天平宝字X Day in近江国 5 番外編2 尾張国で弥生の装い (あいち朝日遺跡ミュージアム)
天平宝字の乱とはまっったく関係ないのですが、絶妙なタイミングであいち朝日遺跡ミュージアムさんで開催中の企画展「弥生ファッション~紡ぐ、織る、染める」の関連講演会がある。しかもそれが東村純子先生の「弥生時代の麻の糸づくりと布織り」と知っては寄り道せずには居られない。
オンラインで受講を申込み、聴講可否のメールが来る前から行く気満々で日程に組み込んでいたという図太さ(聴講可のメールが来たのは出かける数日前)。
このをみな、をかしきことあらむとて、夜な夜な電子の江へと出でてさまよふ。さなることなど、なにかべちのことにあらずとも、そのこころにをかしと思ほゆることなどしるしたるものなり。誰か知るらん魚の楽しからずや、ただ知れるは猫の楽しみのみ。

日曜日の名古屋駅の混雑にウヘェとなりつつコインロッカーを探すも駅構内最寄りのロッカーは既に空いていない。他にもあったよな、どこだっけ?とWebで探すもそちらも空いていない。エエ、前もっとあった気がするのに…。もう良いや、持って行こう、大した距離でも無いし、と在来線で枇杷島へ。
半年しか経ってないのに城北線ってどうやって切符買うんだっけ?と、券売機の前でむむむむむ…と悩む(画面右下の城北線乗車券販売画面に切り替えるアイコンに気付けない高齢者)。
今年のはじめにお邪魔したときのエントリはこちら。
ミュージアムさんのコインロッカーに荷物を入れて、さて。
何処に行っても何度目でも常設は楽しく興味深い。今回も隅から隅まで見る。今回もまた骨角器の前で足が止まる。繊細な装飾が施された弓弭、簪、栓状耳飾り、ええと、この動物の犬歯を思わせる形のは…首飾りを構成していたのか、下げ飾りとして使われていたものか…。
企画展は一言で言うと、うわ〜、こんなにあれもこれも一堂に見られるってスゴイ!、でした。
紡績や縫製に関わるものは、土の中で残りにくい木製品や骨角器、しかも概ね小さかったり細かったり。
布自体や縫い針は言うに及ばずですが、紡錘車の軸も細い。
「たまたま」遺跡のある一帯の地下水位が高かったり、後代の土地利用が水田だったりした為に大量の水分に保護されて良好な状態で発見される、という僥倖に恵まれなければ消えてしまっていたかもしれない遺物達が、あちらで一つ、こちらでは二つ、あっちでもまた一つ、と、いろいろな地域で見つかり、各自治体の埋文施設に収蔵されているのですが、それらが借り出されて類例として並べられ解説・展示されています。企画展のご苦労を思って感動…。
東村先生のお話にもありましたが、昭和12年の京大による唐古・鍵遺跡調査での、発見当時は何に使われていたのか判明せず、なんとか形を残そうと石膏型を取り、その形が残っていたので近年に使用用途を推測することができた布送り具の石膏模型は80年前からの贈り物。
登呂や平城宮跡は地下水位や土地の後代利用の恩恵に預かった場所ですが、全国各地の遺構で「偶然」の条件が重なって良好な状態で見つかった紡績に関わる遺物がずらりと並んでいます。
現代では水分をPEGに置き換える保存方法が有名ですね。
また、実測図と呼ばれる図面以外に現代では三次元計測によるデータ化も進んでいます。
えーっと、それで、写真はたくさん撮ったのですが、今回の企画展は借り出されたものが多かったようなのでここには上げません、会期は2025年10月18日(土)から12月14日(日)までと長いです。ぜひとも脚を運んで実物をご覧になってみて下さい。
東村先生のお話は、弥生期の紡績と布織りの中でも植物性繊維の物について。動物性繊維とは違う所で手が係る植物性繊維。原料となる植物を集め、繊維を取り出し、糸を績み、布に織る工程、色が留まりにくい植物性繊維の染色、縫製、その担い手は…というところまで、広範囲に渡り、発掘史や研究史、実験考古学、日本も含めアジア諸国の伝統産業に残る「織り」の技術や工程とその道具、遺物に残る布目の痕跡からの類推、古代の服飾などなど、「実像」が想定できるような充実したお話でした。具体的な工程を知ると、当時の糸や布の貴重さを実感できます。
実際に使われていた出土物を見てこういうお話を伺える機会はとても貴重な体験だと、その都度感じます。幸せ〜。
5年前に開催された愛知県埋蔵文化財センターさんのYAYOI・モダンデザイン展には伺うことが出来ず、哀しい思いをしていたのですが、こちらの装束もようやく実物を拝見できました。
2020年秋の愛知県陶磁美術館企画展YAYOI・モダンデザイン展を覚えておられますか?
— 愛知県埋蔵文化財センター (@aichi_maibun) February 27, 2024
その際、コロナ禍のために実現できなかった幻の企画「弥生王族の衣装を着よう」が、あいち朝日遺跡ミュージアムで3月2日に開催される『体験!弥生ムラ』で復活します。
受付は当日会場にて。https://t.co/dxa9bkfFWg pic.twitter.com/l7jCAATkww
すっかり満足しきって尾張星の宮駅から枇杷島駅へ。
城北線のホームに思いのほか人が多く、あら、流石は日曜日だね?と思っていたら、ホームに居らした男性とふと目が合い、今私が降りてきた電車を指さして「おわりほしのみや?」と尋ねられる。あ、日本の方じゃないのか。大きく頷いて「はい、行きます。一つ目の駅が尾張星の宮です」と答えると「これ?」と聞き返される。「そうです」と答えると笑顔の「ありがとう」。
…清洲城にでも行かれたのかな?。楽しんできてくださいね〜、と思いつつリュック背負ってスポーツショルダー抱えて城北線のホームから東海道本線のホームへ向かう。
それにしても。
こんなに荷物持ってても旅行者とは見えないらしいのは私の旅スタイルのせいか?(苦笑)
ということでファッションついでに自分の遠出スタイルの話でも。年齢的にも嗜好的にも見た目より機能・着心地優先で定番になっている三種の神器があります。
ミズノ スクラブインナー
実は仕事着でもあり、オンでもオフでも日々着ている第二の表皮。薄手で適度に着圧がかかるストレッチ素材の七分袖、腋窩リンパ節郭清しているので着圧ありがたや。吸汗速乾さらさらの肌触り、暑ければ涼しく寒ければ暖かい万能選手。夏はVネック、冬はローネック、何を着るにしてもまず着るのはコレ。
プーマ CORE HERITAGEパンツ(春夏モデル)
適度なテンションがあり、肌触り良く履き心地が楽、3wayストレッチで動作が引っかからない、トレーニングパンツと言うよりカーゴ風ストレート、大きなポケット。言う事無し。
秋冬モノは裏がやや起毛だったりで暖かいけれど動作の抵抗と感じるので冬でも春夏モデルを履いてます。
アシックス ペダラ(ローファーモデル)
10年ほど前に、それまで何代も履いてきたニューバランスのレザースリッポンが廃盤になってしまい、他に良いシューズが無いか探しまくってようやく見つけた日々共に歩く足の友(当時はおおよそ8時間立ちっぱなし歩きっぱなしだったので疲れにくい靴は死活問題だった)。
脱ぎ履きに手を要さず、疲れにくく歩きやすい。ヒールローファータイプもフラットソールもどちらも歩きやすいですが、遠出の時はフラットソールばかり履いていて既に三代目。欲を言えばもう少し重量があっても…(とても軽量)
こうして見るとスポーツブランドばっかりだな。
「いつも同じ格好だよね〜」
朝服オンリーのキミたちに言われたくな〜い。
「儂らも休日は朝服は着ておらなんだぞい、汚しても困るしのう」
え、そうなの?、そういうモノ?
「そうだよ、朝服大事なんだから登庁する時しか着ないよ〜」
「😄」
そう言えば家財ごと朝服を盗まれた官人の被害届が正倉院文書にあったわね…
大初衣下は少初位のひとつ上の位。盗まれた朝服は麻と書かれてますね。色は浅縹色だったのかな?。下から上に昇格するのにも何年も掛かった時代なので、少初位下から官人としてのキャリアを始めていたとしたら順当であっても12年位はお勤めしていたのかしら。
位階毎に着ける仕事はだいたい決まっていた(官位相当)し、勤務先は二官八省内に限らず高等官や親王の家政官も含まれるので当たり外れみたいなのはあったんだろうなあ。
入ってきた東海道本線上りの普通列車に乗るとまぁまぁ空いており難なく座れました。この普通は岡崎行きか。殆どの乗客が次の名古屋駅で降りて行き、車内は閑散としています。名古屋駅での停車時間中に朝の混雑光景が頭を過ぎり、時間を見て「いっか、このまま岡崎迄行って、豊橋行きに乗り換えて、豊橋からまた上りの在来線に乗ろう」という気になり。
岡崎に着いたらすぐ目の前に豊橋行きの快速が止まっており、空いてるなあ?と思いつつ、その時はそれ以上疑問も感じず乗り込み、豊橋に着く直前の車内アナウンスが長く、あれ?運行状況の案内っぽいぞ?と思ったのですが折しも豊川の鉄橋を渡っていた時で全く聞き取れず。
頭上に大量の「?」を浮かべながら豊橋駅で降りて駅の構内アナウンスでようやく、この先の一部区間の終日運行見合わせを知る。
ありゃま。在来線では上れないってことか。
あー…うーん…だがここは豊橋、新幹線も止まるよね、と新幹線改札の方を振り向いたら改札手前の券売機には列が出来ている。
今日もまたスマートEXを起動してみると一覧の時点で直近の上りは普通指定もグリーンも空席無し。ハハァ…なるほど。S Work指定で入り直すと、うん、空きがある、ポチッとして改札通過。
こだまなのに普通もグリーンも全滅っぽかったので最初からS Workで取ったのは正解だったみたいだな💧。こんなに埋まってるS Work車両初めてだわ。
— 賀茂史女/かものふひとのむすめ (@k-h-musume.bsky.social) 2025-11-02T08:43:44.177Z
そうか〜、足留め三度目か…とやっと気付く。二度あることは三度ありました。
普段が平日早めの時間帯ということもあるのか、大勢乗ってるS Work車両を見て、こういうこともあるのね、と思いつつ帰宅。
当たりだな〜、持ってたな〜、今回の遠出、何だったんだ?。
「行く手を阻まれる気持ちがわかったんじゃない?」
ええ、そこ?。
「誰ぞこなたに呪詛でも掛けたかのう?」
呪詛とか。こんなもんで済まないじゃない、事故にあった訳でもなくて良かったぐらいじゃない?。
「😅」
「上つ方もみなさまがそんな程度に考えてくれてたらよかったのにな〜」
そう言えば太師は占いや瑞兆は重要視する人だったけど、呪詛云々やそれで誣告とかは無い人だったわね。
「敬鬼神而遠之じゃの」
「😆」
そうよね、そういう感じ。
「呪うこと自体は別に特別なことじゃなかったんだよ〜。誰もが折にふれてすることだし。着るものの色や身に付けるものにもそういう意味合いのものは多かったよ」
そうだよね…、うん、それはそうだ。
四子も氷高さんの御代に瑞兆を効果的に使っています。この時代、瑞兆を重視していたのは、統治者の正当性の表象であると同時に、社会不安への対処の意味もありました。瑞兆があれば大赦や恩赦があり、改元されることもありました。それで群臣から白丁まで含む実務官人と庶人の空気が変わる。現代でも改元で空気が変わるのは同じかも知れません。
大宝律令と比べると忘れられがちですが、養老律令の実施は757年、天平勝宝九歳四月。阿倍さんの御代。
大宝律令の施行から試行錯誤しながらの半世紀が過ぎ、加筆修正された新律令の施行は太師の功績。大炊王が践祚した後、律令格式と維城典訓を読む者を史生以上に任じるとされたのも官吏に求められた規範を引き上げ、より良いまつりごとをと考えられたからでしょう。
それでも年月が過ぎると人は変わる。
太師に長年重用されて来た大津大浦さんや高丘比良麻呂さんが太師を告発した理由、これは続日本紀の表現が「恐禍及己」「懼禍及己」、禍が己に及ぶのを恐れて、と現代語訳されるのだけど、「巻き添えを食らうのが嫌で」程度に読めちゃうかも?。私の目には、長く身近に居た二人からすると太師が臣下として逸脱しつつある事が強く感じられたのかな、ってね、思っちゃうのですけどね…。
その現れが土壇場での、臣下なのに「今帝擁立」や親王準拠の「三品叙位」だったのでしょうけれども、ことここに至っても太師自身が皇位に着く想定は無かったという証明でもあるだろうし。
どこまでも(自らが作り出した)藤原恵美=キングメーカーを貫いたようにも見えたり。
争乱の後、太師が生前に新設したり改革した制度や政策は、一部は元に戻されてしまいました。ですが多くはそのまま用いられ続け(中には一旦廃止された後、再度用いられるようになったものも)、弘仁格式を経て延喜式にも残され、基本法典であった養老律令と共に長い長い平安時代を通じてまつりごとの拠り所となり、混乱の中世を経て形骸化しながらも江戸時代まで継承されました。
つい近代まで藤原仲麻呂と言えば朝敵、未だに藤原氏と言えば「皇位争いの黒幕」「藤原氏の陰謀」「藤原氏内の派閥による権力闘争」というような言葉がキーワードのように見られるのは残念なことです。
「太師の四郎君が多賀城を立派に改修させたのは、太師が造らせた近江国庁を見ていたからなんだろうね」
うん、そう感じるよね。玉石敷きの前庭を持つ瓦葺きの政庁や、瓦葺きで装飾楼のある築地塀や飛雲文の瓦はそういうことなんだろうね。それで東山道の始まりと終着点は奇しくも唐風の豪壮な建築になった、のね。
ただね…。
朝狩さんが修造させた多賀城Ⅱ期政庁(伊治呰麻呂の乱の混乱で焼失)に特徴的な築地塀の楼や政庁前の玉石敷き前庭は近江国庁にも見られます。
近年、多賀城跡の調査が進んだ事もあり、近江国庁との類似について再検討もされていて、朝狩さんにより増設された桃生城との共通点も想定できるようです。
そして再調査により、Ⅱ期多賀城の改修は朝狩さんの前任者 佐伯全成さんが着手したのであろうという指摘があるのだそうです。
これを知ったときには鳥肌が立ちました。全成さんの自死について続日本紀は多くを語りませんが、京での獄死では無かった可能性が高いことは読み取れます。朝狩さんの陸奥国守任官日から、朝狩さん自身が陸奥国へ下向し、全成さんに罪状を言い渡したのだとしたら。
多賀城碑の背景に見えてくるものはまるで違って来ます。
気がつけば昨年の多賀城を振り出しに、一度白村江戦役まで遡って太師の時代まで降ってきた感があるなあ…。
「近江国府は保良宮と併せて北京とするつもりだったのかもしらんのう」
「😄」
うん、それは行ってみて強くそう思ったな、内郭だけで三重と言うことは衛禁律を意識してそうだしね…。でもさ、そうなると「あの」時期に大炊王さんが小治田岡本宮(雷丘付近)に行幸したっていうのは何だったのか…。
保良宮への遷都の前段階として、平城宮大極殿解体移設までの候補地としても、難波宮なら大極殿もあったのに、難波宮では無く小治田岡本宮…うーん…。
新たな宿題を見つけちゃった気がするぞ…。
「大炊のみかどには大炊のみかどの考えがあったんじゃないのかな〜」
えっ?それはどういうこと?。
「こなたも大炊のみかどが太師の思惑通り動く傀儡であったとは思っておらんじゃろう?」
そりゃもちろん…って、うーん、それは紛れもなく新しい宿題だわね…。よくよく考えてみます。
今回は史跡や遺構は近江国府跡だけだったな。次はこの流れで淡路に行きたいんだけど、いつ行けるんだろう💦春までお預け?かな?。
今回どれも長くなってしまった遠出のnote。まだ頭の中が沸き立っている感があります。
阿倍さんの後継者選定の難航についての新たな知見も併せて、いつか整理したい所。
