「誰もが無価値な自分と闘っている」最終話読了



みんなが笑って過ごせるように

『誰だって無価値な自分と闘っている』最終話・読了メモ

最終話を観終えて、まず思ったのは、これは表向きにはドンマンのサクセスで終わる物語なのだということだった。

ファン・ドンマンは、映画監督として表に立つ。
賞をもらう。
名前が知られる場所へ行く。

何者でもないと言われ、何者にもなれないままもがいてきたドンマンが、ついに「映画監督」として見られる場所へ行く。

でも、見終えたあとに残ったのは、ドンマンが成功したということだけではなかった。

その成功の裏には、オ・ジョンヒ、ジンマン、コ・ヘジンの物語があった。

恨みを引き受けた人。
喪失を抱えたまま、もう一度書き始めた人。
才能をリングに上げ、自分の見る目ごと賭けた人。

ドンマンの受賞は、彼ひとりの勝利ではない。
その背後で、誰かが何かを引き受けていたから成立したものだったのだと思う。



ドンマンの受賞スピーチに、このドラマのメッセージが出ていたと思う。

どんな人間になりたいか。

その問いに対して、ドンマンは、

みんなが笑って過ごせるように

と答える。

ここに、この作品の着地点があったと思う。

ドンマンは、価値ある人間になって終わったわけではない。
何者でもない自分に勝利して、完全に立派な人になったわけでもない。

彼は最後まで、どこかみっともない。
調子に乗る。
前歯もなくす。
映画の話で自分の感情を渡そうとする。
コメディアンの真似もする。

でも、そのみっともなさのまま、彼は戦うことを選んだ。

そして最後にたどり着いた願いが、

みんなが笑って過ごせるように

だった。

これは、ただ明るい言葉ではない。

ドンマンは、壊れてしまった兄を見ている。
捨てられた娘たちを見ている。
自分自身も、何者でもないと言われる痛みの中にいた。

だから彼の「笑って過ごせるように」は、痛みを知らない人の言葉ではない。

傷つくことを知った人が、それでも誰かが笑える場所を願う言葉だった。



ドンマンは受賞の場で、ジンマンとヨンシルへ向かって呼びかける。

兄貴、賞もらったよ。
ヨンシル!叔父さん、検索に引っかかるぞ!

ここが、とてもドンマンらしかった。

普通の受賞スピーチなら、もっときれいにまとめられる。
感謝の言葉を並べ、立派な決意を語ることもできる。

でもドンマンは、兄に向かって報告する。
そしてヨンシルに向かって、自分が検索に引っかかるぞと言う。

この言葉は、俗っぽくて、可笑しくて、でもとても切実だった。

ドンマンの成功は、自分が有名になるためだけのものではない。
失われた人に届くための灯りになっている。

検索に引っかかる。
名前が出てくる。
どこかで誰かが見つけてくれるかもしれない。

それは、ドンマンらしいサクセスだった。

成功しても、彼は美しく整えられた人間にはならない。
でも、自分の名前が誰かに届く可能性を、必死に信じている。

その姿がよかった。



そして最後に、ドンマンは言う。

これからも一生懸命に映画を作ります。

この終わり方がとてもよかった。

受賞で終われば、「何者でもなかった男が、ついに何者かになった話」になる。

でも、このドラマはそう終わらない。

これからも作る。

そこに着地する。

ドンマンにとって、映画を作ることは、自分の価値を証明するためだけのものではなくなったのだと思う。

誰かが笑って過ごせるように。
兄貴に届くように。
ヨンシルに届くように。
失われた人が、どこかで見つけられるように。

そのために、これからも作る。

つまりこのドラマは、ドンマンが成功する話ではなく、ドンマンが「作り続ける人」になるまでの話だったのかもしれない。

価値ある人間になったから終わりではない。

無価値な自分と闘いながら、
それでも映画を作り続ける。

その選択で終わったことが、とてもドンマンらしかった。



オ・ジョンヒの最終話も、かなり大きかった。

ジョンヒは、良い母ではなかった。

ウナを隠した。
ミラを飾った。

ウナは、ジョンヒにとって「なかったことにしたい娘」だった。
ミラは、ジョンヒにとって「飾りとして見せたい娘」だった。

ジョンヒは、自分の成功した人生を守るために、娘たちを配置してきた人だった。

でも最終話で、ジョンヒは二人の娘にそれぞれケジメをつける。

ミラには、暴行事件の責任を取らせる。
賠償金と、一年の活動停止。

これは、ミラを守るだけの行為ではなかったと思う。

むしろ、ミラを「セレブ母娘」の飾りとしてではなく、責任を負うひとりの人間として扱ったように見えた。

甘やかさない。
隠さない。
なかったことにしない。

それもまた、ジョンヒなりの母だったのだと思う。



ウナに対してのジョンヒは、もっと強烈だった。

ウナがシナリオを書いていることを知る。
そのシナリオのセリフや人物の痛みが、自分への恨みから出ていることを知る。

そこでジョンヒは、ウナに言う。

全部書け。
全部読む。
心に刻んで生きていく。
だからあなたは、私への恨みを終わらせて、前へ進みなさい。

ここは、とても重かった。

ジョンヒは謝らない。
償うとも言わない。
許してほしいとも言わない。

普通なら、ここは謝罪の場面にできる。

ごめんね。
私が悪かった。
許してほしい。
あなたを愛していた。

でも、ジョンヒはそこへ行かない。

それは冷たいのではなく、たぶん彼女なりに分かっているからだと思う。

謝ったところで、ウナの人生は戻らない。
償うと言ったところで、捨てられた時間は返らない。
許してほしいと言えば、それはまたウナに負担をかける。

だからジョンヒは、許しを求めない。

代わりに、恨みを引き受ける。

全部書け。
全部読む。
心に刻んで生きる。

これは母としての言葉でもあり、業界の先輩としての言葉でもあったと思う。

あなたの恨みは、作品になる。
でも、その恨みに一生縛られるな。
書き切って、私に背負わせて、あなたは次へ行け。

そう言っているように見えた。

ジョンヒは、良い母ではなかった。
でも最後に、強い母になろうとした。

娘たちを自分の人生の都合で配置する母から、娘たちが前へ進むために、自分が重荷を持つ母へ。

最終話のジョンヒは、そこへ行ったのだと思う。



ジンマンの着地も、とても静かで大きかった。

ジンマンは、娘が見つかり、また詩を書き始める。

これを単に「創作意欲が戻った」とは見たくない。

ジンマンは、詩を書けなくなった人ではなかった。
詩人でありすぎた自分を許せなくなった人だった。

娘がいなくなったのに、いい詩が書けてしまった。
そのことを、どこかでうれしいと思ってしまった。

それが嫌だった。

自分の喪失でさえ作品になってしまう。
しかもそれが良いものになってしまう。
その時、自分の中に詩人としての喜びがあることに気づいてしまった。

ジンマンは、その自分を許せなかったのだと思う。

だから彼にとって詩は、才能ではなく罪になっていた。

でも最終話で、娘が見つかる。

喪失が消えるわけではない。
失った時間が戻るわけでもない。
自分を責めてきた年月がなかったことになるわけでもない。

それでも、娘が完全な不在ではなくなる。

すると、詩もまた、娘を失った自分の罪の証拠ではなく、もう一度つながるための言葉になれる。

ジンマンは、詩を書く自分をもう一度許し始めたのだと思う。

ドンマンの受賞が表のサクセスだとすれば、ジンマンがまた詩を書き始めたことは、このドラマの裏側にあるもう一つの回復だった。



コ・ヘジンもまた、最終話の裏側にいる重要な人だった。

ヘジンは、ドンマンを救った人ではない。
リングに上げた人だ。

ドンマンをデビューさせることは、ドンマンへの救済ではなかった。
ヘジン自身の10年、プロデューサーとしての見る目、信じてきたものを賭ける行為でもあった。

ドンマンが成功すれば、ヘジンの見る目もひとつの答えを得る。
もし失敗すれば、ヘジン自身も傷つく。

それでも、彼女はドンマンを現実の場所へ出した。

ドンマンは、ヘジンによってリングに上げられた。
そして、彼女が見てきたものを、現実に晒した。

この受賞は、ドンマンのものだけではなく、ヘジンの賭けの結果でもあったと思う。

一方で、ヘジンはギョンセとの20年にも向き合う。

ヘジンは離婚を申し出る。
ギョンセは、共同脚本家を切り、ヘジンとともに生きることを選ぶ。

これは、ただ「妻を選んだ」という話ではないと思う。

ギョンセにとって共同脚本家は、若さ、承認、もう一度始まる感じ、ヘジンに見抜かれていない自分を味わえる場所だった。

そこへ逃げ込むことはできた。

でもギョンセはそれを切った。
そして、ヘジンのもとへ戻った。

それは、きれいな夫婦愛というより、自分の小ささも弱さも全部知られている人と、それでも生きることを選んだということだと思う。

ヘジンは、ドンマンを現実へ出し、ギョンセには現実へ戻ることを求めた人だった。

最終話で彼女が見届けたものもまた、大きかった。



ウナとミラの着地も、とてもよかった。

ウナは、なかったことにしたい娘。
ミラは、飾りとして見せたい娘。

二人は最初、対照的に描かれていた。

ウナは隠された。
ミラは飾られた。

でも、どちらも本当には娘として見られていなかった。

最終話で、二人は近づく。
ウナはミラに、自分がオ・ジョンヒの実の娘であることを明かす。

普通なら、ここは嫉妬や怒りにできたと思う。

本当の娘はあなただったのか。
では私は何だったのか。
私は飾りだったのか。

でも、ミラはウナを責めない。

ゆっくりと、柔らかく抱く。

その抱擁は、慰めでも同情でもなかったと思う。

いたんだね。

そういう存在の確認だった。

ウナは、ジョンヒに隠された娘だった。
ミラは、ジョンヒに飾られた娘だった。

違う形で捨てられた二人が、母の配置を超えて、お互いを見つけた。

そこが美しかった。

このドラマは、ドンマンの物語でありながら、やはり女性たちの物語でもあったのだと思う。



最終話は、ドンマンの受賞で終わる。

でも、その裏には、オ・ジョンヒ、ジンマン、コ・ヘジンの物語があった。

ジョンヒは、恨みを引き受けた。
ジンマンは、喪失を抱えたまま、もう一度詩を書き始めた。
ヘジンは、ドンマンをリングに上げ、自分の見る目ごと賭けた。
ウナとミラは、互いの存在を確認した。

だからドンマンの言葉は、ひとりの成功者の言葉ではなかった。

みんなが笑って過ごせるように。

その「みんな」の中には、ジンマンもいる。
ヨンシルもいる。
ウナも、ミラも、ヘジンも、ジョンヒもいる。
そして、何者でもない自分と闘っている人たちがいる。

このドラマは、無価値な自分に勝つ話ではなかった。

無価値な自分を抱えたまま、
それでも誰かを見捨てず、
誰かの恨みを引き受け、
誰かの喪失を抱え直し、
誰かを現実の場所へ送り出し、
誰かが笑って過ごせるように、作り続ける話だった。

ドンマンは、成功して終わったのではない。

これからも一生懸命に映画を作ります。

そう言って終わった。

だから私は、この最終話を、成功の終わりではなく、継続の始まりとして受け取った。

可笑しく生きるために。
みんなが笑って過ごせるように。
これからも映画を作る。

それが、ファン・ドンマンの答えであり、このドラマの答えだったのだと思う。

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