捨てられなかった不登校時代のテスト用紙|親の「完了」と子どもの「始まり」
長年抱えてきた「もったいない精神」とさよならすることを決意し、100日断捨離を始めました。
断捨離1日目は、初日ということもあり、明らかに不要な書類を中心に手を動かしました。
一角でも片付くと、不思議と気持ちまで軽くなっています。
断捨離2日目。
前日よりも少しだけ慣れてきて、今日はここまで、と決めていた場所に手を伸ばしました。
部屋の片隅に、ずっと置いたままだった段ボール箱。中身が分かっているからこそ、触れずにきた箱です。
まさに、我が家のパンドラの箱。
中に入っていたのは、数年分の学校のテスト用紙。長女が小学校に通えなくなっていた頃のものでした。
紙の束はずっしりと重く、それは紙そのものの重さというより、当時の私の不安や迷いが、そのまま残っているように感じられました。
不登校時代を乗り越え、長女も高校進学へ向けて歩きだそうとしている今。私の心も、もうだいぶ整理がついています。
だからこれは、もう我が家には必要のないもの。以前そこに感じていた「不安」や「迷い」は、もうありません。
それでも、ここはどこか「聖域」のようで、簡単には開けられなかった場所。
結局、私はこの箱の中身をすべて捨てることはしませんでした。
娘との対話を経て、あえて「残す」ことを選んだもの。断捨離という決断の先で、私がたどり着いた本当の心の整理についてお話しします。
過去の私:認めたかったけれど、認められなかった
長女が不登校だった当時、私は「多様性」という言葉を知らなかったわけではありません。
職場でも「ダイバーシティ」が導入され、理解はあるつもりでいました。
ただ、それを自分の子どもに当てはめることには、正直なところ抵抗がありました。
どちらかというと、私は教育ママだった気がします。
長女には保育園時代から、学習系の習い事へ通わせました。自分の子供時代のように、先取り学習をさせることが、子供の将来のためだと信じてきました。
ところが、小学校へ入学して、しばらくすると。
学校に行かない。
テストを受けない。
その選択を尊重したい気持ちと、「これまで頑張ってきたのに」「それでいいのだろうか」「みんなと同じようにさせないと」という不安が、常に心の中でせめぎ合っていました。
テスト用紙を捨てられなかったのは、「いつか必要になるかもしれない」という思いと、「やらないのはいけないことなのでは」という強迫観念があったのでしょう。
たくさんたまったテスト用紙には、私自身の期待や焦り、どこか捨てきれない世間の物差しがぎゅっと詰まっていました。
娘を否定したくないのに、安心するために何かを握りしめていないと、自分を保っていられませんでした。
今振り返ると、あの頃の私は、自分が育ってきた価値観からアップデート出来ずに、娘を守りたい気持ちと、周りからの評価を気にする世間体に挟まれて、もがき苦しんでいました。
現在の私:少しずつ調律されてきた心
あれから数年が経ちました。
時間の経過とともに、そして、たくさんの出会いや経験、先人からの教えや学びから、私の考え方も少しずつ変わってきたように感じます。
最近では、AIとの対話という選択肢も加わり、日々の小さな思索を重ねる中で、自分の思考の癖や、自身の幼い頃から無意識に抱えていた「こうあるべき」を見つめ直す機会が、自然と増えてきました。
過去を振り返って、「ああすればよかった」「ここが間違っていたんじゃないか」と立ち止まるよりも、現在、そして子供の未来をポジティブに思い描くようになりました。
そうして今、目の前の真っ白なテスト用紙を見ても、それはもう特別な意味を持つものではなくなっていることに、気がついたのです。
そこにあるのは、過去の物。
ただの、紙の束です。
だから今日は、これをゴミ袋にまとめて、過去の自分とは別れを告げて、気持ちも前に進もう。
そう思えた…はずでした。
予想外の夜:小5の次女が見つけたもの
その日の夜、ゴミに出すためにテスト用紙をまとめていると、現在小5の次女が「何してるの?」と、興味深そうな表情で近づいてきました。
次女には、数年前から起立性調節障害があり、日中は体調が優れないため、今はホームスクーリングをしています。
まとまった紙の束を何気なくめくり、「これ何?面白そう!やってもいい?」と聞いてくるのです。
小6のテスト用紙を見て、今の彼女には少し背伸びをした問題の数々に対し、純粋に興味を持ったようでした。
その目はキラキラしていました。
私にとっては、できれば早く手放して、すっきりさせたかった「過去の産物」。
それが次女にとっては、知的好奇心を刺激する入口だったのです。
同じ紙を前にして、姉妹、そして母娘で、ここまで感じ方が違うのかと、少し驚きました。
たとえ家族の中でも、モノの価値というものは固定されていないのだと、その時ふと思いました。
長い間、私が背負っていた重さは、次女にとっては全く関係のないものだったのです。
親の「完了」と、子どもの「始まり」
一旦は断捨離させようと心に決めた過去の物。そこに次女は、新たに意味を持たせてくれました。
この予定外の現象をどう捉えればいいのか。誰かに、あるいは何かに、この正体を教えてほしかったのかもしれません。
この出来事を、私はそのままAIに投げかけてみました。
「親が捨てたい過去を、子どもが必要とする現象は、どう考えればいいのでしょうか」と。
返ってきたのは、「親にとって完了した経験が、子どもにとっては新しい学びの素材になることがある」という趣旨の言葉でした。
過去は終わるものではなく、形を変えて受け継がれていくこともあるのだ、と。
すでに心は前を向いていたけれど、AIが導き出した客観的な視点は、私の心の中で形になりかけていた肯定感に、さらなる裏付けを付けてくれたような気がします。
不登校で苦しんだ経験も、あの頃の迷いも、誰かにとっては救いや希望になり得る。
AIとの対話を通し、そう思えたことで、過去との距離が、また少し変わった気がします。
おわりに:断捨離は形を変えて続いていく
結局、そのテスト用紙は捨てませんでした。
クリアホルダーに科目ごとに整理して、次女の学習セットの一部に、嬉しそうにしまわれました。
そう。結局、物理的には、まだ我が家に存在したままとなっているのです。
けれど、不思議と心は軽くなっていました。
所有者が、長女から次女へと変化し、「迷い」が「希望」へと進化したからです。
そして、私にとっては、AIとの対話を経て、そして、このnoteに言葉にして書くことで、心の整理がついたのだと思います。
捨てることだけが断捨離ではなく、こうやって目的を変えて存在していくことも、ある意味では、ひとつの手放し方なのかもしれません。
暮らしを整えることと、心を整えることは、どこか似ています。
物理的な断捨離と同じように、気持ちも断捨離することで、すっきりと穏やかな気持ちになることを、娘たちから教えられました。
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