ステルス 5
これまでのお話は
繭から出てくる靄が、停電と病気の原因だと考えたコハルは、自分にできることをしようと奮闘します。
幼なじみからは、繭は見えないと言われますが、ついに上層から来た松葉に話をすることができました。
がんばったね!
翌朝、コハルは蒸し暑さで目を覚ました。
時計を見たが、表示が消えている。窓の外はすっかり日が昇り、やけにぎらぎらして見えた。
額から汗が流れる。
そこでようやく、空調が止まったままなのだと気がついた。今まで普通に寝ていたのに、途端に息苦しく思えてくる。
顔を洗おうと入ったバスユニットで、コハルは立ち尽くした。水が出ないのだ。何度もレバーを動かしてみたが、何も起こらない。
電気が止まっているため、ドアも開かない。飲み水の備蓄はあるが、それだけでは生活していけない。
大量にあるのは粘着テープだけで、ここには巻くべき繭もないのだ。
(確か……どこかに……)
コハルは部屋の隅にある棚を引っ掻き回した。奥の方から、ボックスのリーフレットを引っ張り出す。
停電など起こるはずもないと、一度も読んだことがなかったが、ドアの開き方くらいは書いてありそうだ。
しかしコハルは、どのページに何が書いてあるのか、解読するところから始めなければならなかった。
ようやくドアの開き方らしき場所を見つけたとき、外から乱暴にドアを叩く音がした。
「コハル! 生きてるか?」
勇鈴だった。彼女は安堵のあまり、うわあ、と返事にならない声を上げる。彼の指示で、コハルはようやくドアを開けることができた。
「上はまだマシなんだ」
勇鈴は、コハルの少し前を歩きながらそう言った。上層に近い、人の多く集まる中心部では、緊急の設備がかろうじて動いているのだそうだ。
「そんなに、酷いの?」
下層を制御していたコンピュータが、ついにやられたのだろうか。勇鈴は肩を竦めた。
「酷いっちゃ、酷いだろ。上層から完全に切り離されたんだよ、オレら」
「……切り離された……? な、何で?」
コハルは耳を疑った。知らねえ、と勇鈴は吐き捨てる。
「オレらなんて、必要ないってことじゃないか?
しかし……マシだって言われても、こんだけ人がいると……」
進むにしたがって、通路は上に向かう人で混雑していた。皆、強張った表情のまま黙々と歩いている。
少し腕が触れ合っただけで、互いに舌打ちをし、睨み合う――そんな光景が目に付いた。
コハルも肩を縮めて勇鈴の傍を懸命に歩く。
とりあえず休憩と彼が言って、二人はエッグの停留所に入った。そこにも同じことを考えたらしい人々で溢れていた。
「休憩にもなんねえな……無難に、どっかで食べ物もらって、家にいた方がましなんじゃないか?」
「……何で……こんなことに、なっちゃったのかな……」
「そりゃ、お前、上層のお偉いさんは死にたくないからだろ」
「……だけど、あっちにも、繭はあるんだよ。ここ、切り離したって、もう間に合わないのに」
一足遅く、上層へは伝わらなかったのだろうか。コハルはため息をついた。
二人と同じような会話は、ぼそぼそとあちこちで聞こえた。誰もが現状と共に、長いこと耐えていた上層への不満を口にする。
少し離れたところで話していた男の声が、大きくなった。
「おかしいじゃねえか、最初から。なんだって、俺たちは上層へ行けねえんだ。
人は平等ってんなら、何で調べにも来ねえ?」
「あいつらが、自分さえ良けりゃそれでいいっての、今に始まったことじゃねえだろ」
「でも、こんなの……このままじゃ、アレにやられなくったって、死ぬじゃない」
なあ、と控えめに誰かが口を挟んだ。
「これって、どこまで広がってるんだろうな」
一瞬、辺りがしんとした。少しして、どこまでって、と尋ねる掠れた声がする。
「どこまで広がってようが同じさ。助けを期待するだけバカだろ。」
「でも……上層から誰か来たって聞いたけど」
コハルはどきりとした。さっと顔を強張らせた勇鈴が、コハルを見る。彼の目は不安そうに揺れていた。
ガセだろ、と誰かが鼻で笑う。
「何しにだよ?」
「誰かに会いに来てたって。調べには来たんじゃないの?」
「だったら、何でこんなことになるんだ」
周りで会話に耳を澄ましていた人々が、ざわざわと顔を見合わせる。
「おい、そろそろ戻るぞ」
勇鈴がコハルの腕を強い力で引っ張った。戻ると言われ、彼女は首を傾げる。背後で誰かが言った。
「そいつに、聞けばいいじゃないか」
その途端、隣から乱暴に肩を抱かれた。驚いてコハルは勇鈴を見上げる。彼はぐっと眉を寄せていた。
彼は黙ったまま、早足でコハルを広場から連れ出した。
途中、まだ開いていた店で米と水を手に入れると、せっかく来た道をどんどん引き返す。その間、彼は一度もコハルを放してはくれなかった。
コハルのボックスに戻って、勇鈴はようやく息をついた。ごめん、と慌てたように肩に回した手を離す。
コハルの腕は、じんじんと痺れていた。
「誰か来ても、出るなよ」
彼は、もらって来た米と水を部屋の隅に片付けた。
「それ、勇鈴の……」
「いいから。オレが次に来るまで、ここにいろ」
「……で、でも……繭が……」
あのな、と勇鈴は険しい顔で振り返る。
「人のことより、自分だろ。状況、分かってんのか?」
コハルは口を引き結んで俯いた。あの場にいたら、どうなっていたか――それは彼女にもなんとなく分かる。
そうだとしても、自分がもう一度上層に掛け合うなり、繭の破裂を防ぐなり、するべきだと彼女には思えた。何が起こるか分かっていながら、放っておくことなどできない。
勇鈴のため息が、頭の上で聞こえた。
「オレ、お前のこと人頼みって言ったけど、それって下層のやつら……オレも含めて同じだよな。
お前はさ、確かにグズでノロマでバカだけど……自分の力で一度、上層まで行ったんだよな」
彼は、褒めているのか貶しているのか分からないことを言った。
「けど……お前に頼ったってどうしようもないのにな」
コハルが唇に力を込めたときだった。
ボックスのドアが叩かれる音がした。
二人は揃って体を強張らせる。勇鈴がコハルを庇うように彼女の前に出た。
「話があるんだが。出てきてもらえないだろうか」
男の声が言った。その声には不穏な響きが込められている。返事をしかけたコハルは、勇鈴に止められた。
「黙ってろ」
さらに強くドアが叩かれる。
「おい、いるんだろ。出てこないなら開けさせてもらう」
早く出ろ、返事をしろと、別の喚き立てる声がした。二人が答えないうちに、ガタガタと強引にドアが揺すられ始める。
ガッ、とどこかが壊れたような音がして、ドアが開いた。
通路に立っていたのは、四、五人の男だった。皆、二十代か三十代くらいだろうか。彼らの後ろからも人の話し声が聞こえる。
「いるじゃないか」
先頭に立っていた男が、片頬を吊り上げた。コハルはぞっとして、勇鈴の手を掴んだ。
「シラオカさん、隠れてるってことは、疾しいことがあると思わざるを得ないが……何か我々に釈明することはないのか?」
「……しゃ、」
「ほうら、言えないんだろう」
後ろから、揶揄するような声がした。
「お前、聞けば防衛局の職員らしいな。何しに来た。下層を売ったのか? いくらもらった」
「……わ、わた」
「何だ、今は助けが来んのを待ってんのか? それとも、捨てられたのか?」
どっと笑いが起こった。皆、声を出して笑っていたが、その目はギラギラと奇妙な光を帯びて見えた。
コハルは頭がぐらぐらして、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
確かに、コハルがもっと賢ければ、行動力があれば、上層に掛け合うに値する身分があれば、こんな事態は避けられたかもしれない。能力の低さを詰られるのには慣れている。
しかし、なぜ今、嘲り笑われているのか、コハルには理解できなかった。
「何も言わねえのかよ。下層の人間と話す言葉は持たねえってか?」
人垣をかき分けて、別の男が進み出た。彼が手に持っているものを見て、コハルは息を呑んだ。
緑と黒のテープが巻かれた、二つの繭だった。
「これも、お前の仕業だってな。何のつもりだ? こんなモノぶら下げて、バカにしてんのか!」
彼は繭を投げ捨てた。コハルの心臓が、どくんと大きく音を立てる。
「あっ……」
床にぶつかった黒い繭は、ぐにゃりとひしゃげた。テープの隙間から、空気と共に何かが吹き出す。
あの虫だ、とコハルは思った。逃げる間もなかったが、それよりも虫たちの様子がおかしい。
彼らは飛ぶことなく、ぱたぱたとボックスの床に倒れた。
空気の流れに乗って、ふわふわと表面を漂い、床にぶつかるたびに、羽が、足がもげ、胴体が分解して粉々になった。
その合間に、褐色の小さな粒が漂っている。
コハルは、自分の心臓が耳元にまでせり上がったように感じていた。勇鈴を掴む手に力を込める。
しかしウイルスも、ただ散らばっただけだった。次第に、虫と同じように分解しては消えていく。
「聞いてんのか!」
男は、どん、と足を踏み鳴らした。繭を凝視していたコハルは、びくりと肩を震わせる。
彼が再び上げた足は、緑の繭に向かって降ろされた。
踏みつぶされた繭からは、今度こそ勢いよく赤茶の靄が噴き出す。
コハルは、勇鈴の腕を力いっぱい引いた。
彼は思っていたよりも大きく、彼女は勢い余って後ろに転んでしまう。振り返った勇鈴が何か言ったが、コハルにはよく聞き取れなかった。
靄は、繭を踏んだ男と、隣に立っていた二人へと吸い込まれた。
コハルを睨みつけていた彼らの瞳が、ぐるりと色を失った。
音を立てて三人が倒れる。
そのうち二人は、ぴくりとも動かない。
もう一人は、少しだけ手足を動かしていたが、やがてだらりと動かなくなった。
コハルは、彼の頭に入りかけた靄の残りが、耳の辺りへ集まり、何かをスパークさせて消えたのを見ていた。
ボックスは静まりかえった。
後ろに立っていた人々は、倒れた彼らからじりじりと距離を取る。
皆、同じ顔をしていた。
コハルは、割れた二つの繭を見た。
どうして片方の繭は虫もウイルスも死んでいたのだろう。
二つの繭で、一体何が違ったのか。
それさえ分かれば、繭の中でウイルスを死滅させることができるのではないだろうか。
「お前がやったんだな!」
突然、野太い声がした。人垣の中から腕が伸びて、ぺしゃんこになった繭を指差す。
「俺は見てたんだ。お前がその、変なものを作るところを!」
自分も見た、という声が、幾つも上がった。そうだろう、と言って、声の主が前に出る。四十代くらいの厳つい男だった。
「俺は怖くないぞ。殺せるもんなら、殺してみろ」
彼は倒れた三人を跨いで、ボックスに足を踏み入れる。人々の間から、小さな悲鳴が聞こえた。
「そうなのか?」
コハルは、横から震えた声で尋ねられて、弾かれたように勇鈴を振り仰いだ。彼は通路にいる人々と同じ顔で、コハルを見下ろしていた。
「……ち、違う」
彼女は掠れた声で言った。誰に何を言われたことより、勇鈴の表情が一番怖かった。
「い、言ったじゃん、ま、繭があって……ウイルスが、か、拡散して……」
「信じたいよ、コハル……だけど、オレ、分かんない。自分の目で見える物しか、信じらんねえもん……」
「その通りだ」
男がコハルの腕をがしりと掴んだ。
「今、見たことが全てだ。そうなんだろ」
コハルは、違うとは言えなかった。
見たことが全て。その通りだ。
男がコハルを強引に立たせる。男は彼女の手首を後ろ手にまとめた。
「ちょうどいいもんが、あるじゃねえか」
彼が床に置いてあった袋を蹴ると、中から粘着テープが転がり出る。ビニル製の黒いテープは、先ほど潰れた繭に巻かれていたのと同じものだった。
コハルの手首に、ぐるぐると巻きつけられる。勇鈴は、その一部始終をあの顔のまま、見ているだけだった。
男はコハルをボックスの外に押し出した。
遠巻きに見ていた人々から、わっと歓声とも怒号ともつかない声が上がる。
コハルは横から肩を殴られてよろめいた。反対側から、誰かに頭を叩かれる。
「そういうことをしちゃあ、いけねえよ」
笑いを含んで男が言った。
「これから、きちんと法律に従って裁かれねえと。暴力で解決しちゃあ、こいつがやったのと同じことだろ。
さて、とりあえず、どこかこいつを入れるのにいい場所を知らないか」
ざわざわといくつか声が上がる。
コハルは俯いて、自分を捕らえておく算段がなされるのを聞いていた。逃げるつもりなどない。
それよりも、繭のことが気になった。
コハルを捕まえていても、ウイルスは消えないのだ。
どうにかして、彼らにも分かってもらいたい。しかし、コハルには伝える言葉が分からなかった。
背を押されて、彼女は歩き始めた。
どうやら、行先が決まったようだった。見慣れた通路を離れ、いくらか上る。
男とコハルに続いて、ボックスの周りにいた人々もついてきた。彼らは、すれ違う者に喜々として状況を説明する。
その度にコハルは罵倒され、男は勝ち誇った笑い声を上げた。
しばらく歩いた先で、コハルを揶揄するのとは別の声が聞こえ始めた。上層から人が来た、というのだ。
松葉だろうか。きっと、上層で手違いがあったのだ。
彼にもう一度会えれば。
松葉なら、もっときちんと説明できる。彼なら、下層の皆を説得できる。
「なるほど。ついに迎えが来たか」
男は嫌味な笑いを浮かべてコハルを見たが、あまり気にならなかった。
「そりゃ、好都合だな」
彼がそう言ったとき、行く手の人波が揺れた。
国家防衛局だ、という苛立った声が聞こえる。コハルはその声に目を瞠った。
通路の向こうから、荒々しい足音と共に、三人の男が現れる。道を譲った人々は、苦々しげな顔で、彼らを見ていた。
「何をしている」
深緑の制服を着た橋谷が、男とコハルの前に立った。上着のボタンを開け腕を捲くっているのは、蒸し暑さのせいだろうか。後ろに控えているのは、槇と、もう一人も同じ課の男のようだ。
コハルは思わず背筋を伸ばした。
「……は」
「通信保安部第十六課長の橋谷だ。白岡コハルに話を聞きたいんだが」
彼は眦を吊り上げて男を見た。
「何だって、こいつを縛り上げている」
「それは……」
男が気圧されたように、言葉を詰まらせた。
「……この女が、おかしな袋の中にウイルスを入れてばら撒いたんだよ」
ほう、と橋谷は目を眇める。自分が問い詰められたわけでもないのに、コハルは身を竦めた。
「なるほど、ご苦労だった。後は我々が引き受けよう。相原」
槇の横にいたもう一人が、きびきびとコハルの傍まで来ると、彼女の腕を掴んで引き寄せた。
視界が入れ替わる。
コハルは人混みの中に、勇鈴を見つけてしまった。彼は彼女と目が合うと、気まずそうにそっぽを向いた。
「まだ何かあるのか?」
憤った表情の男に、橋谷は威圧的に尋ねた。男は握った拳をぶるぶると震わせている。
だが、下層の人々から声が上がることはなかった。誰もが悔しげな顔で橋谷たちを睨んでいたが、それだけだった。
ゲートはツリーの中にあるのではない。
胸に燻る不満を吐き出せないのは、下層の誰もが上層の人間との壁を決して消すことができないからなのだ。
「褒賞を期待しているなら、残念だが出すことはできない。
白岡にその価値は無いことが一つ、根拠のない容疑での逮捕、引き渡しには応じられないことが一つ、我々、第十六課は警備隊ではないことが一つ、以上だ。
槇、ボックスを借りて来い。それから……」
人々の歪んだ表情を見ていたコハルは、目の前に赤茶の塊が浮いているのに気がついた。慌てて顔を避けたが、ゆらゆらと浮遊しながら、遠ざかっていく。
よく見ると、靄はそこここで塊になって浮かんでいた。さらには、半透明の白くぶよぶよした虫まで漂っている。
コハルは何度も瞬きをした。
「おい! 聞いているのか、白岡!」
耳元で怒鳴られて、コハルは飛び上がった。背筋を伸ばして、はい、と声を裏返す。
「嘘を付け。何を見ていた。お前は……相原、それをほどけ。馬鹿が。こいつが逃げられるわけがなかろうが」
乱暴にテープが剥がされる。コハルはようやく自由になった手で、目を擦った。様子を見ていた橋谷が鼻を鳴らす。
「何だ、また頭が痛いのか?」
こちらです、と人垣の向こうから槇が手招きをしている。いつの間にあんなところにいたのだろう、とコハルは首を捻った。
行くぞ、と言われ、彼女は慌てて後に続く。
人々はまだ、ねっとりとした視線をコハルたちに向けていた。
ちゃんと続きます

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