アルバムと母と私
昨日は息子さんの子ども園が休園日で、母の仕事も休みという、我が家では稀有な状況が起こった。これはチャンス!と言わんばかりに、私はパートのシフトを入れ、母に午前中だけ息子さんの世話をお願いしたのだ。
パート後、帰宅すると、最初こそ息子さんはベタベタ甘えてきたが、数分もすれば「スマホしたい!」とスマホの中に入れてしまったアプリゲームをしたがった。狙いは私じゃなくて、スマホだったのね!
母に改めてお礼を伝えよう、とリビングのテーブルに目をやると、なにやら見慣れないものがたくさん積まれていた。アルバムだ。それも、かなり古びた様子の。表紙は歴史を感じる重厚感があるし、中の用紙は茶色く変色していた。
「今年は石川のお墓行かれへんからさ~。ちょっと気持ちだけでもって」
そういって母はゆっくりとページをめくっていた。
これらのアルバムは、なんでも、昨年祖母が亡くなった際、ホームから引きあげてきたものだという。祖母の子は長女、次女、三女である母の3人だった。長女と次女は既にこの世を去っており、巡り巡って石川県から奈良県まで、遺った母の下へ渡ってきたのだ。しかも、10冊以上ある。
母の眺めるのを覗いていると、こちらに向きをなおして見せてくれた。私は勧められてわけでもないのに母の正面にある椅子に腰かける。
そこには、小さめサイズの白黒写真がたくさん張られていた。サイズが小さいから、一面に張れる枚数も多い。今私たちが日常で触れる写真のサイズはL判というが、この小さなものはライカ判という。当時のネガのサイズと一緒らしい。……今の人は、ネガって伝わるだろうか。
ちんちくりんな子どもが映っている。伯母たちの子ども時代だ。おかっぱで、ほっぺが赤い(実際には白黒なので赤そうに見える、である)子ども。絵に描いた、昭和の風景。最早歴史の教科書の感覚だ。
この人知っている?この人はああ、〇〇さんやね。ああ、この人はよく私の面倒みてくれて……。
私の知らない、母方の家の歴史がとつとつと語られる。本家に娘しか生まれず、分家の次男だった曽祖父が本家に養子に入ったことで本家(つまり母の生家)は保たれたこと。祖母は4人兄弟で、1人は戦争に行き、無事に帰ってこれたこと。祖父は軍靴のサイズが合わず、途中で引き揚げてきたこと。
アルバムの時代は進んで伯母たちももう大人。ふと、和装でガチガチに化粧をされた伯母と、こちらも早逝だった伯父。
「これ、〇〇ちゃんの結婚式やわ~。こんなん私が持ってるのもへんな感じやけど」
母は姉2人をそれぞれちゃん付けで呼ぶ。あまりこの3人が姉妹という感じで接しているところを、私自身は見ることはなかったが、写真にをみるに、仲が良かったのだろう。
これ私、と指をさした先には、なんだか見覚えのある着物の女の子が。ああ、七五三のときの私に似てるんだわ、と幼き母を見つめた。あまり自分と母が似ていると思ったことはなかったのだが、この、芋臭い感じと言い、ちょっと唇をつきだしているような感じと言い、私の幼いころにそっくりだった。それを母に伝えると「そう?」とのこと。私が記憶している幼い私の容姿と、母が記憶している私の容姿には、どうやら違いがあるらしい。
「石川の祖母を偲ぶ会」はすっかり「アルバムを眺めて懐かしむ会」に変容していた。ついには我が家の古いアルバムまで現れる。父母の結婚式、長兄
の誕生、姉の誕生まで追った。もうすっかりカラー写真である。
しかし、両親の新婚旅行の写真など見るものではない。若々しい2人がとにかく楽しそうで、この2人もちゃんと男と女だったのだな~とわけのわからん感想を抱いてしまう。
ともすると、スマホゲームにあきた息子さんからおやつをせがまれて「アルバムを眺めて懐かしむ会」は終わった。というか、私だけ抜けた。母はその後、次兄の誕生、私の誕生あたりまで一人で懐かしむ会を続けていたようだ。
8月15日。今日は、終戦記念日だ。
祖父の軍服姿の写真を見て私は、すこぶるこの人が無事でよかった、と思った。今年は戦後80年。母は70歳。もし、祖父の軍靴のサイズがぴったりだったら。そして、もしそのまま帰ってこなこなければ。母は生まれていないし、当然私だって生まれていない。ただただ、本当に、無事でよかった、と思った。
お盆の最中、お墓参りももちろん大事だが、こうやって先祖に思いを馳せるのもよいと思う。現代は写真がデータで保存でき、わざわざアルバムを作ることも減っただろう。だが、十数年の時を経て読まれることを考えると、アルバムという形に残すことは、重要なことなのかもしれない。
さ、今日は息子さんとお墓に行ってこよう。
