ステルス 1
このお話は
なんのはなしなのか、作者もよくわかりません。
何をやらせてもダメなコハルが、人を助けたいという気持ちだけで奮闘するお話です。
負けるなコハル!
短い電子音と共に、右目の前にコードが表示された。コハルは何度か瞬きを繰り返し、目録を確認する。
(sA-1004-……0059……じゃない、008……2……el……エレ……えればん?)
単語が読めず、彼女は途中で諦めた。目録に書かれたコードは同じに見える。念のため、三度同じことを繰り返した。
「……よし」
彼女は顔を上げ、首を後ろに反らせた。白い天井は淡く光を放っている。その眩しさに、慌ててきつく目を閉じた。先ほどから感じていた頭痛がひどくなる。こめかみの辺りが脈に合わせて鋭く痛んだ。
息をついて目を開くと、視界の隅で端末が何かを受信したのが見えた。音が鳴るのを待って、応答する。
『業務終了の時間ですが。報告をお忘れではありませんか』
怒鳴られることを覚悟していたコハルは、耳に届く冷たい声に身を竦ませた。慌てて左手首の端末を見る。咄嗟には分からないが、少なくとも午後七時を回っているようだった。
「……はい、」
すみません、と続けようとして言葉を呑み込んだ。えっと、と言っても駄目、口ごもってもいけない。
「タダイマ! 只今、戻ります」
それに対する相手の返事はなく、通信が切れた。コハルは急いで乗っていた脚立から降りる。体を動かすと、ますます頭が痛んだ。
保管庫を後にした彼女は、エッグを乗り継いで上官のボックスに辿り着いた。ドアの前で左手をかざす。甲高い警報音が鳴った。
〈通行が許可されていないか、不正なIDです。管理者にお問い合わ〉
コハルは音声を遮って再び左手を出した。相手も同じことを繰り返す。彼女が途方に暮れる前に、それが途切れドアが開いた。
入れ、と低い声が響く。しかし、コハルは躊躇った。入り口を塞ぐように、白い繭が吊り下がっていたからだ。
彼女はこの奇妙な物体が苦手だった。
大きさは人の頭ほど。純白のか細い糸がより合わさって、縦長でそら豆のような形をしている。
皆は平気でぶつかっているが、そんな勇気はない。弾けて中から小さな虫が吹き出すことがあるからだ。
虫は全身が何とも言えない茶色で、長い胴体をくねらせながら飛ぶ。陰を好むようで、物の隙間を見つけると、その独特の動きと共に滑り込むのだ。
コハルは腰を落とし、横歩きで繭の脇を通る。
通過する寸前に、閉まり始めたドアが肩にぶつかって、危うく繭に触れるところだった。心臓が跳ね上がったのに合わせて、頭痛がひどくなり、彼女はこめかみを押さえた。
「部屋に入ることもまともにできないのか」
正面の大きな机に座った橋谷が、苦々しい口調で言った。横の机では、槇がデスクトップ端末を操作している。
彼女は慌てて姿勢を正すと、頭を下げた。
「……本」
「槇が連絡をしてから、何分経った」
「……さ」
「三十七分だ。業務終了は六時だろうが。今は八時だぞ」
確かに、橋谷の背後には夜景が広がっていた。高い位置にある彼のボックスは見晴らしがいい。遠く太平洋の沖で、七色の淡い光が漂っているのまで見える。
「聞いているのか。さっさと報告をしろ」
コハルは、我に返って端末から記録媒体を抜き出した。彼女の様子を見ていた橋谷が、眉を顰める。
「どうした。頭でも痛むのか」
「……い、え、はい」
「ろくに働きもせず、具合だけは一人前に悪いのか。まさか、下層で流行っている病気じゃないだろうな」
「……目が、疲れただけ、です」
「ほう。頭痛がするほど働かせた覚えはないが。その上、何だこれは」
記録を再生した橋谷が声を荒げた。
「一体、お前は何が目的でここに入った?
馬鹿もいい加減にしろ。棚の資料を目録と確認するだけだろうが。
それを、何だお前は。
一日掛かって、時間まで過ぎた上で棚の一つも確認できないのか!」
彼は一気にまくし立てると、大きくため息をついた。まあいい、と椅子の背に身を預ける。コハルに向かって追い立てるように右手を振った。
「帰れ。明日が査定だったな。再就職の口でも探して来い」
彼女は黙って頭を下げると、ドアに向かった。コハルがまだボックスから出る前に、背後で槇の声がした。
「課長、そこは上官として励ますところでは」
「落ちるなら、それが一番いいだろう」
橋谷が鼻で笑う。槇の冷たい笑いもそれに重なった。
コハルは慎重に繭を避けながら、通路に出た。
自分がいけないのだと分かっていても、彼らの笑いは心に辛く刺さった。頑張ってるのに、と言っても彼らは認めてくれないだろう。
我慢していたつもりだったが、彼女の口からは小さなため息が零れた。
「白岡さん、お疲れさま」
背後で聞き慣れた柔らかな男の声がした。振り返ると長身の男が、個人用のエッグの前で手招きをしていた。
「松葉さん」
コハルが頭を下げると、彼はいつものように笑みを浮かべて頷く。松葉はエッグを示し、コハルに乗るよう勧めていた。
上層の、中でもエリートが多い組織にあって、彼は将来を嘱望された幹部候補だった。家柄、能力共に申し分なく、周りから一目置かれている。
さらに、西洋の血を濃く引いた容貌は、周りの目を惹く。
そんな彼は、何をするにも足りないところだらけのコハルを、ずっと気に掛けてくれていた。
「新人は、明日が半年の査定だね。どう、自信のほどは」
エッグに乗り込むと、彼は気安くそうたずねる。
コハルは、松葉の長い指がエッグの操作盤を滑るのを見ながら曖昧に笑った。あるわけがない。
「橋谷は厳しいからなあ」
彼は苦笑した。ふと真面目な顔になって彼女を見つめる。
「パスしたら、人事に掛け合ってあげようか。
ずっとあいつの下じゃ、厳しいだろ。俺のところへ来られるよう、手配しておくよ」
コハルは驚いて目を瞠った。そこまでしてもらっては、居心地が悪い。
「……い、いえ……わたし、大丈夫です。頑張れます。
課長が厳しいのは……わたしが言われたこと、できないからですし」
「そう? 無理しなくってもいいんだよ。仕事なんて、重く考えない方がいい。
女の子なんだから」
「……いえ、あの……わたし、人の役に立ちたいんです。それで、ここに入ったんです。
だから、どこにいても、誰かの力になれるよう、努力したいんです。どんな小さなことでも、皆のためになるって、思うんです」
懸命に自分の気持ちを言葉にすると、松葉は優しく頷いた。
「そっか……白岡さんは、いい子だね」
「……いえ、その……」
コハルが俯くと、彼の大きな手が頭に軽く乗せられた。
「ほら、着いたよ」
エッグが止まり、ドアが開く。外を見ると、コハルが借りている小さなボックスの前だった。保管庫より遠いはずだが、ほんの数分しか掛かっていない。
彼女がぐずぐずしている間に、松葉はさっとエッグを出てコハルに手を差し伸べる。
「……あ、ありがとうございます」
「どちらにしても、まずは明日、頑張ってね」
コハルが降りると、松葉は彼女の肩を叩いて笑った。
彼が身を翻してエッグに乗り込むのを、コハルはぼうっと見つめた。彼は軽く手を振る。
彼女がそれに応えようと手をあげる前にドアが閉まり、彼の乗ったエッグはあっという間に専用通路の奥に消えた。
コハルは仕方なく誰もいない通路に向かって手を振った。
何もかもがもどかしい。
自然と下がっていく視線の先に、楕円形をしたケースが落ちていた。大きさは、コハルの手のひらに乗るほど。松葉が落として行ったのだろうか。
コハルは屈んでそれを拾った。
小さい割に重みがある。前に訓練で使用した銃の弾もこんなケースに入っていた。コハルには所持が許されていないが、松葉なら持っていてもおかしくはない。
次に会ったときに聞いてみよう、と彼女は制服のポケットにしまった。
* * *
「……あ、あのう、」
コハルは割り振られた席で、手を挙げた。
一斉に冷たい視線が集まって彼女は首を竦める。不備があれば申し出ろ、と言ったくせに、担当の若い男は渋い顔をした。
「……こ、これ、名前が違っています」
朝から三科目、同じことが起きていた。
席に座るたび、別人の名前が出るのだ。最初は見間違いかと思ったが、さすがにコハルでも自分の名前くらいは読める。今回も同じ『白尾カオル』になっていた。
彼は舌打ちをしながら、手元の端末を操作した。待たされたことで、室内の雰囲気は刺々しいものになる。
「あいつか……白岡って」
「寄生虫のくせにな」
小さな声だったが、それは試験の開始を待つ数十人の耳にしっかり届いた。つられて笑う声や、わざとらしく窘める言葉も聞こえる。
「気にしちゃ、駄目だよ」
横から笑いを含んだ声がした。コハルが顔を向けると、浅黒い顔の青年が、面白そうにざわつく皆を見回していた。
「皆、自分が落ちるんじゃないかって、不安なんだよ」
「シュウ、何でそいつを庇うんだよ?」
彼の向こうから声が掛かる。彼はコハルを真っ直ぐ見たまま、口の端を持ち上げた。
「僕はもちろん、パスするけど、白岡さんは落ちるって決まっているんだから。
どっちつかずの不安な気持ちは、分からないだろうと思ってさ」
「……っ、わたし、」
「静かに。白岡さん。表示を確認しなさい」
くすりと彼が笑ったのが聞こえた。コハルは頬が熱くなるのを感じた。
「白岡さん、聞こえていますか?」
「……は、はい、直っていま」
「他の方は、何もありませんね」
当然だという空気が流れた。それがすぐにぴりっと引き締まる。
「では、始め」
コハルは他の皆と同じように、真剣な顔で目の前の画面に向かった。横から再び小さな笑いが聞こえたが、聞こえない振りをする。
能力の低さは分かっている。役に立たないお荷物なことも。だが、負けたくなかった。どんなに周りにバカにされても、できる限りのことをする。
気合だけは充分だったが、彼女にとっては、表示された問題を読むだけでも一苦労だ。コハルが二問目に取り組んでいたとき、隣の彼がすっと立ち上がった。
「終了しました。退室します」
彼は張りのある声で宣言すると、僅かにコハルの後ろで足を止めた。小さな含み笑いが聞こえて、立ち去る足音がする。
その後は、彼に倣うように退室者が相次いだ。まだ試験時間はたっぷりあるのだが、残された方は焦る。室内は切迫した異様な雰囲気に包まれた。
コハルも、ようやく三問目に画面をスクロールする。
彼女の集中を削ぐように、目の前に小さな錆色の粉が漂ってきた。コハルが避ける間もなく、粉はするりと画面の中に吸い込まれる。
その途端、バシュッと弾けた音が響き、画面が真っ暗になった。
(えっ……?)
波及するように、同じ音が周りの机からも聞こえる。残っていた者たちが驚いた声を上げた。
「表示が、」
天井の明かりが一斉に落ちる。ブウン、と妙な音を立てて空調が止まった。
皆が動きを止めたのが分かった。
コハルが生まれてから二十年弱、ツリーの下層であっても電力の供給が停止したことなどない。彼女たちにとって、理解しがたい緊急事態だった。
ちゃんと続きます
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