『誰だって無価値な自分と闘っている』第11話・読了メモ
白菜のように、ラストへ運ぶ回
第11話を何度も観た。
でも正直に言うと、少し書きづらい。
第10話の密度が高く、最終話である第12話のラストもかなり濃い。
その間にある第11話は、どうしても少し霞んで見える。
ただ、何度か観ているうちに、この回は濃い味で勝負する回ではないのだと思った。
ジンマンが運んでいた白菜のような回。
味が強いわけではない。
でも、なくてはならない。
鍋の中で、ほかの具材や出汁を受け止めながら、最後にはちゃんと身体に残る。
第11話は、そういう回だったのかもしれない。
この回で、ウナは大きく一歩踏み出す。
自分がヨンシルだと、チェ代表に明かす。
これは、ただの告白ではない。
隠されてきた人間が、自分の名前を自分で出す行為だったと思う。
ウナはずっと、オ・ジョンヒにとって「なかったことにしたい娘」だった。
存在しているのに、表に出されない。
娘として認められない。
ジョンヒの成功した人生の中では、見えない場所に置かれてきた。
でも第11話で、ウナは自分から名前を出す。
誰かに暴かれるのではなく、自分で明かす。
自分の過去、自分の名前、自分の傷を、自分のカードとして切る。
これはかなり大きい。
ウナはもう、ただ隠される側にいるのではない。
自分がどこへ出るのか、誰に何を明かすのかを、自分で決め始めている。
ドカッと一歩踏み出した感じがあった。
ジョンヒもまた、ウナに向かってくる。
彼女はウナに、作家として問いに行く。
なぜ、主人公が女性に変わったらだめなのか。
これは母娘の会話でありながら、同時に、女優が作家へ物語の中心を要求する場面だったと思う。
ジョンヒは、ウナを娘としてまっすぐに見てこなかった。
けれどここでは、ウナを作家として見ている。
それは皮肉でもあり、残酷でもある。
母としては認めなかった相手に、女優として、物語の中心を問いに行く。
でも、この問い自体は簡単には退けられない。
なぜ主人公が女性ではだめなのか。
なぜ物語の中心に女が立ってはいけないのか。
これは、ジョンヒの野心でもある。
自分が築いてきた成功、女優としての欲望、物語の中心に立ちたいという強い意志。
そして同時に、このドラマ全体への問いでもあると思った。
主人公はファン・ドンマンかもしれない。
でも、物語は誰のものなのか。
第7話以降、ウナ、ヘジン、ミラ、ジョンヒの描かれ方を見ていると、本当は物語を動かしているのは女性たちなのではないかと思うことがある。
ウナは名乗る。
ジョンヒは主人公の座を求める。
ヘジンは作る人間として賭ける。
ミラは飾られた娘ではなく、自分の痛みを持った人として立ち上がる。
第11話は、誰が物語の中心に立つのかを、静かに問い直す回でもあった。
ヘジンも強烈だった。
試写会と打ち上げに誘っても、ギョンセは出てこない。
けれど、共同脚本家のメッセージ一本で出てきてしまう。
これは、ただの嫉妬ではないと思う。
ヘジンはこの回で、自分がギョンセにかけてきたものを、すべて噛みしめることになる。
20年、夫婦でいた。
ギョンセの作品を支えた。
酷評されても支えた。
彼の小ささも、虚勢も、弱さも見抜きながら、それでも一緒に映画を作ってきた。
そのギョンセが、自分の言葉では動かない。
でも、若い共同脚本家の言葉では動く。
ヘジンが食らったのは、夫を取られるかもしれないという嫉妬だけではない。
私は20年、何を支えてきたのか。
その痛みだったと思う。
共同脚本家は、ギョンセにとって必要な存在だったはずだ。
ヘジン以外の他者と向き合い、自分の弱い部分を認め、本当に共作する機会でもあった。
でもギョンセは、それを創作ではなく、疑似恋愛にしてしまう。
そこがヘジンには見えている。
あなたはまた、作品づくりの不安を、若い女に見られる快感で処理している。
そんなふうに見えているのだと思う。
ヘジンは強い。
でも、強いから傷つかないわけではない。
この回のヘジンは、自分がギョンセにかけてきた20年の重さを、かなり正面から食らっていた。
ドンマンは、映画製作へ進んでいく。
でも、相変わらずみっともない。
そこがいい。
彼は前に進んでいる。
ヘジンにリングへ上げられ、映画監督として現実に晒される場所へ向かっている。
でも、急に立派な人間になるわけではない。
調子に乗る。
浮かれる。
自信を持つことと、調子に乗ることの違いがまだ分かっていない。
そして、ウナがオ・ジョンヒの娘だと知ると、さらにウナを崇める。
神が作った存在とまで言う。
これはかなり危うい。
ウナにとって、オ・ジョンヒの娘であることは誇りではなく、傷でもある。
隠され、恥として扱われ、娘として認められなかったことの証でもある。
でもドンマンは、それを知ってさらにウナを高い場所に置いてしまう。
彼はウナを好きなのだと思う。
でも、まだ対等に愛するところまでは来ていない。
ウナを人間として見るより、救いの存在として崇めてしまう。
そこにドンマンの未熟さがある。
ただ、その未熟さもまた、彼らしい。
このドラマは、ドンマンを美化しない。
戦うことを選び始めたからといって、急に成熟した男にはしない。
ドンマンは進んでいる。
でも、まだ格好悪い。
このドラマは、かなり彼のみっともなさで持っていると思う。
第11話のラストは、とてもドンマンらしかった。
ジェヨンと殴り合いをする。
前歯が取れてしまう。
そのままウナに会いに行く。
普通なら、ここはもっと格好よくできる場面だと思う。
好きな人のために戦った男。
傷だらけで会いに来る男。
ロマンチックにも、ヒーロー的にもできる。
でもドンマンはそうならない。
戦った結果、前歯が取れる。
そのままウナの家へ行く。
玄関の窓越しに、映画のジョーカーの話をする。
そして最後に、前歯のないコメディアンの真似をする。
これがドンマンだと思った。
彼は戦う男になり始めた。
でも、戦った結果としてヒーローになるわけではない。
前歯のない男になる。
道化になる。
笑われる身体になる。
でも、そのみっともない姿のまま、ウナの前へ行く。
そこがいい。
ドンマンは、自分の痛みをまっすぐには言えない。
だから映画の話をする。
ジョーカーの話をする。
コメディアンの真似をする。
それは逃げでもあり、彼なりの告白でもある。
俺はこんなにみっともない。
でも、そのまま来た。
笑ってもいい。
でも、見てほしい。
そう言っているように見えた。
第11話は、濃い味の回ではない。
最終話のような強い回収はまだない。
第10話のように、ひとりの人物が大きく開かれる回でもない。
けれど、人物たちは確実に最後の位置へ運ばれている。
ウナは、自分の名前を自分で出す。
ジョンヒは、女性主人公を求めて作家であるウナに問いに行く。
ヘジンは、ギョンセにかけてきた20年を噛みしめる。
ギョンセは、共同脚本家との疑似恋愛へ逃げる。
ドンマンは映画製作へ進みながら、相変わらずみっともない。
そして最後に、前歯のないコメディアンになる。
やっぱり第11話は、白菜のような回だったのかもしれない。
味が強いわけではない。
でも、最終話へ向かうために必要な回。
いろんな痛みや野心や滑稽さを受け止めて、ラストへ運ぶ回。
物語の中心は誰のものなのか。
第11話は、その問いを静かに置きながら、最後にはドンマンのみっともなさへ戻ってくる。
主人公は、ファン・ドンマンかもしれない。
でも物語は、女性たちのものになっていく。
その真ん中に、前歯を失ったままコメディアンの真似をする男がいる。
それが、このドラマらしいと思った。
