# コ・ヘジンは、救わない。リングに上げる。## 『誰だって無価値な自分と闘っている』人物深掘り#
# コ・ヘジンは、救わない。リングに上げる。
## 『誰だって無価値な自分と闘っている』人物深掘り
コ・ヘジンを掘っていくと、このドラマの「制作する人間」の厳しさが見えてくる。
彼女は、ただの強いプロデューサーではない。
ギョンセの妻でもあり、ドンマンを10年間映画監督としてデビューさせようとしてきた人でもあり、8人会の中でもかなり発言力を持つ人でもある。
そして何より、彼女は信念の人だと思う。
でもその信念は、きれいな理想ではない。
現実の泥をかぶった信念だ。
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ヘジンは最初、記者だった。
映像では食べていけないから、記者をしていた。
でも、どうしてもネタがなかった時、上司から病院で幼い子の死因を両親に尋ねろと言われる。
そこで彼女は、その仕事を辞める。
これはかなり大きい。
ヘジンは、人の最も痛い瞬間を「ネタ」として扱う仕事に耐えられなかったのだと思う。
人の痛みを、消費のために取りに行くこと。
悲しみのただ中にいる人から、記事にするための言葉を引き出すこと。
そこから彼女は降りた。
その夜、ギョンセから「愛欲の栓抜き」のシナリオが送られてくる。
ヘジンはそれを読んで、大笑いする。
この出会いは、彼女にとって単に「面白い脚本を読んだ」ではなかったのだと思う。
人の痛みをネタにする世界から、人を笑わせる作品の世界へ。
ヘジンは、そこへ移った。
だから彼女の、
「お金を稼ぐために映画を作るんじゃない、楽しくさせるために作っている」
という信条は、甘い理想論ではない。
それは、人の痛みを消費する仕事から降りた人の、かなり切実な信念なのだと思う。
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ただし、ヘジンは夢だけで映画を作っている人ではない。
大制作会社とは組まない。
けれど助けは借りる。
国家支援金を受けながら映画を作る。
おそらく、独立系映画や作家性のある作品を多く作る制作会社に近い場所で、現実の中で映画を成立させようとしている。
つまり彼女は、「いい作品を作りたい」という信念を持ちながら、同時にお金、支援金、投資家、監督のプライド、作品の完成度、会社としての信用を全部背負っている。
だからヘジンの発言には重さがある。
8人会の中でも、彼女はかなり発言力がある。
監督や作家たちが、才能や作品や評価について語る一方で、ヘジンはそれを現実にする側にいる。
作品を作るには、お金がいる。
人を切ることもある。
嫌味を飲み込むこともある。
屈辱を受けても、ビジネスを進めなければならないこともある。
ヘジンは、その現実を知っている。
彼女は「作りたい人」ではなく、「作らせる人」なのだと思う。
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ヘジンは、ギョンセのすべてを知っている人でもある。
結婚して20年。
その20年は、ドンマンがデビューできなかった時間とも重なっている。
ヘジンは、ギョンセがデビュー作で上がり、その後こけ、酷評され、それでも監督としての顔を保とうとしてきた時間を見てきた。
同時に、ドンマンが何者にもなれないまま、自分の作品に執着し、不安定になり、デビューできない時間も見てきた。
彼女は、二人の20年を見ている。
だから、ヘジンの言葉は刺さる。
ギョンセに対して、彼がドンマンとみっともなく罵り合う姿を他の人に見せたくなかったと言えるのは、彼女がギョンセの小ささを知っているからだ。
ドンマンに対して、「あんたは最後まで行く覚悟がない」と言えるのは、10年彼を育てようとしてきたからだ。
ヘジンは、二人を見ている。
才能も、虚勢も、情けなさも、逃げ方も、全部知っている。
だから彼女は強い。
でも、その強さは冷たい強さではない。
全部知っているからこそ、切れないし、怒るし、叩く。
ピコピコハンマーでギョンセを叩く人でもある。
ここがいい。
ヘジンがずっと正論だけの人だったら、ただの「強いプロデューサー」になってしまう。
でも、ピコピコハンマーがあることで、彼女は一気に生活の中の人になる。
怒っている。
呆れている。
情けないと思っている。
でも、まだ完全には見捨てていない。
本当に切った相手なら、ピコピコハンマーでは叩かない。
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ヘジンがしんどいのは、ドンマンとの関係もある。
彼女は10年間、ドンマンを映画監督としてデビューさせようとしてきた。
でもその途中で、ドンマンはヘジンを好きになってしまった。
これはヘジンにとってかなり厄介だったと思う。
彼女はドンマンを恋愛対象として見ていたわけではない。
才能のある人間、未完の作家、いつかデビューさせたい監督として見ていた。
でもドンマンにとってヘジンは、自分を信じてくれる人だった。
自分を見捨てない人だった。
自分を「何者かになれるかもしれない人」として見続けてくれる人だった。
何者にもなれないまま苦しんでいるドンマンにとって、そのまなざしは恋に近いものになってしまったのだと思う。
だからヘジンは板挟みになる。
夫はギョンセ。
でもギョンセは、ドンマンの体験を使ってデビュー作を作った人でもある。
一方のドンマンは、自分が10年育ててきた未完の監督。
でも彼は、自分に恋してしまった。
この三角形は、ただの恋愛ではない。
創作、才能、罪悪感、承認、結婚生活、制作の責任が全部絡んでいる。
ヘジンは、その泥を背負っている。
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第8話で、ヘジンは大きく動く。
自分のところで制作を予定していた新人監督マ・ジェヨンが、大きな制作会社であるチェフィルムへ勝手に乗り換える。
ヘジンは怒る。
チェフィルムと縁を切る。
ジェヨンも切る。
そして、ジェヨンの代わりにドンマンをデビューさせることにする。
ここでヘジンは、制作する人間として立ち上がる。
誰を作品の場に残すのか。
誰を切るのか。
誰に賭けるのか。
それを決める人として。
ただ、ヘジンがドンマンを選んだのは、彼を救いたいからではないと思う。
彼女は、ドンマンを救済しようとしているのではない。
むしろ、リングに上げようとしている。
今までのドンマンは、外から批評することはできた。
業界の嘘も見える。
他人の作品の痛点も見える。
ギョンセの弱さも見える。
でも、自分自身はまだリングに上がっていない。
ヘジンの「あんたは最後まで行く覚悟がない」という言葉は、優しさではない。
かなり残酷な招集だと思う。
負けてもいいから、最後までやれ。
打ち負かされてもいいから、世に出ろ。
自分の作品がどう扱われるのか、ちゃんと見ろ。
そう言っているように聞こえる。
ヘジンは、ドンマンを勝たせようとしているのではない。
負ける可能性も含めて、現実に晒そうとしている。
それがプロデューサーとして、とても厳しい。
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そして、ヘジンがドンマンに賭けているのは、ドンマンの才能だけではない。
彼女は、自分のプロデューサーとしての才能、見る目、その10年の判断を賭けているのだと思う。
ドンマンが失敗した場合、傷つくのはドンマンだけではない。
ヘジンも同時に突きつけられる。
私は10年間、何を見ていたのか。
私はこの人のどこに映画監督の可能性を見たのか。
私は本当に、才能を見抜けるプロデューサーなのか。
つまり、ドンマンをリングに上げることは、ヘジン自身もリングに上がることなのだと思う。
だからこの決断は、情だけではない。
怒りだけでもない。
優しさでもない。
これは、ヘジン自身の10年を裁かせる決断でもある。
私は、私が見てきたものに賭ける。
そういう決断に見えた。
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ヘジンの「無価値な自分」は、たぶんここにある。
信じた才能を、結果にできなかった自分。
ドンマンを10年育てた。
でもデビューさせられなかった。
ギョンセを20年支えた。
でも彼の作品は酷評され続けている。
いい作品を作りたい。
でも補助金や投資家や大制作会社との力関係に頭を下げなければならない。
彼女は、見る目があるはずなのに、結果にできない自分と闘っているのかもしれない。
だからドンマンをデビューさせることは、ドンマンだけの問題ではない。
ヘジン自身が、自分の信念と見る目を現実に晒す行為でもある。
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コ・ヘジンは、救わない。
甘やかさない。
慰めない。
夢を見させるだけでは終わらせない。
彼女は、リングに上げる。
ドンマンを。
そして、自分自身を。
信じてきたものが打ち負かされるかもしれない場所へ、それでも立たせる。
だからヘジンは、ただの有能なプロデューサーではない。
信念で映画を作り、現実で人を切り、生活の中ではピコピコハンマーで夫を叩き、そして最後には、自分の見る目ごと誰かに賭ける人。
このドラマの中で、彼女ほど「制作すること」の怖さを背負っている人はいないのかもしれない。
