特権的肉体と百年の孤独
赤坂のTBS正面に突如現れた紫色のテントで「ジャガーの眼」を観劇しました。
ちょうど、ブームに乗って学生以来(20年ぶり?)に百年の孤独を読んだところで、
唐十郎と、寺山修司と、特権的肉体によって、長年もやもやしていた何かが久々にストンと腑に落ちる瞬間とか色々を見た思いだったので備忘録を残しておこと思います。とても勝手なメモです。
ネタバレにならない程度に書くと、ジャガーの眼は寺山修司が亡くなったこと機に書かれ、寺山修司のサンダル、りんご、覗き見など、さまざまな破片が登場します。
一方、百年の孤独は、いろんなことが起こるのですが、とある一族の興亡が祇園精舎よろしく(蜃気楼)のように発生して立ち消えていく物語です。
寺山修司にハマっていた学生の時分に、まず先に寺山修司が映画化した「さらば箱舟」を先に見て、ちんぷんかんぷんだったのでマルシア・ガルケスを読んで、さらに混沌の渦に陥りました。そんなことが起こるはずないリアルではないことの連続に甘たるい温室の空気が続くような、でも先を読まずにはいられない不気味さは記憶に残ったのですが、長らく忘れ去られていました。
そして今年、ほぼジャケ買いのように買って、あの時読まなかった翻訳鼓直さんの解説に「魔術的リアリズム」とあったのを見つけて、じゃあ演劇にそんな「魔術的リアリズム」はどこにあるんだろう。とぼんやり思っていたのでした。
本当に魔法を使っては魔術リアリズム。
と思った時に見たジャガーの眼。
序盤は意味を考え始めると見失う摩訶不思議な行動、言葉の応酬。
ただの平凡(に見える)青年しんいちが、ありえない人々に追われて追い詰められて幕を追うごとに得体の知れないエネルギーを放つ何者かになっていく。
冷静になればそんなことは無いと笑いそうになるのに、唐さんの言葉が真摯に肉体に宿ると物語が徐々に走り出し、何故か美しくなり、非現実的なことも引き込んでしまう。なんて楽しい!
終盤、ジャガーの眼を持ったしんいちが、くるみという女性にしがみつく立ち姿を見た時に起きた心が騒ぎ立つあのパチン!とくる瞬間。
魔術的リアリズムが可能にする手段の一つに特権的肉体がある・・・とヘレンケラーのウォーターの気分でした。
が、後日唐さんの本を読むと”劇的なイリュージョン” “非俗的で現実的な個々の役者に根ざす特権的肉体が劇的なイリュージョン”となって舞台に登場することとあって、読んでいた筈なのに体験してから出ないと見に入らない。
やっぱり自分は活字では上っ面しか読んでなくて、いつまで経っても憧れるままなんだと愕然としました。計り知れない絶望ですが、一生飢える事のできる少しの喜びもあるんだと言い聞かせてます。
余談ですが、
演出の金さんと「風の又三郎」で初めてご一緒した時、やっぱり難解でどうしたらいいのかわかっていなかったのですが、ある日の稽古中、「これはエリカが耳に恋した物語なんだ」との一言に救われて、あれ以来ずっと、どの唐作品を読む時も心にあります。
