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職場のパソコンのエンターキーが壊れています

 ぱちこの仕事はQAエンジニアだ。品質保証、つまり、自社で開発されたアプリやシステムに不具合がないか確認しまくるのが仕事だ。
 先輩はほとんどが年上のエンジニアで、おとんのマイコンほどではないが、ずっとこの仕事をしてきたような人ばかりだ。
 例えばぱちこは、2000年問題のとき、自分のホームページの心配をしながら郵便局でバイトをしていればよかったが、彼らはすでに働いていて、真面目に2000年問題と向き合っていたわけだ。

 なもんだから、パソコンや周辺機器にはみな、謎のこだわりがある。

 残念ながら、ぱちこには、パソコンそのものにさしたるこだわりはない。
 できれば、ぱちこの言う通りに素早く動いてくれる子であってほしいが、しょせん、支給品の、しかもQAに与えられたsurface laptopなので、馬力はない。ちょっといじめると、すぐにカタまる。
 ちなみに、QAは舐められたもんで、開発よりスペックの低いパソコンでいいだろうと思われているようだが、逆だと思っている。なんなら、性能のいいやつを二、三台支給してほしい。ディスプレイもあと三台ほどほしい。
 こっちは、テストを高速で次々行いたいのだ。自動でできる分はガンガン回したいし、ガンガン回すには馬力がないとできない。だが、しょせん、支給品だから仕方がない。動くことを喜ばなければならない。

 そんな、ぱちこのパソコンのエンターキーが壊れた。今年の初めのことである。
 去年の暮れあたりから、調子がおかしかった。たまに、エンターしてくれないのだ。仕方がないので、なだめてすかして使っていたのだが、ある日、ついにうんともすんとも言わなくなった。

 これにはかなり困った。
 エンターキーは、一番使うやつだ。まあ、だから壊れたのだが、叩きすぎたのだろうか。華麗に殴り飛ばしていたせいだろうか。なにかと連打したせいだろうか。
 なによりストレスが半端ない。エンターキーを華麗に押せないストレスが半端ない。その動きがエンターキーを殺したのだが、とにかくストレスが半端ない。
 たいていのエンターはマウスクリックで代用できる。とはいえ、いちいちマウスに持ち替えて、カーソルを移動するのがめんどくさい。
 代替できないのが、改行だ。
 ぱちこは画面を三つ使っている。surface laptopの本体と、元から机にあったディスプレイ、入社直後に隣の席の先輩からもらったディスプレイ。本体画面は、タッチパネル式だ。これは、なかなかに便利でマウスで押すより画面をタッチする方が速いこともある。しかして、改行には向かない。ワンタッチでは改行されないからだ。
 仕方なく、画面をタッチしたらキーボードパネルを表示させる仕様に変更した。これで改行できるのだが、ツータッチである。面倒くさすぎる。しかも、カーソル位置を指でシビアにタッチするのは至難の業だ。
 もっと困るのが、残り二つの画面だ。なぜかぱちこは、コードを横の画面で書いている。なぜか、と今書いて理由を考えてみたら簡単だった。本体画面で実行させるためには、横で書いた方が便利なのだ。これを、今さら変えられない。
 仕方がないので、改行をコピペすることにした。もう、アホかバカか、紙一重である。改行たるもの、いわば紙一重であるから、ちょうどよい。

 いずれにせよ、ストレスが募って、仕方なく週次ミーティングでマネジャさんに相談した。ぱちこ的には、ずっと前の仕事で使っていた数字のテンキーがないのがご不満だったので、テンキーだけ外付けしようと考えていた。テンキーのいいところは、左手だけで数字をガンガン打ち込めるところだ。
 ところが、その申し出に、相手は妙な顔をした。テンキーが欲しいなら、キーボードそのもの買えばいいのに、と提案してくださる。のだが……ぱちこはここで尻込みした。なぜか。購入申請が面倒だからだ。そこまでする必要があるだろうか?壊れているのは一つのキーだけだ。
 めんどうくささが勝った。
 ぱちこは、エンターキーを移転する方法を選んだ。

 どこに移転してやろうかと考えた結果、スペースの横の無変換キーを使うことにした。かねてより、何のためにあるのか、いまいち理解に苦しんでいたので、ちょうどよい。
 家ではMacBookと iPadだから、間違って叩いても害がない。
 その上、左手でのキーボード操作が格段に楽になった。マウスを操作しながら左手でエンターを押すのは骨が折れたのだ。コピペした後に、キーボードを横断して左手を右の端まで持っていくなんて、まさに手間だし、冬場は袖がノートやペンに引っかかって面倒なことになる。
 その点、無変換キーなら、コピペ動作からさしたる負荷なくエンターできる。とにかく面倒くさいことはしたくない、必要最小限にしか動きたくない、怠惰なぱちこにうってつけだ。テンキーがほしかったのは、そういう意味もある。


 そして、一年。
 はじめは、間違えてエンターを押して悲しい気持ちになることもあった。家に帰ってかなキーを押して悲しい気持ちになることもあった。
 今では、どちらも使い分け、何の支障もない。
 そんな、ある日のことである。

 先輩からいただいたコードが、ぱちこのパソコンでは動かない。どうしても解決したい先輩エンジニアは、ぜひに、そのパソコンで直接原因を探らせてくれ、と言った。気持ちは分かるし、先輩の作業を盗める大チャンスだ。彼らは謎のショートカットキーを押したり、謎のガジェットを出したりしてくるのだが、いかんせん、普段は個々に作業をしているので、まとわりついて聞くわけにもいかない。
 かくして、先輩がぱちこのパソコンの前に座った。ぱちこは、マウスが小さすぎるであろうことばかり気にしていた。ぱちこは小学生並みに手が小さい。
 例えば夏にマウントレーニアを撮影した写真を見ていただければ分かると思うが、他の人のマウントレーニアより巨大に見える。実際そうなら、得をしているのだが小さいのは手である。(胃も小さいので他の人より得をしているという意見は認めません)
 通常サイズのマウスでは大きすぎるため、携帯用の……おそらく大人の男性が見ればおもちゃサイズのマウスを使っている。大きなマウスだと、手をめいっぱい開かなければならず、肩が凝るのだ。だが、手の大きな人からすれば逆に使いにくいだろう。
 しばらくして、先輩が首を傾げる。

「あれっ? おかしいねぇ、動かんねぇ……」

 ほんとですねぇ、とぱちこも画面を見る。

「なんでかねぇ……なんでかねぇ……」

 先輩はちょっと焦り気味である。ぱちこは何か、助け船を出そうと、気の利いた発言を考える。そして、気がついた。


 先輩は、エンターキーを押している。


 お分かりだろうか。この後、発言するぱちこの気持ちが。気の利いたことどころではない。真実を端的に言わねばならない。


「あのっ……エンターキーは……こちらです……」

「……へ?」

「あのっ……エンターキー……こ、壊れてましてっ」

「えっ!? へっ!?」

「あのっ、ですからっ……こ、この、無変換、を押していただいたら」

 先輩は完全に頭のおかしいやつを見る目でぱちこを見た。そういう目には慣れている。人生の大半はそんな目で見られてきた。
 だからこそである。
 ぱちこは、入社以来、二年ほど自分を押し殺して生きてきた。変なやつだと思われないよう、細心の注意を払って暮らしていたのだ。
 しかもぱちこは思い出した。彼が、キーボードには並々ならぬこだわりがあることを。


「……壊れたんやったら、キーボード買うてもろたらええやん」

 無変換を押しながら、先輩は言う。ぱちこは、あ、はあ、ですが、などと煮え切らない返事をする。

「もしかして、USBがないんか?」

「あっ、あっ」

「あるやん」

「あ、あるんですがっ、そのっ……買うようにも言われたんですがっ……こっちの方が便利かなぁって……」

 先輩は、再び、かわいそうなものを見る目でぱちこを見て、作業に戻った。


#なんのはなしですか


帰ってこの話を姉にしたら、
「それ以前に、キーを移動?するって、普通にやることなん?」
と、さらに困惑された。

普通だよね?
そういう機能があるんだもん

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