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悟りの仮説

悟りとは何か

私は最近、悟りとは何かを考えている。
昔は、もっと特別なものだと思っていた。
アカシックレコード。
超能力。
霊感。
神秘体験。
あるいは宇宙の真理を一瞬で理解するような状態。
そんなものを想像していた。
もちろん、そのような体験をした人もいるのだろう。
しかし最近は、少し違う気がしている。
悟りとは、
全てを許せる感覚なのではないか。
そしてさらに言えば、
全てが気にならなくなる感覚なのではないか。
もちろん、無関心になるわけではない。
悲しいことがあれば悲しい。
嬉しいことがあれば嬉しい。
怒ることもある。
愛することもある。
人間である以上、それは自然なことだ。
しかし、それらに振り回されなくなる。
執着しなくなる。
私は最近、これがブッダの言う無執着に近いのではないかと思う。
そしてさらに最近、
もう一つ気づいたことがある。
それは、
全てが自然となることだ。
老子は無為自然を説いた。
無為自然とは、何もしないことではない。
自然に逆らわないことである。
雨が降る。
風が吹く。
花が咲く。
人が生まれる。
人が死ぬ。
それらは自然である。
そして人の心もまた自然である。
怒りもある。
嫉妬もある。
愛もある。
破壊衝動もある。
慈悲もある。
私は最近、世界とは真矛盾でできていると思っている。
生と死。
完全と不完全。
愛と憎しみ。
創造と破壊。
それらは互いに対立しているように見える。
しかし実際には、互いを必要としている。
どちらかだけでは成立しない。
だから私は最近、
悟りとは何か一方を選ぶことではないように思う。
生だけを肯定することでもない。
死だけを肯定することでもない。
善だけを肯定することでもない。
悪だけを肯定することでもない。
ただ、それらが存在することを認める。
そして自然として観る。
世界をあるがままに観る。
それが悟りなのかもしれない。
私は昔、
悟りとは何かを得ることだと思っていた。
しかし今は少し違う。
悟りとは、
何かを付け加えることではなく、
余計な執着が落ちていくことなのかもしれない。
そして最後に残るのは、
特別な力ではない。
特別な知識でもない。
ただ、
世界が自然であるという感覚。
そして、
その自然の中で静かに生きるということなのだろう。

※とはいえ、私はどんどん吸収しますよ!
円周率を完成させる気概で。
超常現象もウェルカム…!🤟

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