「昔の自分はこうだったのに」という呪縛を「訂正する力」で乗り越える
年齢を重ねるにつれて、私たちは「過去の自分」と「現在の自分」のギャップに悩まされるようになる。例えば、若い頃ふさふさだった髪が薄くなってきたとき、「昔はあんなにあったのに」という過去の自分像が強く残っているほど、そのずれは自己失望となってのしかかる。この危機をどう乗り越えるか。
このときの対応策として、まず「変化に抗う」道がある。育毛剤を利用したり、クリニックに通ったりして、元の自分を取り戻し自信を回復させる道だ。うまくいけば生活の質を高めてくれるし、その道ももちろん一つのやり方であろう。
しかし「変化に抗う」というのは、自然に起きているはずの変化を「不当」とみなす発想を前提としている。そこにはどこか無理がある。「変化に抗う」以外のかたちで、この失望から解放される道はないものだろうか。
ここで哲学者・東浩紀のいう「訂正する力」がひとつのヒントになりそうだ。東によれば「訂正する力」とは、「ある事柄はずっとAだと思われていたが、実はBだった」というふうに、過去の理解を遡行的に修正し、現在の認識を組み替える能力のことである。これは外的な事実の理解にだけでなく、自分自身のあり方の理解にも適用することができるだろう。
薄毛がつらいのは、他の人との違いによるだけでなく、「若い頃ふさふさだった」という過去の自分像があるからでもあろう。でももし、「自分はふさふさの存在である」という認識を一度「訂正」し、「今はこれが自分の姿だ」と受け止めることができれば、見え方は変わってくる。つまり、自分のあり方の「デフォルト」を切り替えれば、とても楽になる。失望に陥りにくいし、帽子も育毛剤もいらなくなる。
変化を「劣化」としてだけ捉えてしまうと、自信喪失や深い失望、苦しみは避けられない。必要なのは、「過去の自分像」を訂正する力だ。ふさふさだったことを「本当の自分」として固く信じ続けるのではなく、「かつての自分の姿」として大切な思い出として受けとめながらも、それを今の自分に過度に介入させない。そして、今は今として、過去とは異なる新しい自分の姿を受け入れる。これは自己欺瞞ではなく、変化を引き受ける柔軟性である。
大事なのは、この「訂正」した自己認識を、友人など自分と関わる人たちと共有することだ。「私2.0」を自他ともに認識すれば、たとえ最初は新しい靴のようにしっくりこなくても、やがて自分にとっても他人にとっても新しい自分こそが「自分」として馴染んでいく。自分がそういうものになっていく。これで、生きることはずいぶん楽になるだろう。
「それでも薄毛はカッコ悪い、モテない、おれはやはり育毛を頑張る」という人の理屈もわかる。だが、変化した今の自分を受け入れ、過去の自分像に縛られずしなやかに生きている人は、髪に執着する人とは別種の「カッコよさ」を持っているに違いない。
ところで私はこの問題の当事者である。「訂正」にまつわる東の示唆的な議論を上述のように捉え、これを一つのきっかけとして、あるときからスキンヘッドにしてその姿を受け入れ、徐々に周囲への浸透を図っているところである。スッキリ!
(参考)ユングは、人生を「午前」と「午後」に分け、後半に入ってなお前半の価値観にとらわれると心に不調が生じると指摘し、中年期以降の価値観の見直しを説いた。これは上で述べた自己像の「訂正」と重なるだろう。
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