ジンマンは、かつての自分と対面し続けている

『誰だって無価値な自分と戦っている』を見ながら考えたこと

ドンマンより、ジンマンの方を書いてしまうかもしれないと思った。

ドンマンは、いま不安が身体に出ている人だ。
落ち着きのなさ、余計なことを言ってしまう感じ、荒れた所作、平静さの欠如。
不安がまだ動いている人として見える。

でもジンマンは違う。
彼はもう、不安や敗北が生活の温度になってしまっている人に見える。

だから気になる。

ジンマンは、最初から夢破れた人ではなかった

ジンマンの痛みは、最初から持っていなかったものを失った痛みではないと思う。

名門大学を出て、詩人としてデビューまで果たした人だ。
きっと一時期は、近所の英雄だったに違いない。
家族の誇りであり、弟にとっても届かない場所まで行った兄だったはずだ。

だからこそ、彼の人生は単純な「挫折」では済まない。

最初から手の届かなかった夢を諦めるのと、
一度は手にかけた社会的価値、自尊心、期待、周囲のまなざしを失っていくのとでは、みじめさの質が違う。

ジンマンは、たぶん一気に落ちた人ではない。
そこが、余計につらい。

三十代後半までは、きっとどうにか夢にしがみついていられたのではないかと思う。
まだいけるかもしれない。
もう一度書けるかもしれない。
今は生活のために働いているだけだ。
本当の自分はまだ終わっていない。
そうやって、少しずつ現実に押されながら、それでも完全には手放せず、年齢だけが進んでいく。

そのじわじわした失墜は、たぶん今のドンマンよりも、ずっとみじめな過程だったはずだ。

ジンマンが抱えているのは、敗北そのものより、敗北の時間だ

ジンマンがつらいのは、今の生活が苦しいからだけではないと思う。
彼はずっと、かつての自分と対面し続けている。

ああなれるはずだった自分。
まだ終わっていないと思っていた自分。
言葉で生きていけるかもしれなかった自分。
そのどれとも、もう一致しない現在を生きている。

つまり彼にとって苦しいのは、現在の困窮だけではない。
今の自分が、かつての自分を裏切り続けているように感じることなのだと思う。

そういう人は、ただ夢を失うのではない。
夢を持っていた自分そのものを失っていく。

しかも、その「かつての自分」は完全には死んでいない。
詩人だった感覚も、誇りも、言葉の鋭さも、どこかにまだ残っている。
全部失って鈍くなれたなら、まだ楽だったかもしれない。
でもジンマンはそうではない。
残っているからこそ、今の自分と対面するたびに傷つく。

だから彼は、絶望している人というより、
絶望を抱えたまま生活の中に固定されてしまった人
なのだと思う。

酒に逃げるというより、酒でやっと日をまたいでいる。
労働に救われているというより、労働でかろうじて形を保っている。
生活しているように見えて、実際には生活に沈殿した絶望を抱えたまま、今日を終わらせている。

だからドンマンを放っておけない

ジンマンがドンマンを心配するのは、兄としての責任感だけではないと思う。

ドンマンはまだ、傷がむき出しの人だ。
不安が身体に出て、落ち着かず、みっともなく揺れている。
でもそれは裏を返せば、まだ夢の側にいる人だということでもある。
まだ壊れきっていない。
まだ“これから”が切れていない。

だからジンマンは見ていられない。

弟の中に、自分が一度いた場所を見てしまうからだ。
夢にしがみつき、まだ落ち切っておらず、でも危うい。
その姿が、かつての自分の亡霊のように見えるからだと思う。

だから彼の苛立ちは、単なる説教ではない。
ドンマンが嫌いなのでも、見下しているのでもない。
むしろ、自分が通ったかもしれない崩落の手前に弟が立っているのが見えるから、過敏になる。

一言で言えば、
ジンマンは、弟を見ながら、かつての自分とも対面している。

それがつらいのだと思う。

EP3の風呂場の場面が刺さる理由

だからEP3の、風呂場の場面が刺さる。

ジンマンが、自分を終わらせてしまいそうになる。
その気配をドンマンが察する。
そして、ただ慌てるのではなく、必死なんだけれど、優しく、受け止めながら言う。

「ヒョン、ネリョワ」

あの場面が痛いのは、兄を止める場面だからではない。
ドンマンが、兄の絶望の深さを、たぶん初めて身体で察している場面だからだ。

しかも、そこでドンマンは説得しない。
正論を振りかざさない。
大げさに騒がない。
ただ、手をつなぎながら呼ぶ。

あれは、制止ではなく呼び戻しだと思う。
そこに行かないで、ではなく、こっちへ戻ってきて、に近い。

でも、もっと痛いのはその先だ。

ジンマンにとって、ドンマンはただの弟ではない。
かつての自分の亡霊でもある。
まだ夢の側にいる人、まだ完全には折れていない人、まだ“昔の自分”に近い人。
その亡霊に手をつながれて、生還する。

それを、彼はどう思ったのだろう。

救われた、だけでは済まないと思う。
むしろ、生還させられたことによって、もう一度、自分の生と向き合わされる痛みの方が大きかったのではないか。

もし本当に終わってしまっていたなら、何も感じずに沈めたかもしれない。
でも、弟に手をつながれ、「ヒョン、ネリョワ」と呼ばれて戻ってしまった。
それは、生の側に引き戻されることであり、同時に、まだ完全には死んでいない自分を知らされることでもある。

救いであると同時に、残酷でもある。

だからあの場面は、兄が弟に助けられる場面というだけではなく、
弟が、兄の中にまだ残っている“かつての自分”を呼び戻してしまう場面
にも見える。

その痛さが、あのシーンの芯にあると思う。

ドンマンよりジンマンを書きたくなる理由

私はたぶん、ドンマンよりジンマンを書くかもしれない。

ドンマンは、まだ揺れている人だ。
ジンマンは、揺れたあとで固まってしまった人だ。
傷が事件ではなく、生活の温度になってしまっている人だ。

そして私は、そういう人に惹かれる。

今まさに泣いている人より、もう泣かなくなった人。
不安を訴えている人より、不安が生き方の癖になってしまった人。
傷を説明できる人より、傷が生活に沈殿して、自分でも言葉にしづらくなった人。

ジンマンは、そういう人として立っている。

だから気になる。
そしてたぶん、書いてしまう。

彼は、夢を失った人ではない。
期待された人生から落ちていくみじめさを長く生きた人であり、
いまもなお、かつての自分と対面し続けている人なのだと思う。
ジンマンのつらさは、敗北したことではなく、敗北した自分を生き続けなければならないことにある。

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