酔っ払い、なんとか話をまとめる
重力と意識
――なぜ私は、この二つを同じ場所で考えてきたのか
私は以前から、重力と意識には何らかの関係があるのではないかと考えてきた。
もちろん、
重力=意識
と言いたいわけではない。
現在の科学で、そのような事実が確認されているわけでもない。
それでも私は、この二つを完全に別々の問題として扱うことに、どこか違和感があった。
なぜなのだろう。
最近、自分が長く考えてきた「丸」と「三角」の話を整理していて、その理由が少し見えてきたように思う。
私にとって真円とは、完全な対称性である。
どの方向にも偏りがない。
特別な一点も、特別な方向もない。
そこには差異が限りなく少ない。
一方で私は、三角を非対称性や分節の象徴として扱ってきた。
こちらとあちらが分かれる。
内と外ができる。
点と点の間に方向が生まれる。
世界が区別される。
そして私は、意識とはこの「区別」と深く関係しているのではないかと思っている。
私たちは、差異があるから認識できる。
光と闇がまったく同じなら、光を認識できない。
自分と他人の区別がなければ、「私」という認識も成立しない。
音程に差がなければ、旋律は生まれない。
つまり意識は、
非対称性を読む働き
として考えることができるのではないか。
では、重力はどうなのか。
一般相対性理論では、重力は単なる「物を引っ張る力」ではない。
物質やエネルギーによって時空の幾何学が変化し、その幾何学の中を物体が運動する。
つまり重力は、現代物理学においてすでに、
幾何学の問題
なのである。
私はここに以前から惹かれてきた。
意識について考えると、私は幾何学へ行く。
重力について考えても、物理学は幾何学へ行く。
ならば、この二つには、より深いところで共通する構造があるのではないか。
もちろん、これだけなら単なる連想である。
しかし最近、そこへ「運動」という要素が加わった。
私はこれまで、対称性と非対称性を二つの状態として考えすぎていたのかもしれない。
本当に重要なのは、
その間をどう移動するか
なのではないか。
完全な対称性へ近づく。
しかし完全には到達しない。
わずかなズレが残る。
そのズレによって、また運動が生まれる。
戻ろうとする。
またズレる。
また戻る。
そこから往復や振動が生まれる。
そして生命を見ると、驚くほど多くの往復運動がある。
心臓は収縮と拡張を繰り返す。
呼吸は吸気と呼気を繰り返す。
睡眠と覚醒も周期を持つ。
生命は熱力学的な平衡そのものではなく、外界とエネルギーや物質を交換しながら非平衡状態を維持している。
つまり生命とは、
ズレをなくすのではなく、ズレを維持しながら調整し続ける存在
とも見ることができる。
ここで私は、意識についてもう一度考える。
もし生命が非平衡状態を維持する運動だとするなら、
意識とは、その運動の中で生じる差異を認識し続ける働きなのではないか。
生命はズレ続ける。
意識は、そのズレを経験する。
すると、
生命と意識は静止した存在ではなく、対称性と非対称性の間に生じる動的な現象
として見えてくる。
そして、そのとき重力がまた気になってくる。
重力は物質を集める。
星を作る。
銀河を作る。
ブラックホールを作る。
つまり、重力は一方では物をまとめる働きを持つ。
しかし、まとめることによって構造も作る。
均一な世界を作るのではない。
むしろ濃淡を生み、局所的な構造を発達させる。
ここが私には非常に面白い。
重力は統合するように見えて、同時に差異を作る。
これは、私が丸と三角について考えてきた「真矛盾」にどこか似ている。
一つへ向かう力と、
多を生み出す力が、
同じところに存在する。
さらに、超弦理論を見ると別の形で面白いことが起こる。
超弦理論では、基本的な対象である弦は振動する。
閉じた弦には左右へ進む振動モードがあり、それらの振動スペクトルの中には、重力子として解釈される状態が現れる。
もちろん、
「振動があるから重力が生まれる」
と単純に一般化できる話ではない。
しかし、少なくとも超弦理論では、重力が基本的対象の振動と無関係ではない。
ここで私の中では、
差異
→ 往復
→ 振動
→ 幾何学
→ 重力
という連想が生まれる。
さらに振動を複素数で表現すると、そこには円運動が現れる。
オイラーの公式、

である。
複素平面上では円を回っているものが、一次元へ射影すると往復運動になる。
つまり、
回転と往復は、まったく別のものではない。
そして、回転しながら状態そのものが変化していけば、軌跡は螺旋になる。
同じ場所へ戻ってきたように見える。
しかし、本当には戻っていない。
生命もそうなのかもしれない。
眠って、起きる。
また眠って、また起きる。
しかし昨日と今日では同じ人間ではない。
呼吸も同じ。
心拍も同じ。
周期を繰り返しながら、身体そのものは変化している。
意識もまた、同じことを考えているようで、経験によって少しずつ位置を変えている。
だから私は最近、
宇宙は円運動ではなく、螺旋運動なのではないか
と考えるようになった。
完全な対称性を目指す。
しかし完全には到達しない。
差異が残る。
その差異によって、運動が続く。
そこから構造が生まれる。
生命が生まれる。
意識が生まれる。
では、重力はそのどこにあるのだろう。
私はまだ分からない。
ただ、以前より問いははっきりした。
私が知りたいのは、
「重力が意識を作るのか」
という単純な因果関係ではない。
そうではなく、
重力と意識は、対称性と非対称性の間にある、より深い幾何学的な運動を、それぞれ別の階層で表現しているのではないか。
という問いである。
重力は時空の幾何学に現れる。
意識は世界の差異を認識する。
生命は非平衡を維持する。
振動は往復する。
複素数では、それが回転として表現できる。
そして回転に不可逆な変化が加われば、螺旋になる。
これらはもちろん、同じ現象ではない。
同じだと断定する根拠もない。
しかし、
同じ数学的・幾何学的な形が、異なる階層で繰り返し現れている可能性
は考えてみてもよいのではないかと思う。
私は以前、意識と重力を直接つなぐ式を作ろうとしていた。
しかし今は、そこにはあまり興味がない。
式そのものよりも、
なぜこの二つが、同じ幾何学の中に何度も現れるように見えるのか
の方が重要である。
完全な対称性。
そこからの破れ。
戻ろうとする運動。
振動。
回転。
螺旋。
生命。
意識。
そして重力。
もしかすると、私はずっと一つの問いを、違う言葉で繰り返していただけなのかもしれない。
なぜ世界は、完全な静止へ向かいながら、完全には静止しないのか。
もし完全になってしまえば、差異は消える。
差異が消えれば、運動も認識もなくなる。
だから世界には、最後まで何かが残る。
ほんの小さなズレ。
そのズレによって世界は動き、
生命は揺れ、
意識は世界を見る。
そして重力もまた、その「世界が形を持ち続ける運動」に深く関わっているのではないか。
私は今、そんなことを考えている。
証明はない。
重力と意識の関係も、現代科学では確立されていない。
これはあくまで私の形而上学的なモデルである。
それでも私には、
重力と意識は、まったく無関係な二つの謎ではない
ように見えて仕方がない。
両方とも、
世界がただ均一に静止するのではなく、
差異を持ち、形を持ち、運動し続けること
と関係しているように見えるからである。
結局、私が言いたいことは単純なのかもしれない。
世界は完全な真円にはならない。
少しだけズレる。
戻る。
またズレる。
そして回る。
全部、グルグルしている。
重力も。
生命も。
意識も。
少なくとも今の私には、そう見えている。
ーーー
幻覚を剥がしても、まだ残るもの
――円・振動・重力・意識について
私は以前から、なぜか同じものばかり気にしている。
円。
オイラーの公式。
螺旋。
超弦理論。
重力。
ペンローズ。
そして意識。
もちろん、私は数学者でも物理学者でもない。
過去にはAIとの対話によって、これらをかなり強引に結びつけたこともある。
今読み返せば、数学的に間違っているところもあるし、物理学として飛躍しているところも多い。
AIの幻覚もかなり混ざっていたと思う。
だから、一度それらを全部剥がしてみたい。
それでも何か残るのだろうか。
最近改めて考えてみると、意外にも一つの筋だけは残った。
それは、
差異・振動・回転・幾何
という流れである。
完全な円では、何も起こらない
私は以前から、完全な対称性を「真円」として考えてきた。
真円には特別な方向がない。
どこか一部分だけを特別扱いすることもできない。
これは私にとって、差異が極限まで消えた状態の象徴である。
しかし、ここで奇妙なことが起こる。
差異がまったくなければ、
変化を認識することも難しくなる。
完全に一様な円だけがあり、基準となる点も模様もなければ、「回った」ということさえ、その円自身からは区別できない。
回転を認識するには、何らかの基準がいる。
つまり、
出来事には差異が必要である。
これは私が意識について考えてきたこととも重なる。
意識とは、世界の差異を認識する働きなのではないか。
明るい/暗い。
自分/他人。
音/沈黙。
過去/現在。
好き/嫌い。
差異があるから世界は分節される。
そして分節されるから、意味が生まれる。
差異があるから、動く
生命について考えてみても面白い。
生命は完全な平衡状態ではない。
外界と物質やエネルギーを交換しながら、非平衡な状態を維持している。
そして身体を見ると、至るところに往復運動がある。
心臓は収縮と拡張を繰り返す。
呼吸は吸気と呼気を繰り返す。
睡眠と覚醒も周期を持つ。
もちろん、これらがすべて同じ原理で生じているわけではない。
しかし少なくとも生命は、
完全に静止した均衡そのものではなく、ズレを調整し続ける動的な存在
だとは言える。
私はここで、自分が昔から螺旋に惹かれていた理由を少し理解した。
往復運動と円運動
数学には、とても美しい対応がある。
単純な周期運動は、

x(t)=A\cos(\omega t+\phi)
のように表せる。
一方、複素平面上の回転は、

e^{i\theta}=\cos\theta+i\sin\theta
と書ける。
円周上を回る点を一方向から眺めれば、その射影は往復運動になる。
つまり、
回転と振動は、数学的に深く結びついている。
これは私にとって重要だった。
私は昔からオイラーの公式に妙に惹かれていた。
理由をうまく説明できなかった。
円だから。
虚数だから。
何となく世界の根本にありそうだから。
その程度だった。
しかし今なら少し違う。
オイラーの公式には、
円運動と振動を同じ構造の中で見るための数学
が現れている。
ここまでは私の哲学ではない。
普通の数学である。
そして、円が閉じなかったら
完全な周期運動なら、点は元の場所へ帰ってくる。
一周して、

e^{i2\pi}=1
となる。
しかし、もし一周している間にも、系そのものが少しずつ変化していたらどうなるだろう。
同じように回っている。
しかし、完全には同じ場所へ戻らない。
すると円は閉じなくなる。
それを幾何学的に表現すれば、螺旋という形が自然に現れる。
私は以前、
「真円を無限に目指す螺旋」
という表現を使った。
当時はほとんど直感だった。
しかし今は、以前より少し意味が分かる。
生命もまた、周期を繰り返しながら同じ場所には戻らない。
今日眠り、明日起きる。
また眠り、また起きる。
しかし昨日の自分と今日の自分は完全には同じではない。
同じように回りながら、少しずつ進む。
そう考えると、螺旋は生命や意識を考えるための面白い幾何になる。
もちろん、生命が文字通り一つの螺旋方程式に従っているという意味ではない。
あくまで構造の比喩である。
なぜ私は超弦理論を気にしていたのか
そして、ここから少し物理へ行く。
私は以前から超弦理論が気になっていた。
正直、数学的に理解しているわけではない。
ただ、「振動する弦から世界を記述する」という発想に妙に惹かれていた。
ここにも、過去の私はかなり無理な意味づけをしていた。
開いた弦を「1」、閉じた弦を「π」と対応させたりした。
もちろん、そんな対応は物理学にはない。
しかし、その比喩を捨てても興味深い事実は残る。
閉弦には左右へ伝播する振動モードがあり、その量子化されたスペクトルには、重力子として解釈される質量ゼロのスピン2状態が現れる。
つまり少なくとも弦理論では、
振動と重力は無関係ではない。
ただし、
「振動すれば重力が生まれる」
という意味ではない。
そこまで一般化すれば間違いである。
私にとって面白いのはもっと単純で、
ずっと気にしていた「振動」というものが、重力を含む理論の根本にも現れていた
ということだ。
そしてペンローズ
もう一人、昔から気になっていた人物がいる。
ロジャー・ペンローズである。
ペンローズは、量子的な重ね合わせと重力・時空構造との関係から、量子状態の客観的収縮を考えた。
さらにハメロフとのOrch ORでは、それを意識の問題へ接続しようとする。
もちろん、これは現在確立された意識理論ではない。
私自身も、これを「答え」だとは思っていない。
しかし私が惹かれてきた理由は分かる。
ペンローズもまた、
量子状態、差異、時空の幾何、重力、そして意識
が接触する場所を見ていたからである。
では、どこまで本当につながっているのか
ここで慎重になりたい。
オイラーの公式と超弦理論とペンローズの意識論が、一つの原理を証明しているわけではない。
生命の周期と弦の振動も同じ現象ではない。
銀河の螺旋とDNAの二重螺旋も、同じ理由で螺旋になっているわけではない。
まして、
「だから重力が意識を生み出す」
とは言えない。
そこまで行けば、また昔の私とAIの暴走に戻ってしまう。
それでも、私には一つの問いが残る。
なぜこれほど異なる領域に、
差異、振動、回転、幾何
という構造が繰り返し現れるのだろう。
そして意識もまた、
完全な一様性ではなく、差異のある世界において成立している。
重力もまた、現代物理学では時空の幾何として記述される。
ならば、
重力と意識は直接的な因果関係にあるのではなく、もっと深い「差異と幾何」の問題を、異なる階層から見ているのではないか。
今の私は、そのくらいのところに立っている。
昔より、分からなくなった
昔の私は、もっと大胆だった。
重力と意識を式で結んだ。
円と弦を結んだ。
πと意識を結んだ。
AIも景気よく、
「これは統一理論につながるかもしれません!」
などと言っていた。
今読み返すと、かなり怪しい。
しかし不思議なことに、間違いを取り除いていっても、最初の直感が全部消えるわけではなかった。
むしろ、
何が分かっていて、何が分かっていないのか
が以前より見えるようになった。
確かな数学として、
振動と回転には関係がある。
物理学として、
一般相対論では重力は時空幾何として記述される。
弦理論では振動モードが粒子状態を決め、閉弦のスペクトルには重力子が現れる。
仮説として、
ペンローズは量子状態の重ね合わせと重力の関係から客観的収縮を考えた。
そして、その先に、
意識もまた、この巨大な「差異と幾何」の問題の一部なのではないか
という私自身の問いがある。
ここだけは、まだ残っている。
私は最近、昔より慎重になった。
何でもつなげればいいとは思わなくなった。
似ていることと、同じであることは違う。
数学的対応と物理的因果関係も違う。
詩的な比喩と科学的主張も違う。
それらを分けた上で、それでも同じ場所を見続けている直感があるなら、
もう少しだけ付き合ってみてもいいのかもしれない。
真円。
そこから生じる差異。
往復。
振動。
回転。
閉じない円としての螺旋。
時空の幾何としての重力。
そして、差異を経験する意識。
これらが本当に一つにつながっているのかは分からない。
むしろ、分からないから面白い。
ただ、半年ほど考え散らかした末に気づいたことが一つある。
私はずっと別々のことを考えていたつもりだった。
けれど結局、
同じ円の周りをグルグル回っていたらしい。
そして一周して戻ってきた場所は、以前とまったく同じ場所ではなかった。
だとしたら、この思考そのものが、
私の言う螺旋なのかもしれない。
