見出し画像

「シン・これフェミ」について(参加してないけど)

先日、「シン・これフェミ」という表面上はフェミニズムと反フェミニズムの対談討論会が行われたそうです。私は参加してないのです(のでTogetterやnoteなどでまとめられている情報から書いています)が、ここで対談した二人がフェミニズム・反フェミニズム両者を語るうえで欠かせない人物であるため、あえて私も述べることにします。

やはり討論会の内容も「フェミニズムと表現・表象」の問題に多くが割かれたようで、マスキュリズム的に見ると、冒頭の両者のプレゼンによって高橋氏のフェミニズムに関するスタンスが見えてきた程度しか収穫がありませんでした。また青識氏を若い反フェミの代表とするには強い疑問を抱かざるを得なくなりました。と言っても反ジェンダー保守の論客で彼ほどオピニオンリーダーたる人物がいないこともまた事実であり、自戒を込めて我々もどんどん主張しないといけないということを示しています。

青識亜論氏について

まず言っておかなければならないのは、この二人はそれぞれフェミニスト・アンチフェミニストと言うにはあまりにも異端であるということです。

そもそも反フェミニズムは、久米泰介氏のいう「ジェンダー保守派」に同調するか否かで大きく分かれます(言うまでもなくマスキュリズムは後者です)。なぜここで大きく分けなければならないのかといえば、(高橋氏のほうから指摘されていたかもしれませんが)少なくとも2000年代末期まで、フェミニズム批判とジェンダー保守主義は不可分の関係にあった(と見なされていた)からです。すなわち、ほぼすべてのフェミニズム批判は(例えば表現規制を進めるとか女性の権利しか擁護しないとかいう方向からではなく)「家族観」の解体を進め、非婚化と少子化を加速させるという方向から批判されてきたのです。この経緯は、年配者(ギリギリ青識氏の世代くらいまで)なら当たり前のことですが(逆にだからこそ反フェミニズムのリーダー論客はこぞってジェンダー保守の影響を受けているのです)、それより下の世代(今の20代前半くらい?)となると、共有されている可能性は少ないです。後述しますが、このようなスタンスの勢力に反フェミニズムの潮流を任せておくのは、大きな懸念を生じさせかねません。

じゃあ青識亜論氏はどちら側なのかといいますと、この記事などから反ジェンダー保守寄りであることは分かるのですが、我々ほどまでフェミニズムに反発しているようなスタンスではないように感じられます。もちろん彼は「表現の自由の徹底」という信念のもとに動いているだけなので当たり前といえば当たり前なのですが、本物のフェミニストとガチでやり合うだけの理論を引っ提げて来たとは思えません。実際のプレゼンでも「本当はミソジニーを批判したい」とか言っていたようですし。もちろん私も、ジェンダー保守(特にインセル)のミソジニーには問題があると思いますが、それは単にミソジニーのレベルが低すぎるということでしかなく、青識氏とは方向性が全く異なります。

高橋幸氏について

一方で高橋幸氏は、最近の(特に若い世代による)フェミニズム批判が、2000年代までにあったフェミニズム批判とは一線を画していることは理解しているようで(後述しますが彼女は「ポスト・フェミニズム」という潮流を研究している人物で、これは日本では基本的に10年代以降の動きとみなされています)、そのうえで若い世代のスタンスに最も近い論客として青識氏を認識していると考えられます。

また彼女は、現在「フェミニズム」と言われている思想の潮流を、討論会始めのプレゼンにおいて次の3つに分けたようです。

なお私は、このプレゼンで「政府のフェミニズム政策」「官製フェミニズム」と呼ばれている動きを、「政治的フェミニズム」と呼称します。これは「政治的フェミニズム」すなわち政治家の中の反フェミニズムと対比させるためのものです。

高橋氏がこのようにフェミニズムを分けたことは、私としても評価したいところです。ただ政府のフェミニズム政策と一口に言っても、家庭と社会のどちらで女性を活躍させる指向なのかで分ける必要があるとも思います。

家庭での女性活躍を指向した政策……DVや性暴力の被害者支援、仕事と生活の調和推進、女性視点の防災対策など
社会での女性活躍を指向した政策……女性社員の正規雇用化ないし管理職化推進、政治家の数の均等化など

なぜこのように分ける必要があるのかと言いますと、「政治的反フェミニズム」が賛同するか否か(これには「妥協して賛同する」という意味も含みます)に大きな違いが予想できるからです。現在でも反フェミニズム寄りの政治家は2000年代とほとんど面子が変わっていません。すなわち未だに家族の解体という視点からフェミニズムを批判しているに過ぎないと思われます。逆に言えば家族の解体に関係がないところについては、彼らも妥協を見せてしまう恐れがあるのです(というか、すでに児童ポルノ法や女性専用車両の推進などで実際に起きています)。すなわち、家族の解体以外の方面からのフェミニズム批判者を政界に確保することはマスキュリズムとしても中期的目標に据えなければならないことであると思います。まあ実際のところ、それは「第3の性からのフェミニズム批判」が先行して実現することになるとは思いますが。もちろん、選択的夫婦別姓など家庭指向でも家族の解体に関わる(と主張されている)政策はあり、家庭指向だからと言ってすべて妥協して賛同するとも考えられません。

かなり話がそれてしまいましたが、閑話休題。高橋氏は質疑応答の際に、このような発言をしていたそうです。

フェミニズムは一人一派などとも言われますが、アカデミズムを含むエリートと、在野のSJWを含む草の根の階層で、思想的断絶があることは多分事実だと思われます。

しかし、実は高橋氏も、在野に向けてこのような記事を書いています。

この記事自体は、MeToo以前の時期の英語圏SNSにあった女性たちからのフェミニズム批判を分析した(厳密に言うとその調査を行った論文を一般向けに書き直した)ものですが、その中に重要な存在がいました。

(3)ポストフェミニズム・性別役割重視(19.4%)
では、もう一つ、「母」や「妻」、「恋人」などの女性的な役割を通した自己実現を求める「性別役割重視」はどうだろうか。
「私は夫のためにクッキングするのが好き」、「仕事から帰ってきたボーイフレンドのために料理を作ることは、私らしくなくなることではない」、「私は女らしい(feminine)ファッションが好きで、女らしくありたいと思っている」、露出の多い服装で身体の一部を強調したセルフィにおいて「こういう格好をしたときに見てくれる人が必要」、「私はレイプサバイバーだが、男性を嫌っていない」、「自分の男(my man)のために私がセクシーであることを、私は愛している」などの主張が、フェミニズムが不必要な理由として展開されている。
彼女たちは、家庭生活や恋愛関係において「女性ならではの役割」や「女らしさ」を楽しみたいという主張を持っているが、このような見解がフェミニストによって批判されていると思い込んでいるがゆえに、「フェミニズム」に反対していると考えられる。
ブラジャーを燃やしたり(bra-burning)、化粧を否定したりする「フェミニスト」という古いステレオタイプなフェミニスト理解に基づいているものと考えられる。男性にエスコートされたい、「妻」や「母」として自己実現したいといった「女性としての喜び」をフェミニストが奪おうとしている、と考えていると言えばイメージしやすいかもしれない。

ここで久米泰介氏の主張と照らし合わせてみましょう。

マスキュリズムの出来た経緯とその思想と理論をもう一度、確認しておきたいが、人類社会において、古来から性役割としてジェンダーが存在してきた。これを進化上の生存適応の結果と考えようが、「パトリアキーの陰謀」と考えようが、いずれにせよ、男女に強力に負荷と制限を設けるものであった。またある部分では男女それぞれに恩恵をもたらしただろう。
これらの性役割やジェンダーを保守したいのが、伝統保守派。そして、これらの性役割の内、女性に不利益を被るものを女性差別として批判してきたのがフェミニズム。そしてそのあとに出てきたのが男性への性役割や伝統的ジェンダーで男性に不利益を被るものを男性差別として批判しているのが
マスキュリズムである。

フェミニズム以前の時代における性役割(または性役割分業)は、女性たちを抑圧するだけのものでは決してありませんでした。その時代の女性は確かに父親、夫、長男、あるいは男上司に隷属する必要があったのかもしれませんが、一方で彼らの責任においてその生命や身体を(彼ら以外の男性から)保護されていたのです。高橋氏の述べた「性別役割重視」派にはその自覚があり、それゆえにフェミニズム以前の性役割のほうがましだ、という意識があると考えられます。

元の高橋氏の論文を読んだことがあって、なんか違うんじゃないかと思った方。その理由はあとで述べます。

さらに高橋氏の記事を読み進めていくと、このように論じられています。

まとめよう。ポストフェミニストは、社会において、自分が「女性」であるという理由で不利な扱いを受けないこと(ジェンダー中立的な待遇)を当然視しており、現状それが実現されているという認識を持っている。それゆえ、フェミニズムはもはや必要ないと主張する。
社会領域でのジェンダー中立性が実現している以上、日常生活において「女であること」を意識したり、それが問題になったりするのは、家庭や恋愛、性愛といった個人的領域においてのみということになる。
そして、その個人的領域においては、「女性ならではの役割」や「女らしさ」を楽しみたいという主張を持っている。だが、このような主張内容がフェミニストによって批判されていると思い込んでいるために、フェミニズムに反対している。
以上のようにポストフェミニストたちの主張を整理することで見えてくるのは、「女らしさ」の享受と「女であることによって社会的に不利な扱いを受けないこと」を当然視するポストフェミニストの主張は、根本的には、現在フェミニズムが目指しているものと齟齬するところがないのではないか、ということだ。
例えば、フェミニズム原理に近いハッシュタグ運動#MeTooは、「女性的魅力」の発揮(例えば、女優という職業)と、セクシャルハラスメントにあわずに職業生活を全うできるような社会的環境の両方を要求したものといえる。

つまりMeTooによって、彼女らポストフェミニスト、あるいは性役割重視派がツイフェミに合流した可能性が示唆されます。

ただ、MeTooのくだり、あるいは「社会領域」「個人的領域」の区別を日本に当てはめるとすると、英語圏と違った部分が出てくるとも思います。当時の(というか、当時から)ツイフェミは「女性的魅力」など全く重視しておらず、彼女らにとって「女らしさの享受」とは「女であるがゆえに周りが立ててくれること」、すなわちレディーファースト思想のことを指していました。

しかしレディーファーストというのは、従前の「フェミニズム以前の時代の性役割」における「男の責任において女の生命や身体を保護する」という価値観を欧米的価値観あるいは社会領域に適用したものであり、実は当の欧米でさえも、当時そのような思想は下火になっていたところでした。つまり「社会領域」「個人的領域」で性役割重視派のスタンスが違うという仮説はここで(少なくとも日本においては)崩れることになるのです。ちなみにこうした動きへの批判がツイフェミの中から出てくることもありましたが、それはMeTooから2年くらい後、銀座いせよしの炎上があった時のことであり、しかもニュースにはなったもののそこまで盛り上がりませんでした。

で、「社会領域」と「個人的領域」での女性の扱いのスタンスに違いがないとするなら、彼女らは明らかにフェミニズム以前の、女がそのパートナーの男に、箱入り娘のように守られていた時代のほうがまし、と思っていることでしょう。コロナ以降の女性の自殺率増加は、生活苦に陥る女性が増えたこともさることながら、守れるような男が極めて少なくなったことにもその原因を見出せます。ざまあない。

フェミニズムは誰が簒奪するのか?

…と、高をくくってみましたけど、問題になるのはむしろこれから。

青識氏のプレゼンで、「このままだと、フェミニズムの語は簒奪される」という発言があったのだそうです。それもインセル問題に絡めての発言だったそうで、すなわちそれはジェンダー保守主義的思想により簒奪されることを示唆しているように読み取れます。

そんなはずがないと思っているフェミニズム寄りの皆さん。それでは、なぜ、新井草津町議のセクハラ告発への報復として行われたリコール投票に、女性有権者の過半数が賛成したのか、理解できますか?

その女性有権者たちに、あなた方の言う「性別役割重視派」「名誉男性」「ジェンダー保守主義的な性観念を持った女性」が多く含まれているからではないのですか?

彼女らは社会進出や地位向上をあまり訴えていません、しかし家庭内で自分の思うとおりに暮らすことを望み、男など周囲にそれを実現できるよう手立てさせる、そのためにフェミニズムが必要だと思っていると考えられます。

ましてこんな話さえ出てくるほどですよ。

まあ、政治の世界ではまだまだ「保守的な価値観でアンチフェミニズムをやっている人」は多いと思いますが、政治家が出ていないような若い世代に限るのであればこの指摘は正しいと思います。

だからこそ私は許せない。フェミニズムよりも、「フェミニズムによって社会がゆがめられた、フェミニズム以前のほうがましだった」と主張する、反フェミニズム寄りの論客のほうが。彼らの中には、「マスキュリズムはいずれフェミニズムと合流する運命にある思想だ」などと言って我々を非難する輩も多くいましたが、現実はむしろ、フェミニズムと合流する運命にあるのは彼らなのです。

【2021/3/6追記】「2000年代までのフェミニズム批判」について

これに関する明確な出典を出していなかったので、読者の方には疑問符がついていたかもしれませんが、あるフェミニスト論客が当時の状況を語る記事を発見しましたので、ここに記載しておきます。