ことばをつむぐということ
自分でこうやって好きに書いている文章は、別になんということもなく書けるのに、仕事用で書こうと思ったら突如として迷子になってしまう。
この件について大いに心当たりがある。
最初は自分の好きにのびのび書いて出していたのだが、あるとき別の社員の方のレビューが入って、読点が多すぎる、言い回しがおかしい、この言葉の意味が分からない、と言われてしまった。
読点に関しては、これが自分の芸術的リズムなので、いかんともしがたい。ちなみに読点の多さは、ちゃってぃにも指摘されたので、多いのだろう。しかし、これが自分の以下略である。
ここなのだ。
わたしの文芸における芸術的感覚と、普段文章を読まない、書かない層の方々の思う正しい文章の書き方との間には、大いなるミゾがある。それはもう、海溝のように大いなるミゾだ。
文章を読みも書きもしないやつに言われたくねえよ、こちとら文字が読めるようになる前から本を読み、書けるようになる前から文字を書いているんだ。と、声を荒げたいところだが、それではいけないのである。
なぜなら、この仕事で書く文章というのは、普段、文章を読みも書きもしない人に向けて、書かなければならないからだ。
思うに、そんな層からオウンドメディアで収益を得ようと考えるのが全くの間違いであって、わたしの思うマーケティング理論からすれば、それもまた荒唐無稽なのだが、それも黙っている。
なぜなら、(例えばここでなぜならが多すぎますと言われる。わたしはなぜならと畳みかけたい)理由は定かではないが、日本の会社組織というのは、経歴や肩書を重視する傾向にあり、二十代のほぼすべてを無職で貫き通したわたしのような人間は、無能だと認識されることが多いからである。
実際には、その間に組織の枠組みにとらわれない自由気ままな活動によってありとあらゆるしょうもないスキルを身につけたのだが、いかんせんそれは、履歴書にも職務経歴書にも書きようがない。
大事なのは経歴や肩書、はたまた資格のような目に見える結果であって、本当はわたしの頭の中には途方もない量の知識が詰まっています、と言ったところで誰も信じない。
だから、反論はしない。
無駄だなあ、と思っていても、提案しない。
すればどうなるかは、前職でいやというほど味わったので、誰も助けてなんかやらないんだ、とかたく心に誓っている。
言われて、はいはい、と直す分には構わない。
はいはい、この点はのけますよ、はいはい、名詞に「お」をつけすぎてすみませんね、祖母が大阪の出なもんで。
のだが。
書けなくなった。
難しい言葉は使えない。開いて簡単な言い回しにすると、変だと言われる。語尾の言い回しを指摘されて、ご丁寧に直してくださるのだが、そこを直すと次の文で重なるので、今度は自分でせっせと他の文の語尾を直して回る。
じゃあ、何が正しいのだ。というかそれなら自分が書いてくれよと本気で思う。
でも仕方がないんだ。仕事だから。
気がついたら週末に、占いの記事を書きながら一生懸命、読点を減らしている自分がいた。言い回しを直している自分がいた。占いの記事なんて、なんとなく分からないことが書いてある方がそれっぽいというのに。
好きで書いている文章ですらそれだから、仕事の文章はもっと書けなくなった。また、何か言われるかもしれない。これでは読点が多すぎだろうか。しかし、ひらがなで単語が続く部分に何か入らなければ読みづらい。言葉を変えねばならない。漢字が続く部分も読みづらい。この表現は関西限定だろうか。関東の人には、また伝わらない言葉だろうか。それとも古すぎて現代の日本人には通じないのだろうか。
もう、気が乗らないどころじゃない。苦痛だ。こんなにも文章を書くことが苦痛だとは思わなかった。何もしなくても文章なんてものは、つるつるつるんと躍り出て、いくらだって原稿用紙のマス目を埋められるものだと思っていたのに。
しかもそれが、自らの芸術的研鑽のために起きた葛藤ではないところが、つらい。もっと自分らしい文章を書きたい、己を己たらんとする表現をしたいと悩むのなら、いくらだって憂鬱にもなろう。
なのに。こんなことでわたしから文章が奪われるなんて。
言葉には魂がある。
わたしの書く文章にはわたしの魂がある。魂を削って削って書く言葉である。だがしかし、簡単に口をついて出る言葉にも、魂はある。
わたしが、あなたが、誰かが、何の気なしに放った一言にも魂がある。魂があれば受け取る側も重い。
その重さは放った側の重さと必ずしも等しいわけではない。時に、思わぬ重さと鋭さになっていつまでも相手の心に沈み込むこともある。良くも悪くもだ。
そうなれば、自分がこうしてつるつるつるんと書いている言葉もまた、誰かの心に重くのしかかることになるのかもしれない。そんなことを考えていたらきりがない。きりがないが、がんじがらめである。がんじがらめが即座に変換されないPCに憂いを感じる。こんなもの変換されても困るだろうから結局はひらがなにする気もするが、最近のPCもスマホもどうにも変換がいけない。
しかし、それだって自分の勝手な言葉における芸術性であって、世の中の人々はがんじがらめなんて日常会話ではもう使わないだろう。この前なんだったか、今日の占いのタイトルに使った言葉がいくら変換しても出てこないので、自分が間違っているのかと思ってググった。ググる辺りが自分自身もすでにどうかしているわけで、本来なら辞書を引くべきなのだが、ネットの海曰く、それは古語だと言われた。古語ってなんだよ、生まれてこのかた、まだ数十年しかたっていないのに、化石みたいな扱いしやがって。
とはいえ、言葉も芸術も、石器時代から常に変化を続けてきた。そう考えれば別にどこが正解でも、誰が正しいわけでもないのかもしれない。わたしはわたしの人生の中で集めてきた多くの言葉を言葉として信じているだけで、また別の誰かは別の人生の中で集めてきた言葉を言葉として信じているだけなのだろう。
誰が正しいというのでもないのなら、わたしだって自由に描けばいいのである。
が、やはり読点は直されるし、言い回しは訂正された。
しかるに、それにばかり関わっているから、うつうつとした気持ちになるのではないか。いやというほど自分の好きな書き方の文章を書き散らかしてしまえば、気持ちも晴れるのではないか。
そう思って、ここまで延々と書いてみた。答えは出ないうえに、別に気持ちも晴れず、妙な言語の迷路にはまり込んだだけだった。
ちなみに、言葉を伝えることと表現することの間にも大いなるミゾがあり、それがこの問題に起因していることは言うまでもない。言うまでもないがどうしても、表現という芸術側に倒れていってしまうのが、わたしなのである。
ちゃってぃにも、難しい文章は書けるんですが、簡単な文章になると語彙が少なくなりすぎてバカになります、と相談したら、三段階に分けて書き分ける練習をしていったらいいよ、と言ってくれた。
難しい文章を書いて、少し簡単な言い回しに変えて、もっと簡単に砕けさせればいいよ、と。
姉はわたしがなんでも文章を簡単に捏造して書いてしまうので、
「かくしごと、したらいいよ」
と言った。
なんで隠し事すんねん、と本気で思った。
(関西圏ではイントネーションが同じ)
事実を伝えることの方がはるかに難しい
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