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北へ 4

2024年春のお出かけ記。東北の古代城柵、私が興味を持ち始めた30年ほど前にはまだ、その多くは史書に名前が残されているだけで、位置までは特定できていませんでしたが、近年の開発に伴う遺構の発見や調査の積み重ねで、今ではかなりの城柵が比定できるようになりました。その中でも史書に残された大きな騒乱の発端が起きた城柵が「伊治城」です。
現状では地上部には何もありません。でも今回の旅では志波城と並ぶ重要ポイント。一関から栗原市へ。

このをみな、をかしきことあらむとて、夜な夜な電子の江へと出でてさまよふ。さなることなど、なにかべちのことにあらずとも、そのこころにをかしと思ほゆることなどしるしたるものなり。誰か知るらん魚の楽しからずや、ただ知れるは猫の楽しみのみ。

調査は終わっていて、保存されることは決まっているのですが、整備活用についてはどうなるのでしょう(私は無理に地上部に何か作らなくても良いと思う派)。
因みにこういった試みもされているようです。

伊治城跡から入の沢遺跡の方向へてくてく歩く
入の沢遺跡のある丘の隣の高所に登ってみました。高台に仏様のいらっしゃるお堂がありました

入の沢遺跡も幸い保存が決まって、バイパスのルートが変更される事にはなったのですが、どのように保存活用していくかは栗原市と宮城県で検討中のようです。
何がどう特異なのか、素人なりに考えてみると
①宮城県北端内陸部の4世紀後半の土屋根竪穴式建物群である。
 古墳じゃなくて集落遺跡、東北の集落遺跡って珍しいの?(古墳より集落遺跡が好きな私)
②高台の頂きに在り、周囲を板塀で囲み、塀の外側を大溝で囲む防御性の高い構造の建物群である。
 高知性集落?防御性集落?外敵が存在してた?。弥生時代っぽいけど、この辺だと続縄紋文化とかじゃないの?耕地は無かったのかな?
③遺構からこの場所が使われた期間が短いと判明している。
 あっそれは重要だ!存続期間が短いとわかることが多いんですよね?
④複数の竪穴式建物は火災により焼失し、建物群全体が遺棄されたと考えられる。
 焼失家屋!炭化しているから遺物の状態が良いんでしたよね?。
⑤焼失竪穴式建物の一つから、銅鏡、鉄製品、石製装飾品など、古墳の副葬品に見られる物が集中して見つかった。
 えっ?なにそれ?どういうこと?え?え?

4世紀後半は大型古墳が造られるようになる時代です。
畿内では、少し前に話題になった盾形銅鏡や鉄製蛇行剣が副葬されるような大型の古墳が造られていました。
何かとヤマト政権の影響の指標にされるのが前方後円墳。
畿内から遠く離れた東北でも、日本海側なら山形県、太平洋側なら福島県では、畿内勢力との強い関係性を象徴している(と、考えられている)前方後円墳が造られていました。
墳丘の形状だけで、この地域の勢力はヤマト政権とつながりがあったとか無かったとか表現されがちですが、大型古墳は墳丘の形状だけでなく副葬品にも特徴があります。
大まかに言ってしまうと、この時期に前方後円墳を造るほど畿内勢力と強い関係を持っていた東国勢力は山形や福島までと考えられていたのですが、入の沢遺跡は岩手県との県境に近い宮城県北部の内陸の丘陵地の高台の「建物群」。
周辺には続縄文文化を示す遺跡が分布している中で、防御性の高い建物群が高地に孤立するように存在していたわけです。
その建物群の中で、意図的に焼かれたと考えられる5棟の竪穴建物の一つから、畿内勢力との関係性が深い同時期の大型古墳が副葬品としていた銅鏡、鉄製品、石製装身具、各種土師器類、などが出土したのです。
その焼失竪穴式建物からは、赤色塗料、米、一つだけですが桃の核、人骨の可能性が高い動物性の骨が見つかっています。
かつてこの場所で何があったのかはわかりません。
周辺との軋轢があったかどうかももちろんわかりません。
焼失建物も様々なケースが考えられるので、意図的な火災=争いとは限らないのです。
私もついつい一口に「集落」と言ってしまうので気を付けないとですが、「家族・親族を基盤にした集団」の「生活の場」だけが集落とは限らないですよね。或いは土木技術者集団の「現場」「資材置き場」、祭祀用宝物の「保管庫」的な場所の可能性だってあるわけです。

一つだけ確かだろうと思うことは、このあと入の沢遺跡(周辺の遺跡群との対比等も含めて)から判明してくることは「この地域のその時代の文化や慣習の移り変わりの姿」だろう、ということです。
それは視点をうんとロングにすると、日本列島の本州内でどのように文化や慣習が伝播していったのか、それによって勢力図はどのように書き換えられていったのか、の一部でもあるのかな?とも思ったり。

入の沢遺跡の保存活用決定までの間、なんだかずいぶん気が揉めていたのですが、ちょうどその頃、歴史系か考古系の一般誌に松木先生がこの遺跡の特異性、重要性、保存の必要性についてコラムを書かれていたのを憶えています。
この「東北地上部には何もない旅」から帰って数カ月後に松木先生の訃報を聞いてショックで打ちのめされてしまったのですが、その時、この遺跡の事を改めて思いました。

美しい空、水を湛えた川面を渡る風、枝を交わすように立ち並ぶ木々、ノスリが鳴き猪の足跡が残るその場所は、特異性の高い重要な遺構であり、史跡指定を受けて守られるのは喜ばしく、呑気な旅行者にはどうかこのままで、と思いたくなるばかりでしたが、同時にこの場所で「生活」する方々の利便性を損ねませんように、とも。
と言うのも、両史跡からくりこま高原駅までてくてく歩いている時に総合病院を見かけたのです。おそらくは地域の中核病院で、2次救急を担うような規模と見えました。バイパス工事も付近の渋滞解消の為とタクシーの運転手さんが仰ってましたので、両立する方向が模索されると良いなぁと願わずにはいられません。

くりこま高原駅から本日の宿を取った仙台へ移動。明日はいよいよ多賀城跡だ!。

仙台駅でペデストリアンデッキに感動するおこちゃま状態に。うわーかっこいー、綺麗ー。

この日は快晴の中、これまででも特に長い距離を歩いたのでヘトヘトでした。さっさと寝て明日に備えるぜ!

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