『誰だって無価値な自分と闘っている』第7話・1回目読了

誰が、誰の価値を決めるのか

『誰だって無価値な自分と闘っている』第7話・1回目読了

第7話は、女性側が前に出てきた回だったと思う。

これまでドンマン、ギョンセ、ジンマンを中心に、「無価値さ」や「助けてと言えない人たち」が描かれてきた。
でも第7話では、ウナ、ミラン、オ・ジョンヒ、ヘジンという女性たちの線が一気に浮かび上がった。

この回で問われているのは、たぶん、

「誰が、誰の価値を決めるのか」

ということだと思う。


まず大きかったのは、8人会の代表であるパク・ヨンセに、ドラマのタイトルでもある

「誰だって無価値な自分と闘っている」

という台詞を言わせていたこと。

これは見逃せない。

しかも折り返し地点の次のエピソードで、この台詞を置いてきた。
これは作家の意図だと思う。

このドラマは、ドンマンだけが無価値な自分と闘っているわけではない。
ギョンセも、ジンマンも、ウナも、ヘジンも、ミランも、オ・ジョンヒも、それぞれ違う形で自分の価値をめぐって揺れている。

第7話では、その問いがよりはっきりした。

誰かに選ばれること。
誰かに愛されること。
誰かに認められること。
作品が評価されること。
母に娘として見られること。
仕事として価値を認められること。

人は何によって、自分の価値を確認するのか。
そして、その価値は本当に誰かに決められるものなのか。

そこが問われているように感じた。


ドンマンは、この回で少しだけ幸せに見えた。

ミランがみんなの前で、ドンマンを好きだと堂々と言う。
それに対してドンマンは、

「僕はウナ様が好きなんだけど」

と返す。

これまでのドンマンは、不安になると食べ、言葉で自分を守り、過去にしがみつく人だった。
でもここでは、自分の感情を人前で言う。

誰かに愛されること。
そして、自分も誰かを愛していると言えること。

ドンマンはやっと、その入口に立ったのだと思う。

ただし、それは「恋愛で救われた」ということではない。
ウナがいることで、ドンマンの価値が作られたのではない。
むしろ、もともとあったけれど誰にも見えず、自分でも見られなかったものが、ウナによって少しずつ可視化されてきたのだと思う。

そのことで、8人会のメンバーたちも、言葉ではない形でドンマンの価値を少しずつ認めはじめているように見えた。


一方で、三角関係への危惧も出てきた。

ミランがドンマンを好きだと言う。
ドンマンはウナが好きだと返す。
ウナはそれを黙って聞いている。

この構図だけを見ると、韓国ドラマにありがちな三角関係の気配がある。

でも、この場面で重要なのは、恋愛そのものよりも、ウナが「人前で選ばれる」ということだと思う。

ウナは、母オ・ジョンヒに捨てられた娘だ。
そして母のそばには、血のつながらない娘としてミランがいる。

ウナにとって傷なのは、ただ捨てられたことだけではない。
自分がいるはずだった場所に、別の誰かが置かれていること。
自分は見えない場所に置かれ、ミランは見える場所にいること。

そのウナが、ドンマンによって人前で選ばれる。

だから、あの沈黙は単なる照れや驚きではないと思う。
自分が誰かに公の場で選ばれることに慣れていない人の沈黙のように見えた。


オ・ジョンヒとウナの場面も重かった。

ジョンヒはウナに近づき、住まいを替え、カードを持ち、困らない暮らしをしろと言う。
でもそれは、母として娘を迎え入れる言葉ではない。

自分が恥ずかしく思うから、ウナの暮らしを整えようとしている。

ウナが欲しかったのは、お金でもカードでも住まいでもない。
母に、自分を恥ずかしいものとして扱われないことだったはずだ。

ウナはジョンヒに、自分を「あなたが捨てた娘」として世間に公開しないでほしい、自分も決してしないから、と言う。

これは、とても痛い線引きだった。

母として認めてほしい、という言葉ではない。
むしろ、

あなたが私を娘として認められないなら、私もあなたの娘であることを利用しない。

そう言っているように聞こえた。

ウナには、ジョンヒに愛されたかった恨みと悲しみと寂しさしかない。
だから彼女はジョンヒを「軽蔑の塊」と言う。

そして、あなたは父も私も恥ずかしいから捨てたのでしょう、と正面から突きつける。

ここで見えてくるのは、母娘の愛憎というより、
「恥として扱われた人間が、自分を再び誰かの都合で処理されることを拒む姿」だった。


ヘジンも、この回でかなり重要だった。

これまでヘジンは、ギョンセの妻であり、ドンマンを10年間映画監督としてデビューさせようと育ててきたプロデューサーとして見えていた。
でも第7話では、制作会社の経営者としての顔がはっきり出る。

チョン・フィルムの社長から嫌味や軽蔑を受けても、彼女は我慢しながらビジネスを進める。
言い返したいことはあるはずなのに、作品を成立させるために飲み込む。

ヘジンもまた、「いい作品を作ること」に価値を持つ人なのだと思う。

国の補助金を受けながら映画を制作していることも明らかになる。
おそらく、独立系映画や作家性のある作品を多く作る制作会社に近いのだろう。

でも、独立系だから清らかに作品だけを見ていればいいわけではない。
資金繰り、補助金、投資家、監督のプライド、脚本の完成度、会社としての信用。
そういう現実を全部抱えながら、それでもいい作品を作ろうとしている。

ギョンセは、自分がどう見られるかに傷ついている。
ヘジンは、作品をどう成立させるかを見ている。

この差は大きい。

彼女は、才能を信じる人であると同時に、その才能を現実の制作物にするために屈辱を飲み込む人でもある。


第7話は、恋愛や家族劇の形を取りながら、実はかなり強く「価値」の話をしている回だったと思う。

ウナは、母に恥として扱われた娘。
ミランは、血はつながっていないけれど、大女優のそばに置かれている娘。
オ・ジョンヒは、母性ではなく体面と管理でウナに近づく人。
ヘジンは、いい作品を作るために経営者として屈辱を飲み込むプロデューサー。

そしてドンマンは、ようやく誰かを好きだと言い、自分も誰かに愛される入口に立った人。

この回は、女性たちが主役の回だったのかもしれない。

ただし、危惧はまだ消えない。

大女優に捨てられた娘。
血のつながらない娘。
三角関係の気配。
母娘の愛憎。
恋愛と救済の接近。

設定だけを見ると、韓国ドラマが陥りがちな陳腐さに流れる危険はまだある。

でも、このドラマが強いままでいるなら、これらは単なる愛憎劇にはならないはずだ。

恋愛が救済になるのではなく、誰かに選ばれることによって、むしろ自分の傷がよりはっきり見えてしまう。
家族が和解するのではなく、誰を娘として見える場所に置き、誰を恥として隠したのかが暴かれていく。
作品作りも、夢ではなく、屈辱と現実の中で成立していくものとして描かれる。

第7話は、折り返し後の最初の一手としてかなり重要だった。

誰もが無価値な自分と闘っている。
では、その闘いは、誰かに勝つことなのか。
誰かに選ばれることなのか。
誰かに認められることなのか。
それとも、何者でもないかもしれない自分を抱えたまま、それでも生きることなのか。

ここから後半、その答えをどう出すのかを見ていきたい。

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