クロード・シャブロルとアルフレッド・ヒッチコック
シャブロルについてはまだ数本観ただけのビギナーなのだが、完全にはまりつつある。
シャブロルはヒッチコックの影響を強く受けていて崇拝もしていたという。ヒッチコックについての共著もあり、自身も「フランスのヒッチコック」とも呼ばれていた。
だが、こうしてシャブロルをまとめて観ていると、映画作家としての本質の二人のあまりの違いを感じずにはいられない。
作家としてのテクニックや作品自体の完成度では、やはりヒッチコックは最上級だし、シャブロルもそういう点ではヒッチコックには及ばないと認めていたようである。
だが、作品を観た後の感動や余韻の深さでは、シャブロルの方が個人的には圧倒的である。
シャブロル通の方々には、今更分かりきったことを何を力説しているのだと笑われそうだけれども、「鉄は熱い内に打て」だし、シャブロルにはまった人間が必ず一度は通る道だとも思うので、優しい微笑みと共に見守って読んでいただければと思う。
なお、シャブロル映画について主にラストシーン中心にネタバレ全開で書いてしまうので、気になる方は注意していただきたい。
最近、ヒッチコックの「めまい」についての記事を書いた。要約すると、映画形式面ではヒッチコックの代表作の名にふさわしいし、映像美に溢れた映画でもある、
だがその一方でスコティの行為には、ドン引きしたり全く感情移入できなくて、映画内容としては無条件には肯定できないし、評価するにしてもあくまで留保をつけた上でにならざるを得ないということである。
「めまい」に限らず、登場人物に善役、悪役に限らず心底共感したり感情移入できることはあまりない。また、映画が終われば完結した爽快感はあっても、深い余韻が残るというわけでもないのだ。
そういう対象に距離を置くクールさがヒッチコックの良さとも言えるけれども。
シャブロルになると全く話が違ってくる。
最近観たばかりの「肉屋」は既に繰り返し観てしまったのだが、その最たるものである。
ラストの車中での、肉屋(ジャン・ヤンヌ)のエレーヌを見やる表情と、エレーヌ(ステファーヌ・オードラン)の抑制的な表情、表現でいながらボロボロと涙を流す様子が脳裏にこびりついて離れない。
あのとんでもない殺人鬼に、心底同情してしまっている自分に驚かされる。
肉屋の戦争体験や普段のうそ偽りのない人の良さ、エレーヌにだけ見せる献身行為がきいているのだ。
エレーヌの方も、殺人手がかりのライターを隠したり単純ではない心情の機微がある。
犯罪者もその背景や人間性を正確にシャブロルは描出しきるので、勧善懲悪にならずに映画にとてつもない深みが生まれている。
映画を見終えた後に残る余韻もいつまでも消えないのである。
「不貞の女」もそうである。
シャルル(ミシェル・ブーケ)は、最後に自首するような行為を取る。その描き方にもシャブロルらしい決定不能性がある。警察が、シャブロルが犯人だとつきとめたのか、死体が発見されたのか、被害者との夫か妻との会合に目撃者がでたのか、あるいは単なる再度の聞き込みに過ぎないのかも、分からないままである。
だが、シャルルは妻のエレーヌ(ステファーヌ・オードラン)に、「愛している、激しい愛だ」とだけ告げて刑事たちの元に自分から歩みさってゆく。
その理由も観る側に自由に解釈できる余地をシャブロルは残すのだが、シャルルの発言から主要な理由として、これ以上妻のエレーヌを巻き込んで迷惑をかけたくないという強い意志を感じずにはいられない。
ここでも、やはり殺人者にすっかり同情してしまう。
普段、シャルルがエレーヌに首ったけで溺愛している様子、殺人が計画的ではなく突発的に起きてしまったことを正確に描写しているのがきいているのだ。
エレーヌも浮気が本気でなく、シャルルとともに息子を愛しきっていること、シャルルに嫌悪感は一切ないこと、ステファーヌ・オードランの存在が典型的な浮気な悪女とは程遠いことを映像で語ってくる。
ここでも犯罪行為だけではなく、その背景や人間を的確に深く捉えているので、やはり単純な勧善懲悪にはならず、彼らに対する思いが深い余韻になって観る人間の心にいつまでもこびりつく。
この両者のような明確なラストではないが、「気のいい女たち」にも似たようなことが言える。
殺人者は捕まらないまま結末を迎える。だが、殺人者を単純に断罪する描写にはなっていない。彼が自分では抑制不能な闇の部分を心の中に抱えていること、普段はむしろ善性がとりつろいではなく勝っているくらいの人間であること、なおかつ日常から抑制できない異様さもある人間であることを余すところなく描写している。
自分には抑制できないデーモンに強いられていると感じさせるのは、肉屋の男とも共通するかもしれない。
殺される女が、四人の中では一番大人しくて真面目で夢見がちな女なのも、ショックを与える。本人は最後まで男を深く疑っていない。
観る側は、描写や音楽の効果的な使い方で当初からずっと不安を感じるようにシャブロルは演出している。一方で、もしかすると本当に女を愛しているだけかもしれないという部分もはさんで、観る側の心は翻弄されっぱなしである。
だから、ずっと不安なまま見進めて、殺人場面で、私などは「やっぱりそうなのか....」と、声が出てしまって自分でも驚いたのである。我ながら随分よい客ではある。
それに輪をかけるのがあの謎めいたラスト。新たに新しい女が登場して男に誘われる。女はカメラ目線で笑顔すら見せる。
だが、ショッキングな殺しのシーンの直後なので、この女も同じ目にあうのではないだろうかと、観る側はさらに不安を増殖された状態で映画は終わる。
「肉屋」や「不貞の女」のような明確なラストではない分、観客の不安は宙づりのまま取り残される。気持ちの悪い余韻の残り方では、むしろこの映画が突出しているかもしれない。私は見終えた後に、しばし動けなかった。初期の作品だが、ある意味最も過激なのかもしれない。
そういう意味で、シャブロルはヒッチコックとは性質が違って、人間存在への独自で正確な深い視線がある作家で、それで私は夢中になりかけているのである。
個別記事で書いた「女鹿」を含めて、ステファーヌ・オードランが素晴らしい。
正直に告白すると、彼女はルイス・ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」で気になったのだが、あくまでその妖艶にひかれただけである。今考えると、あの映画でも彼女らしい演技だと思うけれども。
だが、シャブロルでのあくまで抑制的で無表情が多いにも関わらず、内面の複雑な多様性や豊かさを感じさせる演技力には参ってしまう。シャブロルでも圧倒的に美しいのだが、それ以上に彼女の独自なスタイルの演技が圧巻である。
個人的に外国人女優では、ベルイマンを中心に活躍したイングリッド・チューリンが一番好きだった。やはり、彼女も美しいのだが、どんな役にも完璧に対応する演技力にしてやられたのである。
ステファーヌ・オードランは演技のタイプが全く異なるわけだが、個人的な最上位を自分の中で争う女優に出会えた。こうして観ると歳を取ってもつまらないことだけではないのかな?
今日は更にシャブロルで新たに観た「破局」について書くつもりだったのだが、ちょっと今日取り上げた映画とはタイプが違って、なおかつすごい映画でもある。
まずは、今まで観たシャブロルのおさらいをしたくなった次第である。
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