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人は見た目ではないと言われても好みはどうしたってあるものですから

 人を見かけで判断してはいけません。

 子供のときに、そんなふうに教わった。
 なにより、毎週通っていた、日曜学校で何かにつけて言われていたことだ。カトリックに限らず、他の宗教でも、エライ人がボロをまとって出てくる話は多い。見た目がボロい相手でも、等しく親切にしましょう、という話だ。
 今回の本題とは別に、この教えにはいつも疑問を感じる。なぜ、イエスさまに限らず、エライ人は、エライくせに、こころの弱いかわいそうな民草を騙してくるんだろう。

 それはさておき、見た目で人を判断してはいけないことになっている。日常生活でもそうだが、恋愛においても、そんな困ったことが取り沙汰される。
 大事なのは中身で、イケた外見をしている人ばかりがもてはやされるのはおかしい、というのだ。
 生物学的に、真面目に意を唱えると、これは、においでメスを選んではいけない、とオス犬に諭すようなものである。犬はそんなことを言われても、鼻が発達してしまったがために、においで繁殖相手を選ばざるを得ない。そこを、大事なのは性格で、などと言われても困惑するだろう。彼らにとって大切なのは、丈夫な子犬をたくさん産んで、かつ、しっかりと賢く育てられることである。そこには、確かに性格も含まれてはいるのだが、一番は、健康であることだ。
 人間は、視覚が発達した。本当は、嗅覚や聴覚、味覚なども使いながら相手を選んではいるのだが、どうしたって、第一印象が見た目に寄ってしまうのは生き物の性質として仕方のないことだ。

 という、訳のわからない前置きが書いてあるのだが、わたしは一体何が書きたかったのだろう。
 わたしにはどうしても苦手な相手がいる。その相手について考えていた。相手は異性で、だからここでは「彼」としておこう。とある事情があって、わたしは彼を毎日見なくてはならない事態に陥っている。
 その彼が、なぜ苦手なのか、それについて考えていた結果を書こうと思ったような気がする。

 彼は、お世辞にも見た目が美しいとは言えない。ただ、これはわたしの審美眼によるもので、別の人が見れば好ましく感じるかもしれない。とにかく、わたしの好みではない、ということが大きい。
 この彼、わたしの方をちょくちょく覗ってくる。文字通り、覗ってくるのだ。お分かりいただけるだろうか。好みではない異性に覗われることの意味が。
 人を見かけで判断してはいけません、という。そうはいっても、少々、いや、大いに気色が悪い。

 夏になるにしたがって、わたし自身の精神状態は、鬱々としてゆく。気圧が低いことや、気温が高いこと、湿度が高いことが非常に苦手だからだ。肉体的にもかなりキツい。
 ちなみに、途中で止まっていたこれは、2025年4月1日に書かれていた。時間は12:53。この時点ではさほど暑くはないだろうと思うかもしれないが、すでに花粉による攻撃を受けた後で、ここから気温が上がってゆくことを考えるだけで、もう人生が嫌になってくる時期である。
 そして、現在は、2025年12月30日である。気温が下がるにしたがって、テンションは爆上がり、今や、この件に関してもどうでもよくなっている。嫌いな人も、どうでもいい程度に緩和され、世界は薔薇色になっているところだ。

 しかし、当時のわたしは本気で悩んでいた。
 ふとした瞬間に、彼の視線を感じる。視線だけではなく、明らかにこちらの様子をうかがっているのが、わかってしまう。こういうとき、言葉以外の通信手段を持ってしまったことを呪わしく思う。
 うかがっているだけなら、まだいい。彼は自分の現状をアピールしてくる。今、自分がいかに頑張っているか。難問を解決すべく、いかに苦慮しているか。

 非常に不快でイライラするのだが、それを本人や周りに言うわけにはいかない。まずもって、そんなのは自惚れすぎだろうと言われれば、それまでである。本人は、はいそうです、とは認めないだろう。どちらかといえば彼の場合、無意識にやっている可能性が高い。

 仕方がないので、わたしは冷静に事態を考察してみることにした。例えば、見た目のある部分が似ているという意味において、この彼がウィリアム皇太子だったらどうだろうか。
 彼らは、全くわたしとは違う悲劇を味わったわけだが、これもある部分、同時期に愛する母を亡くしたという一点において、勝手に親近感を覚えてきた。失礼なはなしだが、そこは流してほしい。
 そのウィリアムだったとしたら?
 彼が同じことをしていても、わたしは気色が悪く感じるだろうか。

 はたまた、わたしが愛するジェフリー・バトルが、現在ではなく、あのオリンピックで氷上にいた時の煌めく姿で、同じことをしたらどうだろうか?

 結論は出なかった。
 彼らはある意味、眩しすぎる存在である。わたしがそちらを見られない。
 わたしのわたしを陰キャたらしめんとする理由のうちの、最大のポイントに、ハイスペックイケメンを求めているにも関わらず、実際のハイスペックだのイケメンだのが存在した場合、話をすることは愚か、そばに近寄ることも、顔を見ることもできない、というのがある。
 眩しすぎて。
 彼らの持つ陽の光に焼かれて灰になってしまう。わたしは陰の生き物なのだ、陽光に照らされるようにはできていない。

 これでは、なんの考察にもならない。
 ここで、もっと身近なケースを考えてみた。
 前職で仲のよかった男友達は、わたしのことが大好きだった。時は、コロナの頃である。
 ほとんどの時間、わたしたちは、マスクをし、デスクには木製の衝立(木造建築のプレカット工場なのでアクリル板ではなく余った合板でできていた)に遮られ、簡単にお互いの顔を見ることが難しい時代だった。
 あるとき、わたしは友人の奇妙な行動に気がついた。昼休み、昼食を食べ終えて歯を磨きに行こうとすると、彼は必ず自分のデスクの衝立から、首をにゅにゅにゅっと出して、わたしのことを見てくるのだ。
 なにしてんねん、あいつ、キモっ。
 と思っていたのだが、徐々に理由が判明した。わたしは、昼食を食べてすぐ、歯を磨く前なので、マスクをしないまま、事務所を歩いていたのだ。確かに友人は、コロナ禍以前、わたしがインフルエンザの予防のためにマスクをしていたら、即座に外すように命じていた。要は、わたしの顔が見たかったのだ。しかし、コロナでは世界的にマスクが義務化されてしまう。彼にとっては、悲劇だっただろう。

 さて、この件はどうだろうか。
 気色悪い。友人の男が衝立の向こうから首を伸ばしてこちらをニヤニヤ見ているなんて、気色悪いことこの上ない。
 だが、嫌ではない。

 そう、問題は、この行為ではないのだ。彼は、そこそこスペックのそこそこメンだったが、わたしの好みではあった。
 好みの男性なら、多少の気色の悪い行動も許せる。

 となると、問題は、好みかどうか、なのだろうか。
 例えば、友人の例で言えば、わたしに好意があることをすでにわたしに伝えていたし、よく話をするし、仲のよい関係だった。
 一方で、現在わたしを悩ませている「彼」は、普段、話をすることはない。ほとんど赤の他人である。

 今度は反対に、赤の他人という点について考えてみよう。
 もし仮に、彼が毎朝、駅の向かいのホームで同じ時間に電車を待っているとしよう。わたしの通勤経路にそういうシチュエーションは起こり得ないのだが、それは度外視してほしい。
 彼は、わたしの全く好みではない見た目をした男性だ。仮に彼がこちらを見ていたとして、わたしは気がつくだろうか?それを気色が悪いと捉えるだろうか?
 存在しているだけだとしたら、どうだろうか。彼がただ道を歩いているだけの人間なら?お互いが関わり合うことなど一度もない、そんな関係なら?
 全く意に介さないだろう。
 相手が好意を寄せていたとしても、あまりにも離れすぎていて、気にも留めないだろうし、ましてや気色が悪いとも思わない。

 ここまで考えて、わたしは冷静になった。
 そんな御託はどうでもいい。
 とにかく、不快なのだ。彼の存在そのものを消し去りたくなるほどに不快なのだ。全く好みではないのだ。喜べと言われても無理だ。

 しかし、ここで重要なのは、わたしが逆の立場に陥るかもしれない、ということだ。わたしだって、いつも鳥や猫を物陰から執拗に観察している。彼らにしてみたら、あの人間マジでキモい、と思われているかもしれないのだ。
 春先には、白鷺が川で夕飯を吟味しながら下流へ向かって歩いていくのを、スマホ片手に護岸壁に隠れながら数百メートル追跡している。鳥界では指名手配されているかもしれない。
 人間相手でも、好みの男性がいた場合、どうしたってチラ見してしまうのを止められないだろう。実際に中学校のときには、体育の授業中、自分の授業そっちのけで隣のクラスの意中の男子を探して忙しかった。体育館で、彼と自分がちょうど同じ一直線上にいると分かって、幸せな気持ちになったことさえある。後から、冷静になってみれば、地球上のどの地点にいたとしても、地面を這わせた一つの線の上にわたしともう片方の誰かが必ず存在するわけで、どんな場合も一直線上に存在するのだ、と思ったのだが、そういうことではない。
 もしかしたら、あいつ、またこっちを見よるでキモっ!と思われていたかもしれない。これも、相手が彼氏の場合は問題ないし、その場合は以心伝心、相手もこっちを見ていることが多いから目があって幸せな気持ちになる以外の問題点は一つもない。

 問題は、大人になるにしたがって、そういう不躾な愛情表現は控えられていく、というところにある。どんなにお気に入りの相手がいても、相手が気がつくほどに見つめてはいけないのだ。
 特に、向かいのデスクのパソコンの陰なんて場所からは。
 よく考えてみたのだが、ウィリアムにしろ、バトルにしろ、友人にしろ、その距離で見られたら、キモい以前に気が散る。そう、何が不快って気が散るのだ。わたしは集中したい。他の何者にも邪魔されたくない。こっそり見守っていただく分には構わないが、わたしの視線の内で、こちらを見ないでほしいのだ。

 いや、違うな。
 どちらにしても、わたしの好みではないというところが本当に大きい。はっきり言ってしまえば、好みとは対極にある。そんなこと言って、本当は好きなんでしょ?などと言われるかもしれないが、こればっかりは違う。
 わたしにとって、好みの男かどうか、というのは、結局は顔でもスペックでもなく、触れられたいと思えるかどうか、の一点に尽きる。彼には、わたしの持ち物ですら、触ってほしくない。


 と、そのようなことを夏の初めに悩みまくった。
 どうにかしてこの不快感を軽減したい。パソコンの裏に目玉のシールを貼ろうか、などとも考えたのだが、姉が楽天で天然石を購入する、という、人によっては自然な、はたまた別の人にとっては超自然的な解決方法に至った。
 石の効果がどこまであったのか、定かではない。前述の通り、冬になり絶好調のわたしは、今はどんなことでも許せる状態にあるため、現状を聞かれてもわからない。
 ただ、全く気にならなくなった。見たいなら、見ればいいじゃないと思っても、どうしても嫌だったのだが、今は「無」である。存在が意識されない日も多い。また夏が来れば発狂しそうになるのかもしれないが、今のところほとんど解決した、と言っても過言ではない……と言いながら、これだけ考察できるのだから、今でも気になっているのだろう。


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