「あんたは大丈夫やわ。大丈夫。」
駅の高架下にある小さな焼き鳥屋の前、足が止まる。たった一度だけ連れていってもらったお店。薄汚れた看板をぼーっと眺めていると、またその言葉がふっと胸をかすめた。
別の番組を担当していて、全く交流がなかったある先輩女性ディレクターがかけてくれたその言葉にずいぶんと救われ、なんとかここまで仕事を続けてこられた。
この仕事を始めてちょうど2年が経った頃、
別番組を担当する同期たちが少しずつディレクターに昇格していった。
簡単な台本を書く。
自分でカメラを回して撮影する。
台本通り、決まりきった編集をする。
今思えば、そこまで難しい仕事ではない。『名ばかりディレクター』の仕事だったけれど、それでも一応“ディレクター”という役職を全うできる。当時、心の底から渇望していた仕事。
自分も一刻も早くディレクターになりたかった。
順調な同期を横目に、私はディレクターのデの字も出ない日々を送っていた。毎日怒られながら、ろくに睡眠をとることもできずにAD業務を淡々と続ける日々。
会議資料の印刷、機材準備、
撮影場所を下見する『ロケハン』の補助、
先輩ディレクターの編集補助、
補助、補助、補助...
ただずっと、
誰かの何かを補助するだけで、月日が経つ。
睡眠時間を削って誰かの補助をする。
仕事だから上手くできることはあたり前。
ひとたびミスをすれば担当上司から数時間にわたりネチネチと叱責される。
その数時間で溜まっている次の仕事に手がつけられなくなり、また間に合わず怒られる。
そんな風に時が過ぎ去っていった。
それでも楽しいこともあった。
真夜中に、仲の良い先輩の編集に付き合って会社に残っているのはとてもとても楽しかった。
夜中1時、先輩の好きな夜食で出前を頼んで
全録されたバラエティ番組を見ながら「自分だったらこう編集するのになぁ!」とえらそうに寸評してみたり、
編集を後ろから見させてもらって、尺の切り方、間の取り方、ナレーションの書き方なんかをうつろうつろしながら勉強させてもらったりした。
先輩が仮眠し始めたら、機材庫から余っているカメラを持ち出してズームの練習をする。撮った素材にテロップをつけて編集してみる。
自分なりに、ディレクターになるために一生懸命だったと思う。
ディレクターになりたい。
その思いだけが、文字通りクソみたいな日常を乗り切るための糧となっていた。
ある日、いつものように深夜会社で作業をしていると別番組のプロデューサーからいきなり声をかけられた。
「明日〇〇(番組名)のロケでADが足らんからお前行ってくれへん?朝5時出発やわ。お前の番組のPには借りるって言うといたから。カメラ予約しといて。あっ、あと三脚も。寝坊したらあかんで!」
「え、いや...あの鈴木は...?」
「鈴木明日ディレクターデビューやねん。だからAD担当外したくて。よろしくー」
プロデューサーは不躾に言い、会社を出ていった。
〇〇は私の担当ではなかったが、いつも担当している同期の鈴木が別のミニ番組でディレクターデビューだったので、私がその“補助“としてADとして指名された。
ついに同期の補助まで自分に回ってきた。
「同期がディレクターになるのは、自分のように難しいバラエティ番組担当じゃないからだ」
「たかがミニ番組のディレクターなんか、頼まれてもするか」
「先輩、上司に媚び売ってたらそりゃデビュー早いよな。そんなダサいことしてまでデビューしたくない」
そうやって、自分に言い聞かせるしかなかった。
単純に実力不足。仕事への向き合い方、人への向き合い方がてんでダメ。そんなことには気づきもせず。
こうやっていつも、俺は誰かの補助なんだ。
自分に言い訳をし続けて、もともとそれほど強くない私の心は分かりやすく腐っていった。
朝5時出発なのに、その日は私は酒をやめずいつもよりも多く飲んで帰路についた。
雪がちらつく寒い日だった。
ロケ地である神戸のアウトレットモールに移動するバスの中、吐き気と眠気で身体が火照る。
なんとか寝坊はしなかった。
でも体調はもちろん最悪だ。
ディレクターは初めて一緒に仕事をする女性の先輩。
どういう人なのか知らないけれど、情報番組やドキュメントを担当していて優秀な人だと聞いていた。
バラエティ志望の自分にとっては当時なんの魅力もなく、興味が湧く先輩ではなかった。
寝不足、
二日酔い、
興味ない仕事、
同期の穴埋め、
心身ともに絶不調。
今にも車外に飛び出して冷たい空気を吸いたい。そしてそのまま逃げ出したい。
「寝トチをせずに、ちゃんと来たことを褒めてあげよう」と、
自分をとことん甘やかせながら心の中で唱えながら、乗車数分ですぐ寝落ちした。
そんな状態でロケに参加したから、動きはもちろん最悪。とにもかくにも気が利かないADだった。
出演者の飲み物は用意していない。映り込んだ一般の方への出演許諾サインを忘れる。カメラマンと音声の邪魔になるところに立っていて「お前さっきから邪魔やねん!」と怒られる。
今書いていても、とことん出来ないADだったと思う。そりゃディレクターになんかなれるはずがないよなぁと思う。
「はい、OK!一回止めますね」
「あの、すみませんお手洗い〜...」
「OKです!あんた案内してあげてくれる?」
「承知しました。こちらです」
出演者をトイレへ案内する仕事だけはなんなくこなせた。なぜなら到着後すぐに、吐きにトイレへ走ったから。気が利くわけでもなくなんでもなかった。
トイレが見える少し離れたベンチで出演者を待った。
中々出てこない。
あっ眠い。
眠い眠い。
気づいた時には、ディレクターから数十件の着信が来ていた。出演者がトイレに入って1時間半経っていた。
ロケ中に寝落ちするという前代未聞の大ミスを犯した。出演者は私のことが見当たらず、自分でロケ隊に合流し直してロケは再開したらしい。
別のフロアでロケを続けていた撮影隊に合流するも、言い訳も思いつかない。
「すみません、すみません!」と平謝りするだけで恥ずかしくて顔も上げられない。
ロケ中なのでディレクターともろくに話ができない。技術スタッフもカメラが止まるたびに呆れた顔で私を「こいつマジでポンコツやな」という目で一瞥し、あざ笑う。
そんな状態が夜まで続いた。
もう辞めよう。
今日こうなってるのは全部自分のせいだ。
何もできない自分が情けなかった。
ディレクターにもなれない。
誰にも認めてもらえない。
そして誰の助けにもなっていない。
僕はいなくてもいい存在だ。
もう全てから逃げてしまおう。
出演者、技術スタッフが談笑している帰りのロケバスの助手席で、私はバレないように許諾書の端を握りつぶしながらそう決めた。
会社に戻り、暗い機材庫の中で”最後の“機材の整理をしていた。
「なぁあんたさ今日時間ある?ご飯行かへん?」
「え?」
「いや眠いなら全然ええねんけど。笑 もし体力余ってるならでいいよ。あんたと喋ったことないからさ。」
「あっいや...行きます。すみません行きたいです」
何を思ったのか女性の先輩ディレクターがご飯に誘ってくれた。
「どうせ今日のロケの説教をされるんだろう」と思ったが、こんな優しい誘いを断ったらそれこそ本当に人として最低だと思った。
オフィスの最寄り駅の高架下にある小さな焼き鳥屋。普段仲良くしてる先輩と何度も前を通っていたが、お店の存在を気に留めたことはなかった。この女性の先輩は行きつけなんだという。
私は申し訳なさそうに生ビールを頼み、申し訳なさそうに乾杯する。
どうせ怒られるんだ。
その思いがどんどん私を猫背にする。
焼き鳥と一緒に出てきただし巻きを突きながら、ついに先輩は話し出す。
「あんたバラエティしたいんやんな?私はあんま分からへんねんけど」
怒らないのか?
「はい」
「ディレクターになりたいん?ADとかAPがいい感じなん?」
「いやディレクターです」
つい口から本音がこぼれ出る。
もう辞めようと思ってるはずなのに。
「あーそうなんや」
「はい」
「私のやってる番組はおもんない?」
「え?いや...」
「全然全然、怒らへんし単純に聞きたいだけやねん。あんたがどう思ってんのか。」
これはなんて答えるのが適切なのか?
怒らへんから正直言うてみ、からの正直言ったらブチギレパターンか?
いや、かなり笑顔で喋りかけてきている。
ほんまに本音を聞きたいパターンか?
ほんの数秒で色々考えたが、
「どうせ辞めるんだ、しかも今日ありえないミスも犯してるんだ。何言っても結果怒られるし正直に言おう」
バカな結論を導き出した。
「いや、、、んーーー、そうすね。おもろくはないすね。笑わないです。」
女性ディレクターは手を叩いて笑った。
思わぬ反応だった。
「どの辺がおもんない?」
興味津々そうに聞いてくる。
下を向いたまま、やけくそになって思い切って答えた。
「今日のロケも演者がただ台本読んでるだけじゃないですか。仮に偶発的に笑いが起こってもどうせ編集で切るでしょ。感想言った後すぐインサート入れて、ご主人のこだわり話させて、またリポーターがリアクション。これがおもろいわけないですよ。こういうことするから芸人さんがリポーターするの嫌がるしバカにされるんですよ。それに、見てる人の立場になっても『あーここ行きたいな!』って思わないですよ。演者が美味しいって言ったそのウソまみれのリアクションの後の感想を掘って欲しいし、ご主人のこだわりを聞くなら『なんでそこにこだわることになったのか』そういうご主人のニンを知りたいんですよ。ごはん食べて美味しい。メニューの説明はナレーション。これ1年目のADでもできます。そう思ってます。いつも。」
もうどうせ辞めるから。
そう思っていた自分から、鋭利でなんの配慮のないひどい言葉がどんどんこぼれでた。止まらなかった。
先輩の笑い声は聞こえない。
「あんたは大丈夫やわ。大丈夫」
想像もしない言葉が耳元を通り過ぎて、顔を上げた。
「やっぱあんたってそうやって色々考えてる子やったんやな。むやみやたらにただ『バラエティ好きです!芸人好きです!』って子なのか、そうじゃないんか知りたかってん。あんたは絶対大丈夫やわ。すぐにでも立派なディレクターになれるよ」
先輩は笑顔でそう話してくれた。
バラエティ番組のADは他に比べて仕事量が多く、僕が特にこき使われているように見えていたこと。
会社に遅くまで残って、番組を見ながら自分なりの感想を話してるのがよく聞こえていたこと。
カメラの練習や編集機を触ったりしている姿を何度も見ていたこと。
その先輩は、「あなたをずっと見ていた」
そう話してくれた。
「ディレクターなんてな時間経てば誰でもなれるから。アホでもできんねん」
「でも、どんなものを撮りたいか。どう撮りたいか。どう魅せたいか。そういうのって時間が経っても誰も教えてくれへんし、教えられへんよ。自分の中に湧いて出るものやから。あんたはその大事な根っこの部分がちゃんとあるからなんの問題もない。大丈夫」
「そうなんですかね...」
「あんた曲者で扱いにくい感じするからさー。だから仲良い先輩以外はみんな結構距離置いてるやと思うよ。そらニンが良い同期ばっかりチャンス回っていくのもしゃあないわ。それはあんたのせい。笑」
「そうなんですかね...」
同期との差に悩んでいることも当然見透かされていた。
「辞めたらあかんよ。才能あるから」
「あんたは自分の思う『これを世の中に伝えたい』と思うものだけを作っていけば良い。あんたは絶対伸びる。あんたは大丈夫やから」
初めて一緒に仕事をする後輩、
ありえないミスをした上に、こんな生意気なことを言う後輩に、彼女は何度も「大丈夫」と声をかけた。
ジョッキを持ち上げて、残っていたビールを勢いよく飲み干した。上を向かないと涙が溢れそうな気がして。
終電の音が聞こえる高架下、
「今日は寝てしまってすみませんでした!」
そう深々と頭を下げた。
「ロケ中にADに寝られるようなしょうもないロケせーへんディレクターになってなぁ〜!あたしも頑張る!」
そう言って、颯爽と自転車に乗って帰っていった。
今でも小さくなっていくその背中を思い出す。あれ以来、その先輩とは一度も仕事はしていない。数年前に会社を辞めてしまった。
仕事で壁にぶつかった時、
「あんたは大丈夫」
私はこの言葉を静かに思い出す。
なんとか作り続けられたのは、あの日彼女がかけてくれた言葉が私の足元を固めてくれているからだ。
あれからずいぶんと経った今、
作りたいものは少しずつ変化しているけれど、
「こういう思いを世の中に伝えたい」という気持ちは何ひとつ変わってはいない。
当時の彼女くらいの年齢になった今、
「あなたならきっと大丈夫」
これから歩みを始める仲間に、そう言える人間でありたいと思う。
そして、人知れず頑張っている誰かの姿を見逃さない人間でありたい。そう思う。
今何かを頑張っているあなたへ。
私が大丈夫だったように、あなたならきっと大丈夫。
