心にうつりゆくよしなしごとを……
いずれ迎える日
今日のこの日を、今のひと時を、只々充実して生きたいと願う。
そして、その願いは叶いうることだと知った。いずれ迎える自身の死を深く意識すれば良いのだ。
かの文豪ドストエフスキーは、囚われの身となり死刑囚として刑場に送られたことがあった。彼は死を覚悟した。だが、まさに銃殺刑が執行されようとした瞬間に特赦が出たことを言い渡され、一命を取りとめた。彼はその時のことを、つまり刑場に連れ出され銃口を向けられるまでの最後の数分間、どれだけ意識が鮮明になったか、周囲の事物を見て取る集中力が増したか、密度の濃い時を過ごしたか、またそのわずかな時間が長く感じられたか、ということを後に語っている。
これは、死を明確に意識したことで、脳がその生存本能から異様なまでに活性化したのだろうと思われる。死からの逆算ができた時、脳は想像を絶する働きを発揮するのだ。
充実して生きていきたいのであれば、何年後か何十年後に訪れるであろう自らの死のことを考え、受け止めることだ。そうすれば人生に残された時間が、実感をともなって見定まる。あとは限られた時間をどう過ごすべきか、脳が自ずと考えてくれる。何をすべきか、何をなさざるべきか……。
それに従えばいいだけなのだ。
許す
他人の今のありようを許す。
過去にあった他人とのいざこざを許す。
自分の至らなさを許す。
過去に犯した自分の過ちを許す。
許すと、気持ちが穏やかになり楽になる。世界とつながった気分になれる。それが世の中を受け入れるということなのかもしれない。
だから許す。毎日毎日、一日の終わりにすべてを許して眠りにつく。有難う、と感謝の心を抱いて眠るのだ。
そうした日々の積み重ねが、良い人生の土台となるのだろう。
肌の艶、心の艶
生活に喜びや楽しみを持っている人、将来の夢や目標を持っている人、そういう人たちの肌は、血色が良くて艶がある。
肌だけではなく、醸し出す”気”にも柔らかく暖かい輝きがあり、心の艶を感じる。
そういった素敵な人たちは、怨み憎しみ、苦しみや悲しみ、といった負の感情を決して相手にしない。日々、もっと明るく心地良いものに向き合って、快適に過ごしている。
それが、人間本来の在り方なのだろう。人間、心の世話をするのが仕事。真っ当に仕事をしていれば、必ず心と肌に艶が出る。
人の情け
人の善意から、情け深い言葉を掛けてもらうことがある。
それはそれほど困っている時ではなく、誰かに慰めて欲しいと思っている時でもなかったりする。だから愚かにも、相手の配慮に何も感じず、言葉を素通りしてしまうことがよくある。
しかしそれは実にもったいないことで、自分を励まそうとしてくれている気持ちが有難い、と気づくべきなのだ。
たかが言葉に過ぎないけれど、何の見返りも求めない、無償の愛から出た言葉は、”有難い”とさえ受け取れば、必ず自分の心の力になるのだから。
人様と呼ばれるまで
我を張り業を煮やすと角が立つ。
立った角をお前が削れと我を張って、また新しく角が立つ。削れる角も削れはしない。
己の思い上がりが我を張らせる。そんな心は捨ててしまえ。
この世に受けた命はもらった命。決して自分で創ったものではない。
人様のためになれよと創られて、何故己を出さねばならぬか。
人様のためになれる喜びを、人には感じる力がある。
人様のためになれる己こそ、我にも業にも縁のない、真の強さを持つ姿。
そんな姿を世間は喜ぶ。それで初めて己自身が、人様と呼んでもらえる存在になる。
私のTime is money
お金は大事に使うこと。そうすれば少しの金額でも充分に楽しめる。少ない金額でも充実できる人は、大きな金額でも狂うことなく喜びを感じることができる。そうするとお金のことがますます好きになる。好きになるからもっと稼ぎたくなる。そして実際に稼いでしまう。稼いだものは、また大事に使って幸せになる。
時間も大切に使うこと。少しの時間でも意義あることに使って楽しむことはできる。少しの時間に喜びを感じて過ごすことのできる人は、時間の使い方が丁寧になる。そうすると自分の寿命が尽きるまでのあと何十年の間に、たくさんの時間があることを発見する。ないようであった時間を有意義に使って、またさらに幸せを噛みしめることができる。
お金も時間も、喜びや幸福を運んで来てくれる同じ効果を持っている。どちらも大事に丁寧に扱うことが幸せの秘訣だ。
王様でなくて良かった
王様でなくて良かった。偉くなくて良かった。人に頭を下げることができるから。
目上の人にはもちろんのこと、家族や友人、年下の人、もう会うことのない見ず知らずの人、いろんな人に頭を下げられる。有難うと自然に頭を下げることができる。なんて気持ちが良いのだろう。
でも偉い人は、それが卑屈で恥ずかしいことだと思ってしまう。頭を下げると自分の価値が下がってしまうと怖れている。感謝の気持ちを表すことにためらうなんて……、さぞ窮屈なことだろう。
良かった、良かった。人に頭を下げることで、心が暴れ出すのを鎮められる。良かった、良かった。
自分のことばかり
自分のことばかり考えていると、満たされない自分が見える。
人に尽くすことばかり考えていると、満ち足りてくる自分を感じる。
不思議だね。
世間をくるっと見渡すと
自分がこの世で一番辛い目に会っている、くらいに思う時がある。
そんな時には世間をくるっと見渡すと良い。
自分はまだまだ恵まれている、ということがわかるはずだ。
少し元気が出ては来ないか?
幸せを入れる箱
人は誰でも幸せを入れる箱を持っている。その箱の大きさや形は人それぞれで、皆、自分の箱に合うような幸せを探し求めている。
小さくていびつな形の箱を持っている人が、この箱に入れることのできる幸せを探すことは難しい。いろんな所を歩き回っても、なかなか見つからない。せっかく良い幸せが落ちていても、あれがダメ、これがイヤ、となって拾い上げずに終わってしまう。
細長く曲がりくねっていたり、ひょうたんのように口が小さくて中がくびれているような、変な形をした箱に合う幸せなんて、そうそうあるものではない。幸せというものは、自分の箱の形に合わないと、もう幸せでななくなってしまうのだ。
一方で、広々とした部屋くらいの大きくて形の良い箱を持っている人は、そうはならない。そういう人たちは、いろんな幸せを拾い集めることができる。朝起きて窓の外に青い空が広がっていると、「きれいだなあ。空ってどうしてこんなに青くてきれいなんだろう。今、嵐が来て大変な場所もあるのに、自分はここに住んでいて良かったなあ」と、細やかな幸せを拾い上げて箱に入れてしまう。出掛けて歩いていると、道端に咲く名もない花に気付いて、「きれいだなあ、花というのはどうしてこんなにきれいな色に咲けるんだろう。今朝はこんな所に咲いてる花を見つけることができて、ツイてるなあ」と、また小さな幸せを摘まみ上げて箱に入れてしまう。職場の同僚が、いつもの朝の挨拶を素敵な笑顔で交わしてくれたとする。「ああ気持ちの良い挨拶だな。朝から気分が良いなあ。あんな人と一緒に働けて有難いな」と、また何気ない幸せを箱に入れるこことができる。
幸せというものには不思議な性質があって、大きさや形に捉われずに受け入れてくれる人には、どんどん見つかるように姿を表してくれる。「ここだよ」、「ここにいるよ」と、光を放ちながら囁き教えてくれる。大きくて形の良い箱を持っている人には、小さな幸せがたくさん見つかるし、大きな幸せもたくさん見つかることになる。箱の中身がいっぱいになっていくと、とても幸せな気分で暮らすことができる。だから、大きくて広々とした良い形の箱を持っている人の方が、幸せになれるのだ。
ところで、どうすれば自分の箱を大きくて形の良いものにすることができるのかというと、答えはとても簡単だ。それは今言った幸せの性質に気づけば良いのだ。そして、心を込めてこう念じれば良い。「私はどんな大きさでも、どんな形でも、すべての幸せを受け入れるよ」と。その瞬間から、その人の箱は大きくて何でも入る形のものに、ちゃんと変わってくれるのだ。
目の前に広がる景色
人間の目の前に広がる景色は、一人一人違う。似たようなのもあるだろうと思うかもしれないが、そういうものはない。明らかにみんな違う景色を見て生きている。
自分にしか見えない景色。他人にはどれだけ言葉を尽くして説明しても、せいぜいごくわずか一部をわかってもらえればいい方だ。決して景色の全容を、共に眺めることなどできはしない。
でも、それでいいのだ。お互い異なる世界を持っているのが当然で、それを他人にわかってもらう必要はない。否、わかってもらおうとすることに無理があるのだ。
自分の道は自分で歩む。よくよく考え、納得して歩む。歩を進めるうちに景色は変わっていく。歩みが確かならば、その景色は素晴らしいものに変わっていく。自分にしか見えない景色を、大いに楽しみながら歩むのだ。
過去
過去は、悔やむためにあるのではない。
これからどう生きるべきか、学ぶためにあるのだ。
そのために、心の中に残り続けてくれているのである。
大人
酸いも甘いも噛分けて、漸く、やっとの想いで、ふと微笑むことができた人。それが大人ってもんだ。
その、”やっとの想いで”ってとこが、肝心なんだなあ。
漂う魂
人間の魂は、身に纏った肉体の存在を忘れ、この世をフワフワ、フワフワと漂っている。それがあまりにも頼りなく不安なことなので、何か確かなものにしがみついて安心したいと望む。
確かなものとは人によって違うのだけれど、思想、信仰、肩書、名誉、過去の功績、他人からの賞賛、財産、恋人……。
しかしたいていの場合、そのどれもが満足のいくものにならない。その結果、いつまで経っても癒されることはない。
そんなどうしようもない不安感に苛まれた時は、仕事というものを手繰り寄せ、打ち込めばいい。その仕事は、対価の得られないものであってもかまわない。誰かの役に立てるものなら、それは立派な仕事と言える。別に寝食を忘れて没頭する必要はない。日々淡々と向き合えばいい。仕事の面白さ、喜びを感じながら暮らすのだ。
そうしているうちに、不思議と不安感は薄れていく。生活の情味を味わえるようになる。万物への感謝の心が芽生えてくる。魂が、幸福という名の止まり木を見つけ、漂うことをやめるのだ。
本物の人物
自分のことしか考えない人には、魅力がない。自分を犠牲にして人の言いなりになってる人には、元気がない。
自分を大切にしながら人に尽くすことができる人こそが、本物の人物だ。溺れた人を助けることができるのは、自らの体力を充分につけ、泳ぐ訓練をした者だけなのだ。
そういう人は、いきなりこの世に現れるのではない。自分の力がつくまでの間に、まず虫を助け、次に子犬や子猫を助け、そして一人の人間を助け、次に大勢の人々を助けることができるようになっていくのだ。
本物になりたければ今から出来ることをする。小さなことから始める。徳を積むことを学ぶ。そうすると、長い長い年月を経て、知らない間に本物と言われる人になっている。
神様との約束 ”Märchen”
誰からも愛されることを約束されると、愛されることがつまらなくなる。
誰よりも美しい姿であることを約束されると、美しい心を磨くことを忘れてしまう。
大金持ちになることを約束されると、お金の有難みがわからなくなる。
他人よりも頭が良くなることを約束されると、みんがが馬鹿に見えて腹が立つ。
病気をしない、老いもしない身体でいることを約束されると、他人の痛みや苦しみがわからなくなる。
神様と約束をして与えられたものでは、人は幸せになれない。望みは毎日の暮らしの中で、人様に尽くし尽くされながら、自分で叶えていくものなのだ。
だから神様は、何もしなくても与えてあげるよ、という約束はしない。強く望んで力を尽くせば自分で叶えられるようにしておいてあげるよ、と言っているのだ。その方が、望みが叶った時の喜びが大きいんだよ、と。
自然界にマジックはない
生きていれば、いろんな事に出くわす。出くわすには、それなりの原因がある。
出くわしたくないような嫌な出来事に出会ってしまったのなら、腹を立てる前によく振り返ってみると良い。必ず、その事を呼び込んだ原因が自分にあるはずだから。
誰かとのトラブルならば、相手が良い悪いではなく、あの対応さえしなければ、或いはしてさえいれば、こんな事にはならなかったはずだという原因がある。
自然界にマジックはない。摩訶不思議なことは起こらない。事の結果には必ず原因がある。世の中は物の道理に従って進んでいるのだ。
また同じような不快な目に会いたくなければ、原因を突き止め、次からどう振舞えば良いのか学ぶのだ。学びは、何も机に向かって書物を開くことだけを言うのではない。こうした人生経験から学ぶことの方が、はるかに得るものは大きい。
そして、嫌な事を引き起こしてくれた相手に感謝するのだ。これでまたひとつ賢くなれました、と。それで学びは完結する。
人に認められないストレス
人は誰しも、他者から認められたいという承認欲求を持っている。賞賛や評価を得たいし、自分の価値に見合う対価も欲しい。
しかしたいていの場合、それらのものは充分には得られず、いつも欲求不満状態にある。人に認められないストレスを感じるのだ。
このストレスを軽減させる方法がある。それは何の見返りも求めず働く、という生き方をすることだ。仕事を「する」から「させていただく」に考え方を変える。人に認めれることを最初から求めず、職に就いて収入を得られることや、世の中の役に立てることに感謝の念を抱きながら人々に接するのだ。
そういう生き方をしていれば、もう欲求不満やストレスを感じることはない。健康な精神状態を保つことができる。だから仕事の精度も上がるだろう。その結果、不思議なことに遠ざけたはずの賞賛や評価を贈られることになる。だが、もうそこにはそんなものを受け取らなくても、人様に奉仕する喜びを知った自分がいる。
自己防衛本能
あるセミナーで教わった話。
人間の自己防衛本能はとても強い。他の動物よりも強いから、人間はこの地球上で万物の霊長と言われるまでに繫栄することができたのだ。自己防衛本能が強いとは、生命の危険を鋭く敏感に感じ取る能力が高いということだ。そして一旦危険を感じ取ったならば、己の命を守ることにのみ力を集中するということでもある。反対にこの能力が疎いと、予め避けることができたはずの危険に遭遇してしまい、命を落とすことになる。
この自己防衛本能を司っているのは、脳の奥底に位置する扁桃核という箇所である。扁桃核は脳の中でも最も原始的で単純な機能しか持たず、複雑なことは認識できない。快(好き)か不快(嫌い)かというシンプルな感情しか識別することができないのだ。扁桃核が感じ取ったものは理性的な判断を下すことなく、ストレートに全身へと発信される。自己の身体的生命維持機能を守っていく上で「危ない」とか「怖い」と感じる情報は、不快(嫌い)なものである。この不快は、扁桃核から脳の他の部位を通じて全身へ躊躇することなく発信される。「逃げろ」、「隠れろ」、「身を守れ」、「戦え」と指示されるのだ。この扁桃核の感度が高いが故、人間の自己防衛本能は優れているのである。
危険な野生動物が闊歩していた原始の時代はこれで良かった。ところが、格段に安全な社会が実現した現代においては、この人間の感度の高い扁桃核は、行き過ぎたおかしなことを引き起こしてしまう。生命の危機に関わる事柄の他に、「怒り」や「憎しみ」から「妬み」や「嫉み」、それに大したこともない単なる「めんどくさいこと」といった多くの不快(嫌い)な感情を、間違えて反応してまうのだ。
扁桃核はこれらの招かざる客たちを連れて来るだけではなく、「大変だ!大変だ!」と大声で叫びながら騒ぎ立てる。「不快な感情諸君」たちはこの騒ぎに煽られて、やはり声高に叫び出す「大変だ!大変だ!俺たちをどうしてくれるんだ!」と。
その結果、扁桃核の持ち主である人間は、彼らの騒ぎを鎮めるために全力を注ぎこまなければならなくなる。この騒動の最中には、何ひとつクリエイティブで建設的な仕事などできない。いわゆる頭の悪い状態になってしまうわけだ。
こうして不快(嫌い)な感情、負の感情は必要以上に湧き出て来てしまう。それらの感情は、そもそも扁桃核の使命である生命の危機管理とは関係がない。それなのにこれでもかと湧き出て来てしまうのは、人間の扁桃核の感度が、現代社会の環境を生きていくには敏感すぎるからだ。
生命の危機に関すること以外の多くの不快(嫌い)な感情は、相手にせず対処しなくても命に別状はない。人間の生活に必要なことは、心に浮かび上がる不快でネガティブな感情を、常に洗い流しながら生きることなのである。
好きでもない仕事に就いてしまったら
仕事というものは、誰かの役に立とうと思う奉仕の精神、尽くす気持ちというものがなければ、スムーズに捗るものではない。
ただ好きだからと言って自分のためだけにする仕事は、調子のいい時はいいのだが、時として気まぐれが出てしまい、なかなか前に進まないものだ。
また、お金をもらうためにするだけで、相手に対する思いなんかちっともなく、ただ締め切りだけが設けられている仕事というものもある。これはもう嫌で嫌でしょうがなく苦痛の種になってしまう。そんな気の乗らない仕事は、取り掛かるまでに相当のエネルギーを消耗することになる。それにそうして無理やり終えた仕事の出来は、決して良いものにはならない。気持ちが込もっていないのだから、誰も感動する人がいないのは当然だ。
人の社会に出て、充実した仕事を長くしていきたいと思うなら、多くの人に喜んでもらおうと考えること。そして喜んでもらえるだけの技量を、常に磨き続けること。そうしていれば、たとえ最初は好きでもなかった自分の仕事も、知らないうちに好きになれる。仕事とは、そういうものなのだ。
対人関係で大切なこと
対人関係において大切なことは、気の利いたことをあれこれと言うことではない。それよりも、余計なことを決して言わないということの方が肝要だ。
誰かと良好な人間関係を築きたければ、相手が快適と感じる一定の距離とバランスを保つ必要がある。この間合いが遠くては良好とは言えないし、近くなり過ぎては嫌われる。またせっかく良い関係を築いていたはずなのに、相手の意向を無視して勝手に間合いを変えてしまっては、その関係は簡単に壊れてしまう。維持できたはずのものを、こちらが余計なことをしたばっかりに維持できなくなってしまうのだ。
相手の気に入られることをたくさん言っていろんな人と良い関係を築いてきた、自分は社交家だ、と思っている自信家は要注意だ。こういうタイプの人は、つい調子に乗ってしまい相手の琴線に触れるようなことを口にして怒りを買うことがある。これは攻め込むばかりで、間合いというものをちっともわかっていないがために起こる悲劇である。
言わない。いくら親しくなったと思っても、余計なことは言わない。相手のことを大切に思って関係を維持したいのなら、親しき中にも礼儀あり、を忘れてはならない。
己の死に様を考える
現代社会では、死を考えることは何かタブーのことのように言われている。だが、日本の昔はそうではなかった。”武士道とは死ぬことと見つけたり”と言って、侍は己の死に様のことをしっかりと考えていた。
それは単に死を美化したものではなく、限りある生をより輝かせたい、という思いからだろうと思料する。いざという時には命を投げ打ってでも信念を貫く覚悟を決めて生きるのだから、彼らは決して漫然と日々を送るようなことはしていなかったはずだ。
また最も嫌うのは犬死で、無駄に命を落とすことは自分の価値を貶めることだと考えていた。それと似たような話になるかもしれないが、彼らは驚くべきことに、自分の息子たちに切腹の仕方を教えていたという。作法に沿って立派に死ぬことができなければ、死に際に恥を晒すことになるからだ。
こういった死と生、命の価値といったものを意識していたのは、何も侍だけではない。江戸っ子の町人は「宵越しの銭は持たねえ」と啖呵を切って生きていた。それは経済観念に疎いからではなく、人生は短く無常であることをよく理解し、死を身近に感じていたから言えたセリフなのだろう。日々の暮らしを精一杯楽しみ全力で生き切るんだ、という心意気がそう言わせたのだと、私は思っている。
己の死を直視することで、初めて”今”の重み、有難みを感じることができる。中身の濃い人生を生き切ることができる。死に様を決めるからこそ定まる生き様と言えようか。切腹はしないが老後のために貯蓄はしておきたいという今の世ではあるが、死を意識することは必ずしも悪いことではない。
欲の話
人間には本来、欲というものが備わっている。欲にもいろんな種類のものがあって、とてもここでは語り尽くせないが、欲は邪悪なものであり抑制すべきもの、手放すべきもの、と教える人たちがいる。無欲の境地を目指すべきだ、と。
しかし、そんなことはない。人類はより豊かで便利な暮らしをしたいという欲を持ち続けて来た。その結果、社会は進化・向上し、大昔とは比べようのない快適な生活がもたらされた。
たとえば、徳川家康は夏の暑い盛りに冷房になんか当たることはできなかった。それが今ではどうだ?日本人ならたいていの家にはエアコンがあるだろう?家電製品を開発し改良を加えてきた先人たちのお陰で、我々は家康殿よりも豊かな生活を営むことができているのだ。これも、良い暮らしがしたいという人間の欲の産物だ。
欲は行動の原動力であり、土台だ。欲の大きな人は、大きくて頑丈な土台を持っている。この上に、自分のため、家族のため、知り合いのため、皆のため、広く世の中のため、になるような建物を築き上げていく。そうすると終いには立派な城が建つことになる。
欲がない人はダメだ。土台がない。だからその上に建物を建てようたって無理だ。これをドダイ無理な話と言う。こういう人には人様のお役に立てる仕事はできない。
欲は押さえつけるものではない。上手に活用すべきものだ。自分のためだけではなく、社会のためにと働く立派な人たちは、皆、欲使いの名手なのである。
心の壁
心の壁というと、何だかネガティブなことのように思えるかもしれないが、決してそうではない。嫌な人、嫌いな人が周囲にいる場合、それも容易に離れられないような関係の場合には、しっかりとした心の壁を作っておく必要がある。心の中に確かなセーフティーゾーンを設けておくのだ。
壁は何も工事をして鉄筋コンクリートでこしらえる訳ではないので、その気になれば一瞬の内に作ることができる。「この壁の内側の聖域には、あの人たちは絶対に入れないぞ」、と決めればそれで完成するのだ。
嫌な人、嫌いな人とは壁の外に出向いて接する。挨拶をしたり、仕事上必要な話をする時がそうだ。そこで何が起こっても、何をどう言われても、そんなことは別に知ったことではない。壁の内側のセーフティーゾーン、聖域、自分の世界が平和ならばそれでいい。
だが、ここで成熟した大人なら必ずしていることがある。それは壁の外側では、いつもニコニコと感じ良く振舞うことだ。嫌な人、嫌いな人にも感じ良く対応するし、困っていれば手助けもする。それでいて見返りは何も期待しないし、受け取らない。受け取ってしまうと、それを壁の内側に持って帰らないといけないからだ。
大切なのは、壁の内側にある自分の世界を楽しむことだ。それは自分の殻に閉じこもることとは違う。なぜならば、壁の内側に招き入れるべき人とそうでない人を、ただ慎重に選別しているだけなのだから。
