どういう精神構造でコレを2回も見たんだ。東野幸治の深淵がこわい。普通の人間による『国宝』鑑賞記
映画『国宝』。
予備知識なしの状態で見る。正確には大雑把な筋くらいは情報が入ってしまったけど、批評の類は一切入れずに鑑賞。これ正解。
最初は「とてもよくできた日本映画」。
そのうち登場人物たちの行く末を見届けないわけにはいかない、と身を乗り出す。
特に前半、誰もが予想するベタな展開を一度なぞった上でひっくり返すメタ的な演出。「観客の予想、織り込み済みですよ」と言わんばかり。見事。
歌舞伎の血筋を持たない代役・喜久雄が、本物の息子・俊介から化粧を施されるシーンで放つ「あんたの血をガブガブ飲みたい」というぞっとするセリフ。この瞬間、この映画に「肉」が宿って本物になった。
芸の道を「悪魔との取引」として描く。センチメンタリズムを排して「人の業」を突きつける劇中の宣言。一筋縄ではいかない映画風味、増すばかり。
中盤、血のなさを芸によって叩き潰そうとする修羅の展開。一転してライバル対決のような少年漫画的構造へ移行。
この部分はジャンプで連載してもおかしくない。
これは売れるはずです。実写邦画興行収入1位、納得しました。
しかし、物語が「性的な業」や痴情のもつれなど、登場人物たちが現実に摩耗していくあたりから、こっちの美意識とズレ始める。
劇中で描かれる葛藤や自暴自棄な姿は「人間の真実」なのかもしれません。
しかし、それらがグダグダと生々しい。
自暴自棄を描くにしても、そこには一筋の美学があってほしいのです。
後半、タイムワープが連発。
緻密なライバル関係や内面の葛藤は省略気味に処理されていく。
終盤には、病気や身体の損壊と、過酷な現実の連続。
確かに「役者の道は修羅の道」というテーマではある。
舞台上での執念の限界突破を精神主義的に盛り上げる力技の演出。
『響け!ユーフォニアム』で言うなら、黄前久美子が血を吐きながらユーフォニアム演奏しているようなもんです。いや、それは違うでしょと。それは「執念を見せたからいい」ってもんじゃないですよ、舞台は。
これがもし、自身の美学と一致する展開なら、その圧倒的な演出の力技に喜んで騙されました。騙されたいですよ、フィクションなんですから。
映画としての構造、役者の演技、映像技術、どれをとっても見事。
だからこそ、終盤の展開、納得いきません。うーん・・・
本作、超一級品です。もう1回見ますか。見たくありません。
東野幸治は映画館で2回見たって。そんな人間に見えんけど。どういう精神構造で「コレ」を2回も見たんだ。恐ろしい。東野幸治の深淵がこわい。
余談だが────
東野幸治というモンスターの生育環境。
はっきり言って、「普通じゃない」。
東野幸治の「実家」のエピソードの数々──。
家の中で父親が「■■」で生活し、家族の金を使い込み、めちゃくちゃな無軌道と痴情のもつれを家庭内にまき散らし、それを幼少期の東野少年が「感情の死んだ目」で毎日当たり前の日常(物理法則)として目撃し続けてきた壮絶な原風景。
普通の人間なら、精神を病むか、トラウマを抱えてのたうち回る環境のはず。
しかし、東野少年はその実父の「人間のグダグダ」に対して、怒ることも悲しむこともせず、「人間って理屈やなくて■■■の物理法則で生きてるんやな」と、幼少期にOSとして刷り込まれてしまった「客観のレンズ」と諦念。
当方が『国宝』の後半で「自棄になるなら一筋の美学があってほしい」と拒絶した、あの人間の醜い摩耗。
東野幸治にとって、あのスクリーンのグダグダさは、美学でも芸道でもない。「自分の実家で繰り返された人間の剥き出しの業」そのものの周波数だったのではなかろうか。血の混じった泥沼に足を取られて崩壊していくあの凄惨な姿にこそ、東野幸治の脳内で何かが激しく明滅していた──。
「普通の人間」に想像できるのはこのくらいまで。
彼の深淵には届かない。
