『誰だって無価値な自分と闘っている』第8話・読了メモ
最後まで行く覚悟がない人たち
『誰だって無価値な自分と闘っている』第8話・読了メモ
第8話を3回観た。
第7話のラストで、ウナは初めてドンマンに「助けて」と言えた。
そしてドンマンは、彼女を助けに向かった。
けれど第8話は、そのまま恋愛の救済へは流れなかった。
助けに向かったはずのドンマンは、結局そこへ行けていない。
雪に閉じ込められた空間で、後輩であるマ・ジェヨンから電話を受ける。
その電話をきっかけに、ドンマンは「生き残る」と真夏を想像し、生還する。
彼らしいといえば、彼らしい。
現実の力で突破するのではなく、想像によって死なない。
目の前は雪なのに、真夏を想像する。
それは滑稽でもあり、同時に作家としての最後の生命線のようにも見えた。
第8話は、コ・ヘジンの回だったと思う。
自分の制作会社で製作を予定していた新人監督マ・ジェヨンが、大きな制作会社であるチェフィルムへ勝手に乗り換える。
それに対してヘジンは怒る。
チェフィルムと縁を切り、ジェヨンも切る。
そして、その代わりにドンマンをデビューさせることにする。
ここでヘジンは、はっきりと「制作する人間」として立つ。
怒っている。
でも怒りだけではない。
情もある。
でも情だけでもない。
彼女は、誰を作品の場に残し、誰を切り、誰に賭けるのかを決めている。
その判断が、とてもプロデューサーだった。
ドンマンに対しても、彼女は甘くない。
「あんたは最後まで行く覚悟がない」
そう痛いところを突く。
これは、第8話のドンマンそのものだと思う。
ウナのところへ向かうことはできる。
でも、最後まで行けない。
作品を作りたいと言う。
でも、最後まで行く覚悟が足りない。
恋でも、創作でも、ドンマンは同じ場所でつまずいている。
向かうことはできる。
けれど、最後まで行けない。
ヘジンはそこを見逃さない。
それでも、彼をデビューさせることにする。
ここが面白い。
普通なら、覚悟がない人間は切られる。
でもヘジンは、そこを突いたうえで賭ける。
甘やかしているのではない。
逃げ場を塞いだうえで、場に立たせる。
それが、ヘジンのプロデューサーとしての強さに見えた。
ただ、第8話をヘジンの回としてだけ読むと、まだ浅い。
ジンマンの話を入れないと、この回の深さは見えないと思った。
ジンマンは白菜の収穫に行っていて、そこで後輩の教授から頼まれ、食事会に参加する。
その場で、なぜ自分が詩を書かなくなったのかを吐露する。
「自分の娘がいなくなったのに、いい詩が書けてうれしく思う自分がいやだった」
これはとても重い。
娘を失った悲しみで詩が書けなくなった、という単純な話ではない。
むしろ逆なのだと思う。
書けてしまったこと。
しかも、それがいい詩になってしまったこと。
そして、そのことをどこかでうれしく思ってしまった自分。
ジンマンは、その自分を許せなかった。
詩人は、苦境の中でも書いてしまう存在なのかもしれない。
痛みの中でも、言葉が出てしまう。
自分の喪失でさえ、作品になってしまう。
その怖さを、ジンマンは知ってしまった。
だから彼は、詩が書けなくなった人ではない。
詩人でありすぎた自分を許せなくなった人なのだと思う。
ここで、このドラマはまた創作の怖いところへ戻ってくる。
人の痛みは、作品になってしまう。
自分の痛みでさえ、作品になってしまう。
そして作り手は、それが良いものになったとき、どこかで喜んでしまう。
ジンマンは、その喜びを拒んだ。
この話があるから、第8話は単なる「ドンマンにデビューのチャンスが来た回」にはならない。
ドンマンは何を書くのか。
誰の痛みを書くのか。
自分の痛みを書くのか。
それを作品にして、喜べるのか。
その喜びを引き受けられるのか。
そんな問いが、ジンマンによって置かれている。
そして、白菜がいい。
ジンマンは白菜をあちこちへ配って回る。
詩ではなく、白菜。
作品ではなく、収穫物。
評価される言葉ではなく、食べられるもの。
詩を書かなくなったジンマンが、今は白菜を運び、人に渡している。
その姿がとてもよかった。
特に、チェフィルムのチェ代表の外車のトランクに、不釣り合いな白菜を載せる場面。
あれは痛快だった。
チェフィルムは、大きな制作会社。
資本、業界、成功、乗り換え、勝ち筋。
その象徴のような外車のトランクに、ジンマンが白菜を載せる。
市場価値では測れない生活の重みが、資本の車に入り込む。
そこが、あっぱれだった。
ジンマンは社会的には落ちた人に見える。
詩を書かなくなった人に見える。
でも彼は、人の痛みを作品にして喜ぶ自分を拒んだ人でもある。
その人が、詩ではなく白菜を渡している。
ここに、第8話のもう一つの倫理があると思った。
第8話は、恋愛救済に流れかけた物語を、制作と創作の倫理へ引き戻した回でもあった。
第7話のラストで、ウナが「助けて」と言い、ドンマンが向かった。
そのまま進めば、傷ついた二人が出会い、恋愛によって救われていく物語にもなりえた。
でも第8話は、そこへ単純には流れない。
ドンマンは、ウナにも、ウナの前の恋人であるマ・ジェヨンにどうしてあんなにも力いっぱい協力したのかと責める。
拗らせ男、再びである。
ドンマンは、ウナを好きだと言えた。
ウナの「助けて」に向かった。
でも、だからといって相手の過去を受け止められるわけではない。
ようやく自分が誰かに選ばれた気がしたからこそ、彼女がかつて別の誰かに力を尽くしていたことが耐えられない。
ここがドンマンらしい。
彼は恋に向かうことはできる。
でも、恋の中で相手を自由な存在として見ることは、まだできない。
だから第8話で、ドンマンとウナの恋愛や傷の舐め合いへ流れる危険は、いったん逃れたように感じた。
やっぱりこの脚本は、恋愛だけに回収しない。
恋愛を出しても、すぐに制作、創作、生存、倫理の方へ引き戻す。
そこがいい。
ウナの線も、確実に進んでいる。
第8話では、ウナが実の母であるオ・ジョンヒに食って掛かる場面があった。
そこで、ジョンヒが少し負けたように見えた。
疲れた横顔が印象的だった。
ジョンヒは大女優だ。
自分がどう見えるかを知っている人。
恥をどう隠すか、自分の人生をどう管理するかを知っている人。
でもウナは、その管理を拒む。
あなたは父も私も恥ずかしいから捨てたのでしょう。
そう正面から突きつける。
ジョンヒは、ウナに住まいやカードを与え、困らない暮らしをさせようとする。
でもそれは、娘として迎えることではない。
自分の恥を処理するための管理に見える。
ウナが欲しかったのは、カードでも住まいでもない。
恥として扱われないことだったはずだ。
一方で、ウナには血のつながらない祖母とのあたたかな会話がある。
この対比が効いていた。
実の母とは、冷静だけれど食って掛かるような会話になる。
でも血のつながらない祖母とは、あたたかく話せる。
このドラマは、血縁が人を救うとは描いていない。
家族は血ではなく、どう扱われたかで決まる。
ウナは、ジョンヒの娘として認められることだけが着地点ではないのだと思う。
むしろ必要なのは、自分が「恥」ではないと、自分で引き受けられることなのかもしれない。
第8話は、いろんな線が動いた回だった。
ヘジンは、制作する人間として誰を切り、誰に賭けるかを決めた。
ジンマンは、創作する人間の怖さを吐露した。
ドンマンは、最後まで行く覚悟のなさを突かれた。
それでも、想像力で生き残った。
ウナは、実母に対して、自分を恥として処理するなと突きつけた。
この回の中心にあったのは、やはりヘジンの言葉だと思う。
「あんたは最後まで行く覚悟がない」
それはドンマンへの言葉でありながら、この回全体に響いている。
作品を作ること。
人を助けること。
愛すること。
詩を書くこと。
母に向き合うこと。
生き残ること。
どれも、途中で止まることはできる。
向かうだけならできる。
でも、最後まで行くには覚悟がいる。
第8話は、その覚悟をそれぞれの人物に突きつけた回だったと思う。
あと4話で、誰がどこへ着地するのか。
ここから先も、楽な救済には行かない気がしている。
でも、どの人物も、もう途中で止まれないところまで来ている。
