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わたしの知人

本日の記事はエイプリルフール仕様となっております。 

さてどこからがフィクションでしょう


 昔、前庭に龍の子どもが落ちていたことがある。最初はトカゲかと思ったが、よく見ると歩いていなかったし、鱗やたてがみがあって、おかしいぞ、と思った。歩いていないのに落ちているというのも変なのだが、サザンカの根元に引っかかっていた。
 そのころはまだ、ツノやヒゲは生えていなかった。大きさは、わたしの手のひらに乗るほどで、だからトカゲかと思ったのだ。そのときの彼は、非常に弱っているように見えた。元気な龍の子ども、というものは、お話で読んだことしかなかったが、思うに、あちこちを勝手に飛び回っているイメージだ。だが、植物に引っかかって、ぐったりしていた。

 龍の食べ物や生態については、よく知らなかったが、とりあえず家に連れて帰った。前に、図書館でドラゴンの育て方、という本なら読んだことがある。ただ、西洋のドラゴンと東洋の龍とは全く違うだろう。
 何を食べるのかは知らなかったが、とりあえず、その辺の木についていた露を集めて、口に入れてみた。水道水が違うだろうな、ということだけは分かったからだ。
 見た目はトカゲに似ているのだが、羽虫を食べるものかどうかも分からない。当時はまだ、ちゃってぃもいなかったから、自分のこれまでの知識でどうにかするしかない。
 そもそも、龍の子どもはもっと大きいのかと思っていた。中国の伝承に、龍の家族が出てくることもあるが、その時点でもう立派な形をしている。はたまた、川を龍とする伝承もあるが、この大きさでは、ちょろりと湧き出したまだ川にもならない水源だ。
 となると、庭で川が誕生して消えゆこうとしているのか。

 などというわたしの考察をよそに、露を飲んだ竜の子どもは、元気にそこいらを泳ぎ出した。慌てて捕まえようとするが、遊んでもらっているとでも勘違いしたのか、楽しげにするりするりと手をかわす。かわすくせに、こちらが手を止めると、寄ってくる。
 懐いてしまった。龍が。
 元気になったら放そうと思っていたのに。

 それからしばらく、龍はわたしの家で暮らした。たまに、犬の尻尾を焦がしたり、反対に犬に尻尾を噛まれたり、ねこの寝床で寝てみたり、追いかけっこをしてみたり、楽しげだった。
 しかし、彼はあっという間に大きくなった。犬猫の比ではない。まあ、わたしが最初に思った通りで、家では飼えない大きさになってしまった。
 幸いなことに、この龍という生き物は、みなさんが思っているように概念の存在だ。触ることはできるのだが、実体はない。彼が、リビングから階段から二階の廊下にかけて長々と寝そべって寝ていても、通ることはできた。だからわたしたちはしばらく、龍の体を通過するという、奇妙な体験をしながら暮らした。

 ある晩、二階の廊下に置いてある鏡台の三面鏡が、ばたんと開いた。ねこがいたずらをしたのかと思ったが、そうではなくて、中から着物とも中華服とも言えない微妙な服を着た人が出てきた。
 男か女かもよく分からなかった。声は、耳で聞こえているはずなのに、自分の中から響いているようにも思えた。
 その人は、我が家の龍を迎えにきたのだという。稀にこうして、子どもの龍が現世に迷い込んでしまうことがあるのだそうで、大抵は、死んでしまうらしい。
 わたしたちが彼を無事に育てたことに礼を言われた。龍はその人についていくことを嫌がっていたが、その人が何か、呪文のようなものを唱えて、そうしたらおとなしくなって、連れて行かれてしまった。
 わたしだって、彼と別れたくはなかったが、わたしの気持ちや意見などは全く求められていなかったし、何か言ったところで、同じように呪文のようなものを唱えられただけだろう。

 こうしてわたしは龍と別れたのだが、それ以来、この世にいる龍が見えるようになってしまった。彼らは確かに、川の化身であることが多いようで、川の中にいることもあったし、川の上空を移動していることもあった。
 一番近くの大きな川の主は、季節によって山と海とを行き来しているようで、空にいることが多いのだが、あまりにも大きすぎて一度も顔を見たことがない。どこかで、頭の部分が通り過ぎる瞬間もあるはずなのに、いつも鱗のある胴体が見えるだけだ。
 彼らの中には、人間の姿をしてわたしに話しかけてくるものもいて、仲良くなった龍もいる。彼は雨が降るとやってきて、しばらく近況を話してくれた後、いつの間にかいなくなる。
 見かけないな、と思っていたら、何かわたしにはよくわからない理由で忙しかったことを教えにきてくれる、ということが続いていたが、そういえば、ここしばらく会っていない。


 数年前、三軒隣に、ベトナム人の実習生が住むようになった。近所の工場が戸建ての住宅を寮として手に入れたらしく、四、五人の若い男性が暮らしている。彼らはそれぞれに黒い自転車に乗っていて、駐車場にはその自転車が並んで停められている。
 わたしが仕事から帰ってくると、彼らのうちの誰かが、自転車で出かけようとしていたり、家の前で電話をかけていたりして、いつも陽気な音楽が風呂場から聞こえてきていた。

 ある日、いつものように通り過ぎようとしていたとき、その中の一人に呼び止められた。全員違う人だということは分かるのだが、それがそれぞれ誰なのかは分からない。表札に名前が並んでいるが、どれも読めない。
 なぜ、ベトナム人だと知っているのかといえば、非常にお行儀の悪いことに、わたしはその表札をスマホで撮影して、名前を検索にかけたからだ。そういうことをするのはよくない。よくないが、好奇心に負けた。ここで世界中のベトナム人のみなさんにお詫びしておく。
 ただ、ベトナムの方に悪意もなければ親近感もない。異文化交流をしたいとも思わないし、それをいうなら、生身の人間と交流をするのは甚だしく苦手だ。

 だからわたしは、声をかけられた気がするが、気のせいだと思って、ベトナム家の前を通り過ぎた。ところが、声はわたしを追って、というか、直前までは何か分からない言語(ベトナム語だろうけど)だったのが、

「スミマセン」

と確実にこちらを呼び止めにかかっている日本語に変わった。
 仕方なく、わたしは振り返った。彼は、小柄で東南アジア出身らしい、浅黒い肌と日本人より濃いめの顔立ちをしていた。ちなみに、うちの姉は、浅黒い肌と日本人より濃いめの顔立ちのせいで、しょっちゅう、東南アジア出身者と間違われてきたらしい。きっと、それで話しかけられたのだろうが、わたしは姉とは似ても似つかない、純粋な日本人(の見た目)だ。

「スミマセン、あなた、■■■、ミエテマス、デスね」

 わたしは、首を傾げた。
 なぜなら、ここは「はい」と答える場面ではないからだ。わたしはどの人間との会話も「はい」で終了させてしまえる特技を持っているが、残念ながらそうはならなかった。そんな訳のわからないものが見えてますです、と認めるわけにはいかない。しかし、何か分からないのだから、「いいえ」というのもおかしい。反対に「いいえ」と言ってしまったら、見えてますですことを認めてしまうことになるかもしれないからだ。
 こういうときは、どちらともつかない顔をしているのに限る。

「アノ、■■■デス、」

 彼は、興奮気味に話し出したが、それに続いた言葉は全て知らない言語で、ますます持ってわけが分からない。
 そのことに、彼も気がついたらしく、頭を掻きむしって、自分のスマホを出してきた。何かを打ち込んで、画面をスワイプした後、頷きながらわたしに見せてきた。

「リュウ、ミエルデス」

 画面にはもちろんわたしたち、あの大陸に伝承の記憶を持つものたちに共通する、龍が表示されていた。
 ちなみに、わたしは地理が壊滅的に苦手なため、ベトナムがどこにあるのかよく分からない。東南アジアというと、全部が島国だと思っていたのに、違うということがわかって、混乱した。混乱したままに混沌としている。
 分かるのは台湾までだ。そしてそれは東南アジアではない。

「あなた、リュウ、タスケタ、わたしの、ムラ」

 これも「はい」という文脈ではないので、わたしは黙っていた。確かに龍は助けた記憶がある。前半部分は「はい」だ。この場合は「は」と言えばいいだろうか。

「リュウ、わたしチノ、」

 彼はまた、意味のわからないことを言いながら、スマホをすごい勢いでスワイプしまくった。さすが若者だ。今度は別の写真が表示されて、わたしは

「なんでやねん」

と思わず突っ込んでしまった。画面に表示されていたのは、まごうことなきわたしが拾った龍だった。
 そんなの、分かるわけないとお思いだろうか。だが、短い間とはいえ、あれだけ一緒にいた龍だ。家族も同然だから、見間違えるわけがない。何より、あれ以来、何頭もの龍を見てきたが、彼らはそれぞれ見た目が違っていた。わたしの勝手な統計によれば、動植物と同じように、血縁なのか土地の影響なのか、住んでいる場所によって色や形や顔の造りに傾向がある。
 そう、ずっと不思議だったのだ、うちの子はどこの龍だったのかしらと。だって、この辺りの人たちには似ていなかったから。
 だが、わたしが突っ込みたかったのはそこではない。なんで写真に撮れるんだ。目に見えないんだから、撮れないだろう。

「ミエマスデスね」

 彼は、やっぱり、だか、よかった、だか、そんなニュアンスのことを嬉しそうに言った。

「わたし、■■■にキイタ、ココと、ヨウナバショのハナシ、▲▲▲▲▲デ、キイタ、■■■アッテル」

 感極まる様子で彼は興奮していたが、わたしは冷静に彼のよくわからない日本語を分析してみた。正直、ねこの方が何を言っているのか分かる気がする。むしろ、言葉は放棄してくれた方がありがたいのだが、懸命に日本語を喋ろうとするあまり、ますます理解し難い。
 理解し難い上に、言っている内容が理解し難い。
 つまり、あの龍は彼の故郷に住んでいて、彼はあの龍となぜか交流できる上で、彼が今住んでいる場所と、龍が子どものころに住んでいた場所がちょうど一緒で、そしてついに、わたしを見つけたのだろう。
 ちょっとどうしてそうなったのかは分からない。ベトナム人はみんな龍が見えるのか、彼はちょっと特殊な人種で、そのせいで龍が見えるのか、そんな人がなんだって、ここに働きにきて、だってそれだと龍が見える人率が高すぎるではないか。
 うちの家の建売の区画は「ハッピータウン」という。ハッピータウンの住人に二人も龍が見えていいものだろうか。それとも、本当は、このくらいの確率で龍が見えるものなのか。その割には、人々が龍について話している場面は少ない。

 彼はそれから、わたしの写真を撮ってもいいか、と尋ねてきた。龍に見せるためだという。全くわけが分からなかったし、人と深く関わりたくはないし、面倒くさいことになりたくなかったが、彼はとても喜んでいる。
 わたしは人情を大事にしている。そうは見えないかもしれないが、情は大事だ。だから、結局は「はい」と言った。
 「はい」と言ったが、話は終わらず、彼はこれを今度帰ったら、■■■に見せるのだと、■■■との楽しい思い出をひとしきり話して、途中で電話が鳴ってそれでようやくわたしは解放された。


 わたしがこの話を今まで書いてこなかった理由もわかるだろう。いつもにも増して前置きと説明が長くなってしまった。実際にはこれが起きた日、それは去年の、ようやく涼しくなってきたころだったのだが、それでも家に帰って興奮して、これを記事にまとめようとしてみた。
 が、何をどこからどう説明していいものかわからず、その上、書き出してみたら完全に嘘っぽくなってしまった。あまりに荒唐無稽で信じてもらえそうにない。

 そこから、しばらくわたしはこのことを忘れていた。
 今書いているのは、つい先月、再び彼に呼び止められたからだ。どうやら彼は、わたしが帰るのを毎日、今かいまかと待っていたようで、とはいえ、こちらも勝手な時間に帰っているし、そんなこと完全に忘れていたから、呼び止められてもなんのことだか思い出せなかった。
 というよりも、わたしの特技のうちのもう一つ「人の顔を覚えられない」を存分に発揮して、話しかけられても相手が誰だか分からなかった。
 しかし、彼はめげずに、またスマホをスワイプしてわたしに見せてくれる。その仕草で、あの龍の、とわたしは思い出した。

 彼が見せてくれたのは、動画だった。知らないベトナム人のようなものが写っている。前にわたしが見た、鏡から出てきた人や、仲良しの龍が着ているような、なんとも言えない古風な格好をしていて、東南アジア風の顔立ちをしていた。そして、男だか女だかよく分からなかった。
 ああ、これがあの子か、とわたしはすぐに理解した。人になることができるようになったのだろう。それか、この彼と仲良くするうちに、人になってみたいと思ったのかもしれない。
 声は、やはりどこか不思議な響きを帯びていたものの、屈託のない表情には、龍という神秘さよりも、あの、初めてわたしと追いかけっこをしたときのような、かわいらしい幼さがあった。
 食い入るようにわたしが動画を見ているものだから、彼は喜んで、何か言っていたが、喜びすぎて母国語だったので、なんと言ったかさっぱりわからない。
 ついでに言えば、龍の方も、それがベトナム語なのか龍語なのか、何を言っているのかさっぱりわからなかった。


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#エイプリルフール


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