見出し画像

天平宝字X Day in近江国 3 近江国者宇宙有名之地也 (近江国庁跡)

小雨が降ったり止んだりの中、京阪石場駅まで歩いて行く途中
「😲」
どうしたのコシキーさん?
「アレじゃない?、ほら前に鴟尾が乗った屋根が見えるでしょ?」
おお確かに鴟尾だねえ。
「しかしただいまの建物と見えるのう?」
そうだねぇええとね、ちょっと待ってGoogleマップで…あ、あれは琵琶湖文化館、だね〜。うーん時間的に寄るのはちょっとな…、あっでもここ、打出の浜だわね。汀まで行ってみましょう。

道綱母が舟に乗った打出浜、唐崎では無いけれど「ささなみ」だ。

楽浪ささなみや 志賀の唐崎や 
御稲みしねく おみなの良ささや 
それもも かれもがな 
愛子いとこに 真愛子まいとこにせむや

「ねーねー大津宮は行かないの?」
うっ、それを言ってくれるなよ…日程と体力的に厳しそうなので今回はね…
「そうか〜」
「😅」
「まぁまた来れば良かろ」
うん、そうします…。

このをみな、をかしきことあらむとて、夜な夜な電子の江へと出でてさまよふ。さなることなど、なにかべちのことにあらずとも、そのこころにをかしと思ほゆることなどしるしたるものなり。誰か知るらん魚の楽しからずや、ただ知れるは猫の楽しみのみ。

石場から昨日も行った唐橋前駅まで、京阪電車でコトンコトンと戻りそこからGoogleマップを頼りにてくてく歩く。雨は降ったり止んだりから「小雨」になり、持って来た傘をさす。
北から行けばいいのか南から行けばいいのかわからんな、取り敢えず今南側に居るのでこのまま向かってしまえ。
途中、建部大社さんに行き当ったのでお参りして、参道に掲示されている添田一平さんの一連のヤマトタケル伝説の美麗なイラストレーションを堪能。

美しいなあ

藤氏家伝の武智麻呂伝には和銅五年(712年)六月に藤原武智麻呂さんの近江国守任官の記述に続いて、近江国がどんな国かが書かれています。
近江国者、宇宙有名之地也、
(近江国は、天の下に名のある地なり)
地広人衆、国富家給、
(地広く人集まり、国は富んで家足りる)
東交不破、北接鶴鹿、南通山背、至此京邑、
(東を不破に交え、北を敦賀に接し、南は山背に通じ、この京に至る)
水海清而広、山木繁而長、
(湖は清くして広く、山の木繁ること長し)
其壊黒櫨、其田上々、
(土はハゼノキの実の様に黒く、良田となり)
雖有水旱之災、 曽無不穫之恤、
(水旱の災いあれど、恵み得ずことかつて無し)
故昔聖主賢臣、遷都此地、
(故に昔の聖君と賢臣は、この地に京を遷し)
郷童墅老、共称旡為、携手巡行、遊歌大路、
(民は老いも若きも、共に無為を称え、手を携えて大路を歌い歩いた)
時人威曰、
(任官された時 武智麻呂は威を正して言った)
太平之代、此公私往来之道、東西二陸之喉也、
(太平の世、公私に人が往来するこの道は、東西の陸路の喉である)
其治急、則奸偽而連竄、
(治むるに急げば、奸計や欺瞞に繋がり)
其治緩、則嫚侮而侵凌公、
(治むるに緩めば、おおやけが侮られ侵略される)
導之以徳、斉之以礼。
(徳を以て導き、礼を以て斉そう)

豊かに富む国、森林資源と産鉄、水陸交通の要衝、物資の集積地、大国で殷賑の地です(2度目)。
そして不比等さんの係累に繋がる者にとっては、父祖が仕えたおおきみが都を移した地。
太師が近江国守になったのは続日本紀で見る限り天平17年(745年)。この時代、外官の任期はまだ4年だったのですが、続日本紀には太師の任官後、争乱の翌年までの約20年間、近江国守の任官記録はありません。顕官となっても国守を兼ね続け、晩年には国内に朝廷から贈与された私領(田や封戸だけでなく鉄鉱山等も)を所有していたようです。
この近江国庁は太師が近江国守であった8世紀中葉にこの場所に造営されています。今までのところ下層には遺構は見つかっていないそうで、ここ以前に近江国府があったとしたら、それは別の場所に置かれていたのかもしれません。文字通り太師が造らせた国府。

琵琶湖に接続する高橋川の流れが90度にカーブする辺りでハッとする。あれ?この感じ、前にもあったな?と思いつつ静かな住宅街を歩き、とある角を曲がって、そこはそれまで同様の住宅街と見えるのですが「あ」と立ち止まる。
国府域だ、ここ。何がとは言えないのですが直感のような何かが足裏から駆け上ってくる。
そのまま歩いていると、民家よりかなり高い場所に開けた草地が見えてきて…

 基壇は板で装飾されていたのだそうです。彩色はされていたのかしら?

高い。広い。
森閑と小雨の降る中、見渡すと、基壇と柱穴の復元以外にも、あっちにもこっちにも遺構保護の盛り土があります。

築地塀の遺構表示
周辺との高低差がわかるでしょうか
 大規模な造成があったのですね、都城のように。

近江国府の調査は私が生まれた頃に始まりました。60年以上前のこと。律令時代の地方官衙の実態が初めて判明した調査です。
官衙の多くが瓦積み基壇の礎石建物であり、その基壇は木製の外装があったこと、瓦葺きであったこと、その瓦が飛雲文だったことが特徴的。政庁正殿が瓦葺きというのは多くあるようですが、他の建造物も瓦葺きというのはとても珍しい。
長年の調査の積み重ねにより、国府域外にも国府関連と考えられる多くの遺構が見つかっています。つけたり寺院と思われる寺院跡(瀬田廃寺)もそうですね。
また、国府域から南に400m程の場所にも瓦葺きの官衙が想定できそうな遺構(青江遺跡)や関に準じそうな遺構(中路遺跡)、駅家が想定できそうな遺構(堂ノ上遺跡)、南東500m程の場所には瓦葺きの大型倉庫群と見られる遺構(惣山遺跡)が見つかっています。

国府域の南端に国庁があるのも特徴的

ヘッダ画像にもしましたが、国庁跡に掲示されていた国府周辺で見つかっている他の遺構との位置関係図を眺めていると、それらの場所が、当時の勢多橋から東へ一直線上に点在しているのがよくわかります。まるで道があったみたい…。
「道だよ?」
え?。
「何を言うておる、東山道やまのみちじゃ東山道やまのみち。こなた何をしにここへ来たのじゃ?、憶えておるかの?」
「😅」
あああ、そうかそうかそうだわね、そうでした、国府域から約400m、唐尺の大尺(距離の測量基準)で一里、まさにそうよね。
つまりそこを東山道が通っていたわけです。
東山道最初の駅家である勢多駅を過ぎて北へ向かい、この近江国府を抜けて、篠原駅家へ向かえば東山道やまのみちの不破関へ、岡田駅家に向かえば東海道うみつみちの鈴鹿関へ。
近江国は大国で殷賑の地(3度目)で東西二陸之喉。
「逢坂関から北陸道くぬがのみちにも通じているしね」
山背やましろから丹波へ出れば背面道そともみち(山陰道)じゃの」
「😄」
北陸道くぬがのみちに出なくても湖東を愛発関まで行く陸路もあったようだし、そうでなくても湖上を塩津まで行けば…。そうか、三関への道は近江国に集約されてたんだね。
太師が、と言うか「藤原氏が深く関ってきた・独自に勢力基盤を持っていた」とは近江国についてよく言われる事ですが、それは結果的な話で、地方政治を束ねる中央集権政府にとって近江国が重要性の高い場所だったのです。
白村江戦役後の近江大津宮への遷都や、その更に後の壬申の乱の経緯も近江国の地理的な重要性の高さの証明。そしてそれは軍事的にも同様だった。
近江大津宮遷都と壬申の乱を体験していた不比等さんや、近江国守として任官した武智麻呂さんにはその実感があり、任期も長かった太師に独自の勢力基盤は、そりゃまあ自然に出来上がっては居たのでしょう。中央から派遣される外官と在地官人の間でも饗応はあったようです(賄賂とは違います)。勢多橋を渡れなかった太師が高島郡に向かい、前任の少領の邸宅で一夜を過ごしたというのもそういうことなのかも。高島には鉄鉱山を所有していたようです。

往時の近江国庁の姿を想像すると浮かび上がって来る「都城」感。
地形的に東山道で国府へ向かう道は当時もかなりの登りだったでしょう。国府外の官衙も、東山道から見えたであろう倉庫群も、見上げる国庁も飛雲文の瓦葺き。
逆に、近江国がそういう場所で、太師が近江国に向かうと予測していたからこそ、阿倍さんは事を起こしたら迅速に対処したのだろうな…。
そう、天平宝字の乱とは阿倍さん側が起こしたのです、ここ重要。
続日本紀では阿倍さんが璽と駅鈴を回収した記述のすぐ後に、太師とその家族の氏姓官位の剥奪・財産の没収と、三関を固関させた事が記されています。この固関を主目的に、伊多智さん達は遣わされたのではないかな?。そして土地勘の有る山城国守・日下部子麻呂さんが田原道の先駆けを務めて燃え上がる勢多橋を背に不破関か鈴鹿関へ向かったのかな?、この後、子麻呂さんの名前は乱後の報奨の記事まで出てきません。伊多智さんは同道していた授刀衛舎人の物部広成さんを愛発関へ残して越前国府へ向かったのかな?。
阿部さん側は素早い初動で迅速に的確に太師の行動を阻み、その後も着実に追い詰めて行きます。
おそらくはこの時点で先発させた騎兵だけでなく、徒歩かちの兵力も準備させて後を追わせていたのでしょう。続日本紀に三尾崎での最後の攻防で蔵下麻呂さんの率いる援軍が到着したとあります。
阿倍さんによって続々と新たに任じられる政治首班の筆頭は永手さん、真備さん。太師に反逆の企みありと密告した大津大浦さん、中宮院での攻防の功績で道嶋嶋足さんと坂上苅田麻呂さん、軍事訓練徴発の改竄を上奏した高丘比良麻呂さんの名前も見えます。
翌日、太師が太政官印を持って平城京を出奔した事が判明すると、太師は賞金首扱い。北陸道諸国には太政官印の押された文書に従うなと勅が出ます。
勢多橋を焼いた後、越前国府へ向かった伊多智さんは国守(太師の八男・辛加知さん)を討っています。近江国府に入れなければ次は越前国府を目指すだろうと予測されていたのですね。ここでも阿倍さん側は先手を取っています。
勢多橋を渡れなかった太師一行はそうとは知らず北陸道くぬがのみちを北上します。続日本紀には高嶋の少領の邸で夜を過ごしたとあります、同行者に女性も居たから駅家は使わなかったのでしょうか。おそらくそこで塩焼王さんを「今帝」に擁立し、真先さん(次男)朝狩さん(四男)を三品(通常は親王の位階)に叙位します。その旨の太政官符も出したのでしょう。
太師に目論見があったとしたら、この塩焼王擁立と子息の親王準拠の叙位をね、近江国庁で行って、国府の駅鈴を使って周辺国から兵力を徴発する太政官符を出すつもりだったのではないかなー?と想像しちゃう訳です。続日本紀では太師の一存で出した太政官符に固関の指示があったと非難されています。いずれにしても今上とは別の天皇を擁立したらもう後戻りはできません。政権奪取か逆賊として討たれるか二つにひとつ。
大炊王さんの兄弟が複数同道していても塩焼王さんなのねえ、とは思っちゃいますが、何と言っても塩焼王さんは不破内親王の夫なので、まぁそういうもんだったのかな。

数年前、仁藤先生が一般書で藤原仲麻呂論を出しておいでで、これが実に面白い(と言うと変ですが)、私にとっては胸のすくような内容でスカッとしました。先行研究を踏まえながら、これまでの奈良時代総論や藤原氏論や仲麻呂論が抜け出せなかったアンナコトやコンナコトが取っ払われて、今だからこその視点で仲麻呂さんが論じられています。現行で最新の藤原仲麻呂論の決定版だと思います。時代背景として簡潔に纏められた白村江・壬申の乱以降〜奈良時代総論も必読版。このご本の事を書き出すととてつもなく長くなると気付いたので機会があれば別にエントリーしたいと思います。

仁藤先生が鋭く指摘されているように、この時の行為(叙位)に、太師が一線を逸脱してしまった事を強く感じます。
太師の軍事訓練の徴発とその人数の改竄が果たしてクーデターの準備だったのかどうかは今となっては分かりませんが、この時太師に同道した大炊王さんの兄弟は事前に兵力を用意していたともされているので、さてどうだったのか…。
それにしても、続日本紀にはこの争乱の記述に全く大炊王さんの名前が出て来ません。
この時点で今上として扱われなくなっています。
実際には中宮院で監視付きの軟禁状態だったろうとは思いますが、全く触れられていない事が寧ろ雄弁。

雨の中写真撮りながらうろうろし、あれこれ夢想しながらガイダンス施設の中に座り込んでいたら外を下校途中の小学生が通り過ぎて行きました。史跡公園内なので近道したのかな?。生活道路になってる感にふふっとなりながら、大人になっても近道に通ったこの場所のことを覚えていてくれると良いなとちょっと思ったり。
身体が冷えてきたと感じ始めたので、名残惜しいけど退散するか、この後雨足強くなるらしいし。
天気のためかうら寂しい心地で、来た側とは反対方向に調査域を出て琵琶湖方面へ。
このまま歩いて宿まで戻るか、と国道1号線に出て瀬田川大橋を歩いて渡る。
厚い雲に覆われた空から降る雨が琵琶湖の湖面に次々と輪を描いています。なぜか突然哀しくなって…

歩き疲れた…。近江国庁跡から宿へ戻る途中、今日は瀬田川大橋を渡ったのだけど、その途中で突然何かが込み上げてきて泣きそうになった。いやなんで泣けるん?せめて明日にしなよと小雨の琵琶湖を眺めながら歩いた。

賀茂史女/かものふひとのむすめ (@k-h-musume.bsky.social) 2025-10-31T08:18:16.996Z

宿に戻り熱めのシャワーを浴びて、明日乗る予定のJRの運行状況を見てみたらば、

宵のうちから湖西線は強風で一部区間運休、というニュースを見てハッとした。 強風が吹くんだ、この季節。 そうか、西には比叡の山々があり、湖の向こうは伊吹と鈴鹿山系、そりゃ吹くよね…

賀茂史女/かものふひとのむすめ (@k-h-musume.bsky.social) 2025-10-31T22:18:59.012Z

その風はどちらから吹いていたのか(後で調べたら東風だったらしい)。
1261年前の秋にも東からの強風が吹いたのだろうか。
明日行くつもりの勝野の鬼江にも風が吹いているだろうか。

大変長くなりましたので今回はここまで。


いいなと思ったら応援しよう!