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「センス」に悩むオタクに与ふるnote

積読チャンネルに思想を矯正される日々。

社会に改造されながらも、趣味を持つことで気骨を手に入れた地下アイドルオタクこと、かべのおくです。


とかくオタクというものは(クソデカ主語)、いつでもネットでお互いを叩き合い、罵り合い、貶め合っています。僕はそういうのがあまり好きじゃないので静観しているのですが、彼らが扱っている話題には興味深い、長年議論されてきた本質的なテーマも含まれていると感じます。くれぐれも「他人を叩く暇があったら、本の一冊でも読んだほうがいいんじゃないの?」などとは思っていません。

というわけで今回はそんなネット議論のなかから僕がいっちょ噛み出来そうなものを取り上げ、1世紀前の気骨ある主張を絡めつつ、いい感じに茶化せていけたらな、というnoteです。


オタクのセンス=推しのセンス?

オタクの間でよく巻き起こる論争に、オタクと推しのセンスがある・ない問題というものがあります。言うなれば、「センスのないオタクが推すアイドルは、同じくセンスがないのか?」ということです。

これは大抵、勢いのあるグループやメンバーに、何らかの問題や不祥事が起こった時に顕在化します。僕はあまり具体例が思い出せなくて、メジャーデビューを控えたグループがパジャマで本音をトークする地上波番組に出たら、共演者への礼儀がなっていないと怒られた結果、「〇〇のオタクって、自分たちのことセンスあるって思い込んでて、謎の誇りみたいなの持ってそうだよね」っていう痛烈な批判が飛んだりするみたいなことがあったら良かったんですが、全ては僕の妄想です。

まあ、これがオタク同士のやり取りであれば、「売れてるグループに適当に乗っかってヘラヘラしている奴らを、陰キャが僻んで叩いてるだけでは?」と一蹴したくなるかもしれません。


しかしこの論争、明治時代の歌人・正岡子規が120年前に結論を出していたらしいです。


正岡子規の視点と先見

「歌よみに与ふる書」は、正岡子規が1898年から新聞連載として発表され、のちに書籍としてまとめられたものです。昨年に現代語訳版が出版されました。本の内容の大半は、これまでの短歌作品への痛烈な批判です。

さらに興味深いのは、この連載に対して投書(というか批判や罵詈雑言)が寄せられ、子規が連載内でレスバを繰り広げていることです。新聞ってTwitterだったのかよ。

僕は文学に造詣がなく善し悪しの判断が付かないので、和歌の内容などには踏み込まずに正岡子規の創作論の部分を重点的に読みました。


センスの低い人は、センスの低いものだけに感動する

本書の中で、子規は人を動かす作品について次のように述べています。

すべて和歌や俳句や詩が人を動かすのは、必ずしもその和歌などがよいからではなく、相手(動かされる人)とその場合とに依存する。相手がひどくセンスの低い人だったら、センスの低い歌がこの人を感動させることがあるだろうが、センスの高い歌は逆にこの人を動かすことができない。

「歌詠みに与ふる書」より

つまり、センスの低い作品で感動できるのは、センスの低い人のみであるということです。さらに子規は幾つかの例を挙げつつ、センスの低い作品の特徴にまで言及します。

大喝采的な作品とはおおむねこういうものだ。 簡単で趣味の程度が低いことが必須である。あるときは露骨に表現し、あるときは嫌味な装飾を使う必要がある。 別の言い方をすれば、多くの素人に受けるためには少数の玄人が一番嫌がる方法をとるしかない。玄人が宛曲に言えというところは露骨に言い、玄人が露骨に言えというところは嫌味のある形容などを加えることで、その後に大喝采的な作品は生まれる。これが従来の人気作品だ。だから私は、むしろ大喝采的な作品であることによってその卑俗さの証明とする。

「歌よみに与ふる書」より


あ、痛い痛い痛い痛い。


地下アイドルオタクはじめたてのころ、アイドル楽曲のあまりにも安直なところに「そんなことまで言っちゃうの!?」と驚きと共に惹かれました。そしてしばらくの間はそういう分かりやすい曲ばかり聞いていた記憶があります。

たとえば、地下アイドルのアンセムとされている曲に次のような歌詞があります。たぶん子規に言わせれば「なんと低俗な歌詞なのだろうか。これが下手というものである。」と一刀両断されてしまうのでしょう。

花吹雪が
ぱーっとぱーっと舞い踊るのだ!
(ふっふー!)
わーっとわーっと騒ぎたいのだ!
(ふっふー!)
ドドンと気分アゲて!せーのであっぱれ!
こりゃめでたいな!
(よっしゃー!)
ほーんとほーんと調子いいのだ!
(ふっふー!)
ずーっとずっーと最高なのだ!
(ふっふー!)
ほらね楽しんだもん勝ちだ!(いぇい!)いざ!(いぇい!)
ここにおいで!

嗚呼 嗚呼 おいでませ
(よっしゃー!)

OIDEMASE!!〜極楽〜」より

ことわっておくと、僕はこの曲も、この作曲家さんの他の曲も大好きです。ただ、ダサい歌詞であることに間違いありません。むしろダサいからこそ、初見のオタクが盛り上がれる、フェスの魔曲となっているのです。


センスのある作品も大喝采を得る時代

子規は最後に、これからの和歌のあるべき姿を提案しています。

しかし、これは過去の事実であるというだけだ。未来にもこうでしかないかは疑問の余地がある。文学的なセンスを持ちながら大喝采を得るものが、非文学的な作品に取って代わること。思うにそれこそが歌人の仕事のはずだ。

「歌よみに与ふる書」より

「積読チャンネル」での紹介でも、この箇所が取り上げられています。

このくだりの際、パーソナリティの堀元見さんは子規の主張に同意した上で次のようにコメントしました。


「大衆にウケているのに、一流からも評価されるような作品が生まれてきている」という意見には僕も完全に同意です。例をあげたらキリがありませんが、ここでは最近の地下アイドルオタクが両手を上げて大喝采する曲を取り上げます。

この曲の最も注目するべきは歌詞の世界観です。長くなりますが、冒頭部分を引用します。

メランコリー前線
四角い窓から見た
落とした宝物
もう忘れちゃったな

突っ伏して過ごす
午後の風が吹く
舞い込んだ 招待状
僕は目を疑う

半信半疑で 差出人 君は
いとも簡単に
流れる星に乗って

踊り 踊る PRISM STAR
目指す楽園
星屑の滑走路
最初の一歩は 君とせーので
踏み出した

廻り 廻る PRISM STAR
口ずさむ歌
天の川に絡まる
言葉に触れて 弾むハートビート
きっとこれが
STAR PARADE
STAR PARADE

STAR PARADE」より

注目すべきは、「半信半疑で」から先の歌詞の現実離れ感です。星屑の滑走路から、流れ星に乗って君と踏み出し、向かうのは楽園。意味不明ですね。しかしそれくらいの気持ち良い「嘘」がこの曲の持ち味です。AOAOには、青春の1ページをリアリスティックに描いた楽曲が多いのですが、「STAR PARADE」はそんなレパートリーからも一線を画しています。


子規は、作品の中に含まれる嘘について次のように述べています。

噓を詠むのならまったくありえないこと、とてつもない噓を詠むべきである。そうでなければありのままに正直に詠むのがよいだろう。
(中略)
総じて噓というものは、一、二度はよいけれど、たびたび詠まれると面白い噓も面白くない噓になってしまう。まして最初から面白くない噓は目も当てられない。

「歌よみに与ふる書」より

嘘をつくのならば、いっそのこと思いっきり現実離れした面白い嘘をついた方がよい。それを現代で見事に体現しているということになります。


センスを磨けば誤魔化されない

ここで冒頭の問い、「センスのないオタクが推すアイドルは、同じくセンスがないのか?」に戻り、子規の主張を元に整理しましょう。


まず、オタクのセンスと推しのセンスに、ある程度の対応関係はありそうです。これは僕にとってある種の救いになります。僕はオタクとしては比較的、流行についてゆくのが苦手で、今の地下アイドル界隈でどんな曲が好まれ、どんなグループが人気なのか?という感覚が希薄だなという自覚があります。そのせいか、無意識のうちに「トレンドを捉えて、流行っている曲やグループを追いかけられることがセンスのある人」という思い込みがうっすらありました。しかしセンスが無かったとしても大衆の心を打つ作品が受け入れられるなら、「流行りを捉えられる=センスがある」とは必ずしも言えないということになります。

しかし今日び、センスがありながらも大衆に大喝采で迎え入れられる曲も登場しているということが話をややこしくしています。仮にここでオタクとアイドルのセンスが一体一対応している状態、ならば、「センスのないオタクが推しているグループは、同じくセンスがない」と断言できます。しかし、「センスのないオタクがセンスのあるアイドルを推す」こともある以上、センスのないオタクに目利きを任せてはおけません。


つまり、この命題は逆で、「センスがないアイドルを推すオタクは、同じくセンスがない」が正しいと言えそうです。オタクはオタク同士を見たくなりがちです。そして「コイツ、センスなさそうだなぁ」と思ったら、そのオタクが推しているアイドルすらバカにしたくなるわけですが、これは正しい姿勢ではありません。オタクはアイドルを見るべきです。アイドルを見たときに、その善し悪しを見抜く目を養わなくてはいけません。我々は他人任せにすることなく、自身のセンスを磨くしかないのです。


オタクのセンスとその磨き方

と、突き放して終わりでもよかったのですが、これではあまりにも甲斐が無さすぎます。そもそもここまで適当に述べてきた「センス」って何よ?という疑問が残ります。というわけでここからは、アイドルオタクにおける「センス」と、その磨き方について考えてみたいと思います。

鑑賞者としてのセンスとは

推しを愛でて、ライブを楽しむ存在であるオタクとしての「センス」。さすがに僕一人で答えを出すのは難しいそうなので、今をときめく言語化マスターに登場してもらうことにしました。

書評家であり、自身も大のアイドル好きでもある三宅香帆さんは、推しの魅力を言語化するコツとして以下のように述べています。

ここで、もっとも重要なことを言います。 「言語化するには、語彙力が必要だ」と世間ではよく言われますよね。本を読んで語彙力をつけろとか、聞いたことのある人は多いでしょう。でも、推しの魅力を言語化するとき、本当に重要なのは語彙力ではありません。 必要なのは、「細分化」です。 言語化とは、いかに細分化できるかどうかなのです。

「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」より

流石の三宅ネキ、僕もこの考えに概ね同意です。この表現を借りつつ僕なりにアレンジすると、オタクのセンスとは視点の多さということになりそうです。

たとえば楽曲でいえば、僕は最初、歌詞にあまりこだわりを持っていませんでしたが、色んな曲を聞くうちに、歌詞と曲のバランスを気にするようになりました。あとはパフォーマンスについても、ただ元気よく踊るだけじゃなくて、しなやかな動きや歩き方、表情の作り方、メンバー同士のアイコンタクトなどが気になるようになってきました。あとは、セトリへの理解や好き嫌いは通えば通うほど理解が深まっている気がします。

このように、「歌詞はイマイチ刺さらないけど、パフォーマンスはめっちゃいい」「曲もパフォーマンスも好きなんだけど、セトリが微妙だな…」などと、グループ全体、個々のメンバー、ライブの内容を様々な視点から語れることが、センスと言えるんじゃないかと思います。

これは、僕にとってはいわばラーメンを語る時と同じです。スープ、麺、具材のバランスを他のお店と比較して「ここは繊細なスープと、それを引き立てる細麺がめっちゃいい」「麺のワシワシ感と、それに負けないガツンとくるスープがすごい」などと評価するのと変わりありません。


センスが磨かれる瞬間

じゃあそのセンスを、いつどうやって身につけた?という話なんですが、センスの伸びは線形ではなく、突然やってくる感覚があります。大きなきっかけとなる気付きが生じた瞬間に、立ちどころに点と点が線でつながり、ひとつの視点として自分のなかに定着する感覚があります。

たとえば僕のなかでのライブ観が大きく変わったのは、ライブで推しメンから強烈なレスを貰った時です。一度「これがレスなのかー!!」ということが分かると、レスだけじゃなくて些細なルックにも気づけるようになります。それに曲のどこがレスポイントなのかの理解が深まって、そこで推しメンからレスを貰いたくなる化け物と化します。あと、推しでもない初見のアイドル見た時に「この子レスうまっ!あと最前のオタクめっちゃ推されてるじゃん!」などと、アイドルのファンサ力が立ちどころに見分けられるようになったりしました。

また、これらのセンスは鑑賞能力に留まらず、オタクとしての能力全般に及ぶと思われます。たとえば、フロアのどこで見るのが一番ライブを楽しめそうか?この曲にはどういうコール・Mixを入れるのが気持ちよいか?フェスのタイテをどのように回るとリスクが低く、尚且つ利得が最大化されそうか?チケットの整番が良かった時にどうしたら最前管理と揉めずにライブが見られるか?など、オタクとして楽しむための能力を現場で身につけてきた感覚があります。

このように、少なくともオタクに関しては「センス」は生まれ持った才能ではなく、後天的に現場で獲得できるスキルに近いものではないか?と、僕は認識しています。いわば勉強と全く同じです。膨大な計算問題や読解の果てに何かを会得するのと同じように、バカみたいに現場に通ってサークル広げたり、モッシュしたり、推しジャンしたり、マサイしたり、コールやMixを打ったりといった、推しが好きじゃないと絶対に続けられない奇行を繰り返す中で、ある時ふと「ああ、これってこういうものなのか」と掴む瞬間がやってきます。

もちろん仕事として批評をしたりとか、他人に指導をするとしたら経験だけでは補えない部分があるかもしれませんが、あくまでも趣味なので。


オタクである自覚はセンスの芽生え

しかし、ここで一つの疑念が生じます。このセンスなるものは誰でも身につくものなのか?たまたま僕だけが獲得出来たものなのではないか?と。しかしこれは、ぼくがオタクであろうとしたからセンスが磨かれたように感じています。

改めて、僕がオタクであることを自覚した時の原初の感覚に立ち帰ると、そこには「他のヤツらとは違ったものを好きでいたい、違ったふうに語りたい」という欲求があったように思います。周りの人々(具体的には親や同級生)が見る番組や映画、聴く音楽を同じように好きでいて、同じような感想しか持てない自分が許せなかったのです。そこから、気づいたら握手会に通い、劇場に通い、ライブハウスに入り浸るようになりました。人と同じである事への強力な嫌悪がオタクの原動力であり、それはオタク歴が深まるほど強まっているようにさえ感じます。

そしてこの、「違いを見分けたい」という欲求こそがセンスの芽生えではないかと思います。そもそも、みんなと一緒でいたい、人と同じものを好きでいて安心したい、平凡な感想を持っていても構わないなら、センスなど邪魔なだけです。人とは違った視点を持っていたい、違いを見分けて、それをちゃんと言語化できるようになりたいと思っている時点で、その人はセンスがある、もしくはセンスを持ちうる可能性があると考えていいのではないでしょうか。


オタクに終わりはあるのか

このように、オタクがセンス、つまり視点を獲得してゆくなかで、同じだったはずのライブの見え方が変わってゆくのを日々感じています。最初は楽曲を楽しい、可愛いだけで見分けてたのに、だんだん歌詞の言葉選びが気になってきたり、かといえばベースの動き耳をそばだてたり、声の使い方や歌い分けの多様さにこだわりが生まれたりします。

こうして立ちどころに何かを掴んで、全てを理解した気になっていたら、その先でまた別の視点を獲得して、「あの時の自分はどれくらい浅かったんだろう…」と勝手に落ち込んだりしています。これがいわゆる「沼」というものです。3年前の自分よりも2年前の自分、2年前よりも1年前、1年前よりも今の自分の方が現場を楽しんで、ライブで多くのことを受け取れている気がします。それに、今よりも来年、来年よりも再来年の自分の方がオタクを楽しめているんじゃないかという根拠のない自信があります。


総括すると、オタクにとっての「センス」は現場での気付きをきっかけに身につくスキルであり、オタクとして様々な経験を得る中で成長してゆくことになります。ということは我々は、他のオタクを気にしている暇などありません。視点をできるだけ多く獲得し、センスの螺旋を降りてゆくしかないのです。この螺旋のなかにいる限り、きっとオタクであることは辞められないのでしょう。

とはいえ、「推し活」という言葉が世の中に急速に広がるのと足並みを揃えて、「他界」や「オタ卒」という言葉も市民権を得ているような気がしています。僕は以前のnoteで「オタクのライフサイクルの終わりが他界のタイミングなのでは?」と述べましたが、終わりなど存在せず、ずっと螺旋として続いているんだとしたら、この仮説は崩れるということになります。

じゃあ、この螺旋からどのように抜けられるのか?これには僕にも結論がないので、今後のテーマとして追いかけてゆきたいと思います。


おわりに

まとめます。

螺旋から抜けたところで、どこに行くというのだろう。

以上です。

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