もの月日が流れてしまったのだ。やっと再会できた彗子の力に少しでもなれることが、ただただ嬉しかった。
今日は、東丹沢を南北に縦断する県道七〇号を走ることになっている。重点的に回るのは、ヤビツ峠周辺。丹沢表尾根の東の端にあたり、登山口がある。
彗子は、膝に置いたタブレットにその周辺の地形図を表示させていた。彼女のことだから、見るべきポイントはしっかり決めてきているはずだ。
「免許はいつ頃取れそう?」千佳は訊いた。こっちに越してきて以来、彗子は毎日のように教習所に通っているらしい。
「あとひと月ぐらいかかるかも」彗子は真顔のまま言う。「昨日、仮免落ちたし」
「あたしも一回落ちたよ。仮免さえ通ったら、すぐだって」
水無川を渡り、大きな工場の敷地にさしかかる。平たい建物に目をやった彗子が、「懐かしい」とつぶやく。
「そっか、ここだったよね。お父さんの会社」
「あの工場の奥が、研究所だった。もう移転したらしいけど」
彗子の父親は、大手化学メーカーの研究所で働いていた。博士号を持つ幹部研究者だったというから、エリートだったのだろう。自分たちの高校卒業と同時に定年を迎えたはずなので、彗子は父親が四十を過ぎてから生まれた子ということになる。健在だろうかと気になって、話をそちらに振ってみる。
「島根にはちょくちょく帰ってるの? 帰るって言い方も変だけど」
彗子が生まれ育ったのはここ秦野だが、両親はともに出雲の出身。父親の退職後すぐ、夫婦で秦野を離れ、故郷へ帰っていた。
「お盆と正月はね。あと、父の法要があれば」
「あ……お亡くなりに――」
「五年前」
「じゃあ、今はお母さん一人なんだ」
「うん。でも母はまだ元気だし、すぐ近所に親戚も大勢いるし。意外とにぎやかにやってる」
「そっか」千佳はそこで声のトーンを少し上げた。「あたし、山陰って行ったことないんだ。ちょっと神秘的だよね、出雲大社とか」
「神秘的かどうかはわからないけど、静かないいところではある」
その言葉を聞いて、ふと思う。
「例えばだけど、天文台、島根に作ろうと思ったりはしなかったの? きっと、星だってすごくきれいでしょ」
「冬場の天気が悪いんだよ。日本海側だから」
「ああ、なるほど。その点、こっちの冬はたいてい晴れてるもんね。だけど――」
今向かっているヤビツ峠や、西丹沢の丹沢湖などは、関東の星空の名所に挙げられていると聞いたことがある。だが、例えばヤビツ峠は夜景スポットとしても有名な場所だ。秦野市街から湘南にかけての街明かりがそれなりにあるので、天体観測にも影響するのではないか。
そんな千佳の疑問を察したのか、彗子は小さくうなずいて言った。
「観測の条件だけを考えたら、もっといい場所は他にいくらでもある。長野とか沖縄の離島とか。いずれはそういう場所にも拠点が作れたらいいなとは思う。でも――」
彗子は首を左に回し、窓の外に目をやる。
「ここで始めたかったんだよ。もう一度」
珍しく彗子の言葉に感情がにじんだ気がして、彼女のほうを横目でうかがった。だが、その表情がガラスに映ったのはほんの一瞬だけで、何も読み取ることはできなかった。
(続きはぜひ本書でお楽しみください)
書誌情報

書名:オオルリ流星群
著者:伊与原 新
発売日:2024年06月13日
定価:880円 (本体800円+税)
ページ数:352ページ
判型:文庫判
ISBNコード:9784041148815
発行:KADOKAWA
レーベル:角川文庫
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322312000938/
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