ゼラチンの避難訓練
世の中には、見ているだけでこちらの三半規管を頼りなくさせる、妙な姿勢の人間がいる。
私の伯父がまさにそれだった。彼はいつも背中を少し丸め、首を斜め前方に突き出して歩く。まるで自分の数メートル先を転がっていく見えない小銭を、ずうっと追いかけているかのような歩き方なのだ。
「いいかい、人間というのはね、地平線を見失うと途端にまっすぐ立てなくなる生き物なんだよ」
ある雨の午後、伯父は居間で古びた文庫本の頁を繰りながら、唐突にそんなことを言い出した。
「地平線?」
「そう。僕たちの目は、無意識のうちに世界の『いちばん平らな線』を探して、それを基準に平衡感覚を保っている。ところが、こういう風に雨が降って空と地面の境目がぐずぐずになると、世界の水平が狂ってしまう。だから僕の身体は、狂った世界に合わせようとして、ちょっと傾くわけだ」
ただの猫背を、さも地球規模の天変地異のせいにしてみせるあたり、相変わらず手強い屁理屈である。
外は昨日から降り続く容赦のない大雨だった。窓の外を見やれば、いつもなら見えるはずの遠くの丘の稜線も、厚い雨雲と水蒸気の向こう側にすっかり隠蔽されている。
なるほど、今日の街には「確かな直線」が一つもない。
「じゃあ、その狂った感覚はどうやって直すの」
私が尋ねると、伯父はポケットからひどくカラフルな小さな袋を取り出した。中から出てきたのは、これまた妙に硬そうなコーラ味のグミである。
「これを、こうして奥歯の右側、いや、左側のほうがいいかな。とにかくどちらか一方に偏らせて、じっくりと噛むんだ」
伯父はグミを口に放り込み、しばらく大真面目な顔で咀嚼していた。
「ゼラチンの弾力というのは面白いものでね。噛み締めるたびに、自分の頭蓋骨のどこが歪んでいるかが振動でよく分かる。つまりこれは、失われた地平線の代わりに、自分の身体の内側に『正しい基準点』を作り出すための、いわば避難訓練のようなものさ」
私は呆れ半分で、伯父の差し出してきた袋から一粒、半透明の茶色い塊をつまみ上げた。口に入れると、およそ近頃の菓子とは思えないほどの強固な抵抗。顎を動かすたびに、自分の噛み合わせの不均等さが頭の芯に響く。
なるほど、世界がどれほど雨にふやけて輪郭を失おうとも、この小さなゼラチンの塊だけは己の硬度を頑固に主張し続けている。
「さあ、避難訓練が終わったら、ちょっとあの狂った外の世界を覗いてこようじゃないか」
伯父はそう言って、玄関に立てかけてあったビニール傘を手に取った。
その傘を見て、私は声を上げそうになった。伯父の持っている傘は骨が何本か折れているのか、開くと右側のビニールだけがだらしなくゆるみ、まるで耳を垂らした犬のような、たいそう情けない非対称の形をしていた。
「伯父さん。その傘、完全に形が歪んでる。水平どころの話じゃないよ」
「おや、本当だ。しかし、これも一種の地平線だね。僕だけの極々個人的でちょっと頼りない地平線さ」
伯父は歪んだ傘を斜めに傾け、やっぱり首を少し前に突き出した、あの妙な姿勢のまま雨の中へと歩き出していった。
私はその、世界のどこにも平行を保てていない奇妙な後ろ姿を眺めながら、口の中に残ったグミの硬い芯を、もう一度強く噛み締めた。
企画に参加させていただきました!
三題のみ使用しております。
【せりふ三題噺】【傘・グミ・地平線】
企画 : はらとけい さん
