海辺の街 断片1
彼女は猫のようにするりと襖を開けて入ってきて、ぺたんとわたしの横に座った。そして、少しわたしを見つめて、いつものように、まったくの無表情のままに、首を傾げた。
彼女をよく知らない人は、感情がないのだと思うのか、変な目で見る。何度か、そんな風に言われているのを耳にしてしまったこともある。ただわたしはその一瞬、わたしを映しただけの目を見て、ほっとした。無理やり作られた、お悔やみの顔は、案外、人を疲れさせるものなのだ。
ところが彼女は意外なことに、わたしをその両腕で抱えた。いささか乱暴だったので、抱きしめられたというよりは、抱えられた気がした。
戸惑っているうちに、彼女は不器用にも、わたしの頭と、続いて背中を、とんとんと叩いた。彼女の精一杯の、優しい力加減で。
「大丈夫だよ」
そう言われて、ふいに、我慢していた気持ちが溢れた。
「大丈夫、大丈夫、心配ないよ」
あとからあとから、縁を越えて、どんどん溢れる。
「一緒にいるからね、大丈夫だよ」
彼女の言葉には、ほとんど感情らしいものは込められていなかった。それでもわたしは、彼女が今、こうしていることと、そして、彼女を育てた、わたしの祖母を想って、しばらく涙を流した。
わたしが、ある程度落ち着いてから、またぎこちなく、彼女は体を離した。そして、前にね、と言った。
「こうしてくれた」
顔を上げると、彼女はいつもより、少し不安げな顔で、祖母の家との間にある、苔の生えた小さな庭を見ていた。古いガラスはどこも奇妙に歪んでいる上に、もう夜だ。元より薄暗い庭に、何がいたとしてもよく見えない。
「お母さんが、いなくなったとき」
ああ、と、わたしは少し笑った。
「そうだったかな」
うん、と彼女は真剣に頷く。
「お母さんも、そうだったって言ってた」
え、とわたしは怪訝な声をあげた。
「お母さんの、お母さんがいなくなったとき」
彼女はもっと真剣に頷いて、こちらを見た。今度は、その瞳に、普段は、機械に向かっている時にしか見えないような、強い意志の光があることに、わたしはひどく戸惑った。
「だから、今度は、わたしの番」
うん、とわたしは俯いて、また泣いた。泣きながら、ありがとう、と何度も言った。彼女はたぶん、それしか知らないから、ずっと、大丈夫だよ、と言ってくれていた。
わたしは、大丈夫だろう。これまでも、ずっと大丈夫だった。
大丈夫ではないのは、彼女の方だ。一人で暮らしているように見えるけど、実際のところ、生活というものとは無縁だ。
実家へ帰れと言っても、帰るわけもないし、帰ったところで、あの父と兄だ。
悪い人ということではない。彼女を疎んじているとか、そういうことでもない。彼らも総じて、生活能力に欠くのだ。
二人とも、大学だかなんだかの研究室にこもったきり、平気で家に帰らない。そもそも、彼らに、家、この場合は建物の話ではなく、家庭という意味での、家という概念があるかどうかもあやしい。彼らが、どうにか家族でいられたのは、わたしの姉がいてこそだった。
ばらばらになった、と、他人から見れば思えるが、不思議なことに彼らは、つながっている。少しも連絡を取らず、会うこともなく、今だって、ここへ来るわけではないけれど。
いつの間にか、わたしは泣きながらも冷静にそんなことを考えていた。
祖母の店もどうするか決めなければならない。今は、一時的にわたしが手伝っていたけれど、本人がいないのだから、手伝いというわけにもいかない。
とはいっても、わたしにも仕事と、生活が別の場所にある。手放すこともできるが、全くその決心が、今はつかなかった。
考えてみれば、あれだけ高齢の祖母だ。こうなることは、わかっていた。母や、姉とは違う。
なのに、わたしは信じていた。
信じていたかった。
現実を見たくなかったのだ。
いずれ、祖母はいなくなるということを。
なんども、別れを経たにもかかわらず。
翌朝になって、わたしは貼り紙を出すことにした。
もし、だめだったら、お店はたたもう。
一昨年のテーマ
海辺の街
のときに書いたもの
毎年、
テーマに沿った建物と
それに住んでる人の話
があるのだが
たいてい途中で次の年になる
が
すでに
空を見上げて
が
進んでないから
別のものを出してるんだよ?

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