蒼の果て 断片1
カーチの大鐘は、とんでもない動き方をしながら、聞いたこともない大きな音で鳴り響いた。
ユナンの短い人生でそう思っただけではなく――村のすでに仕事を終えて家に入っていた人々も何事かと飛び出した。
皆、一様にカーチの塔を見上げて口々に何かを叫んでいる。
叫んでいるのだろうけれど、きっと横の人の声も聞こえなかったに違いない。
大げさな話ではなく、クルーゾのいる町まで届きそうな音だった。
カーチの塔は、大鐘の振れる重みで、しなって見えた。
いつもは澄ました顔で歩いているカーチのローブをまとった人々が、村人同様に慌てて塔から駆け出して、これまた塔を見上げて――こちらはさらに深刻な顔で鐘を指差していた。
風がやんだ後もたっぷりと、大鐘は揺れて、次第にぐらぐらと元の位置におさまった。
大鐘の音が止むのと共に、人々のざわざわという声がユナンの耳にも戻ってきた。
それでも、まだどこかで、ごおん、と聞こえる気がする。
頭の中が、大鐘になったような気分だ。
カーチの塔は無事で、駆け出してきた塔の人々は、先ほどとは別の顔で深刻に話し合いながら、塔へ戻ろうとしている。
そのとき、階下で――通りを挟んだ向こうの家の中から、悲鳴が聞こえた。
「サチ! サチ!」
ユナンが思わず通りを見下ろすと、ちょうど彼の母が、サチの家に飛び込むところだった。
何かあったのだろうか。
他にも鐘に驚いて外にいた幾人かの大人が、サチの家に駆けこむ。
そのうちの一人が取って返して飛び出してきて、カーチの塔へ駆け出した。
その間にも、サチの母親の裏返った声が、通りに響く。
ユナンは窓辺を離れて下へ駆け降りた。
玄関から飛び出すと、サチの家の前には、すでに人垣ができていた。
上で見ていたよりも人が増えている。
「突然倒れたらしいよ」
「突然って――」
「鐘の音に驚いたのかね――」
ざわざわとした輪の向こうに、ギャズの姿も見える。
きっと彼の母親も、家の中にいるはずだ。
何が起きたのか、もっとよく知ろう、と、ユナンが首を伸ばしたり縮めたりしていると、おお、という声が上がった。
「あれは――」
大人たちが驚きの声を上げて、カーチの塔の方を指差した。
鳥の羽ばたく音がする。
まだサチの家を伺っていたユナンが、やけに大きな羽音に顔をあげると――とてつもなく大きくて――夕焼けよりも真っ赤な鳥が――カーチの塔の上に差し掛かったところだった。
「長老様だ」
誰かが小さく叫んだ。
それを皮切りに、長老様、法皇様、という声が湧きあがった。
今や、サチの家に集まった人よりも多くの人が、カーチの塔に向かう通りに集まっていた。
ユナンやサチの家は、ちょうどその通りにあるものだから、お祭りのような騒ぎになっている。
真紅の巨鳥は、塔の周りを三度ほど旋回して、広場に降り始めた。
降りてくるにしたがって、巨大だ、と思っていたのが覆されていく。
とんでもなく巨大だ。
そんなものが、広場とはいえ降りられるのだろうか、と思うくらいに巨大で――カーチの塔でさえ、小さく見え――ユナンは、冬に山で見た巨大魚のことを思い出した。
あれなんか、この鳥がぽい、と口に啄ばんで、飲み込んでしまえるんじゃないだろうか。
通りのざわめきは、最高潮に達していた。
理由がなんであれ、長老様、法皇様、と呼ばれるのは、カーチの頂点に立つ人物であり――こんな吹けば飛びそうな村に来ることなど――それ以前に、普通の人間がお目通りすることすら叶わないはずである。
『彼』――実際には性別すら口には上らない――は、連合国ができる以前から、強大な魔力を持ってこの地を守っており――いったい何歳になるのか、それとも代替わりをしているのか、ユナンなどには詳しいことまでは、わからない。『彼』の存在はいやというほど教わるのに、その詳細を知らされることはないのだ。
カーチとは『彼』のために――『彼』が世界を安定に導くのを助けるためにあるのだ、ともされている。
『彼』の存在に加えて、『彼』を運ぶ『真紅の巨鳥』のことは、ユナンよりも小さな子どもでも知っていた。
その、巨鳥が、今、この村のカーチの塔の広場に降り立ったのだ。
狭いだろうに、なんとも上手に降り立ったらしい巨鳥は、もっとよく見ようとさらにざわめく人々の前で、あっけなく、ふっと消えた。
通りに困惑と羨望の声が上がる。
人垣が、塔の辺りから徐々に割れた。
それに押されて、ユナンはサチの家から遠ざけられ――自分の家の前まで戻されてしまった。
ちょうど、家の前の塀の縁に足が当たって、ユナンは少し高いそこに上がる。
大人の頭を越すことはできないが、視界が少し開けて、人々の頭の間に広場の方が見えた。
遠く――実際には大した距離ではないのだが――白い衣が翻る。
見慣れた簡素な村の通りが、別の場所のように思えた。
横に、見慣れたローブの色がいつもに増して濃く沈んで、頭を垂れて深刻に法皇様に何かを話している。
その後ろに横に、数人の濃い色が連なっていた。
カーチでは、すべての人が、体をすっぽりと覆うローブに身を包んでいる。
フードと袖、裾に縁取りの細かな刺繍が施されていて、その装いがカーチの印だ。
ローブの色は闇の黒から、階級が上がるごとに明るくなる。
初めてカーチに迎えられる子供は、漆黒の衣を纏うことから、闇の子どもとも呼ばれる。
ローブの色と縁取りの色の組み合わせで、階級と役職がわかるようになっているらしい。
輝く純白に、黄金の縁取り。
それが最高位だ。
その輝く衣が今、こちらに向かって歩んできていた。
そんな相手に対する礼儀の作法を村の誰も知らない。
そもそも、目の前に現れる「心配」すらないのだから、当たり前である。
それでも、後ろに付くカーチの面々が頭を垂れているところから、通りにあふれた住民も、ちらほらと頭を下げた。
もっとよく見ようと乗り出している人も、目の前で起こっていることを信じられず、呆然と眺めているだけの人もいる。
ユナンは、大人たちが頭を下げてくれたおかげで、その奇異な一行をよく見ることができた。
『彼』の顔はすっぽりと純白の衣が覆っていて見えない。
そういう衣の造りになっているのか、それとも、何かの魔術がかかっているのか、いくら覆われている、と言っても、正面から見れば見えそうなものなのに――なぜか、どんなによくよく見てみても、どういう人物なのか知ることができなかった。
少し離れた通りの向こう側に、ギャズがいて、目を獣の子のように輝かせている。
隣の大人になにやら小声で注意をされて、しぶしぶ、といった感じで頭を下げた。
通りのざわめきが一層低く細かくなっていく。
誰もがみな、声にならない声を口の端に乗せて、周りの人間と顔を見合わせた。
世界の設定が
初めて登場した部分を
発掘しておきました
よく変わらずにここまできたものよ……
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