時代は「少年キャバ嬢」なのかもしれない
施設の利用者さんに、ダウ90000というお笑いグループを教えてもらった。
僕はそれまで、ダウ90000について詳しく知らなかった。名前はどこかで見かけていたかもしれないけれど、誰が中心人物で、どのような空気を持ったグループなのかまでは分かっていなかった。
それから代表の蓮見翔さんが話している映像を見た。
そのとき僕は、少し不思議な感覚になった。
蓮見さんの中に、岸谷蘭丸さんと似たものを感じたのだ。
もちろん、二人の活動も経歴も発言内容も違う。顔が似ているという話でもない。性格が同じだと言いたいわけでもない。
ただ、二人を見ていると、僕の中で同じ言葉が浮かんできた。
少年キャバ嬢。
これは僕が勝手に考えた造語である。
一見すると、かなり矛盾した言葉に見える。
少年とキャバ嬢。
無邪気さと接客性。
未完成さと老獪さ。
人見知りのような危うさと、人の視線を集めることへの慣れ。
その両方が、一人の人間の中に同時に存在しているように見える人を、僕は「少年キャバ嬢」と呼びたくなった。
少年性とは何か
ここでいう少年性は、単純に若々しいという意味ではない。
社会に完全には飼い慣らされていない感じ。
大人として振る舞ってはいるけれど、どこかに「本当にこれでいいのか」と疑っている部分が残っている感じ。
好きなものについて話すと急に言葉が速くなったり、理屈っぽくなったり、負けず嫌いが顔を出したりする。
自分の能力を信じているのに、自分自身にはどこか自信がない。
人からどう見られているかを気にしているのに、それを気にしていないふりもする。
そういう、まだ整理されきっていない自意識が少年性なのだと思う。
蓮見さんには、集団を率いる代表者としての冷静さがある。
作品を構成し、人を配置し、全体の空気を見ている。
その一方で、発言の端々には、教室の隅から世界を観察していた少年のようなものが残っているように僕には見えた。
みんなの中心に立っているのに、完全には中心人物になりきっていない。
輪の内側にいるのに、同時に少しだけ外側から輪を見ている。
その距離感が、少年っぽい。
岸谷蘭丸さんにも、似たような未完成さを感じることがある。
堂々と話しているし、自分の考えをはっきり言う。世間から注目されることにも、ある程度は慣れているように見える。
けれど、その強さの奥に、まだ世界に対して言い返したい少年がいる。
「自分はここにいる」と、少し大きな声で証明し続けているようにも見える。
その必死さは、完成された大人というより、現在進行形で自分を作っている少年のものだ。
キャバ嬢性とは何か
では、キャバ嬢性とは何だろう。
これも、職業としてのキャバクラで働いているという意味ではない。
僕が言いたいのは、人から見られることを引き受けながら、相手に気持ちよく自分を見せる能力のことだ。
自分がどう映るかを理解している。
どの言葉を使えば相手が反応するかを知っている。
相手を喜ばせながら、自分自身の価値も高く見せる。
本音を全部見せるわけではないが、まったく嘘でもない。
親しみやすさを出しながら、簡単には届かない距離も残しておく。
これは一種の高度な接客である。
蓮見さんがインタビューや番組で話している姿には、その場が何を求めているかを察知する感覚があるように思う。
少し意地悪な言い方をして笑いを生み、少し自分を下げて空気を柔らかくし、それでも最後には「この人は頭がいい」と思わせる。
自分だけが気持ちよく話すのではなく、相手が受け取りやすい形にして渡している。
しかも、完全にサービスに徹しているようには見せない。
「別にあなたのためだけに話しているわけではありません」という、わずかな冷たさも残っている。
その冷たさが、かえって魅力になる。
これはかなりキャバ嬢的ではないだろうか。
岸谷蘭丸さんにも、人から注目される自分を客観視している雰囲気がある。
何を言えば切り取られやすいのか。
どのような姿を見せれば、自分という人物が成立するのか。
賛否が起こることまで含めて、自分をコンテンツとして差し出している。
ただし、すべてを計算だけで行っているようには見えない。
そこには、本当に言いたいことや認められたい気持ちも混ざっている。
計算と本音が混ざっていて、どこまでが演出なのか分からない。
それもまた、キャバ嬢性の一部なのだと思う。
愛されたいが、支配されたくない
少年キャバ嬢には、一つの共通した欲望がある。
愛されたい。
しかし、相手に支配されたくはない。
注目はされたい。
しかし、簡単に理解されたくはない。
人と関わりたい。
しかし、自分の内側まですべて踏み込まれたくはない。
この矛盾を抱えながら、人前に立っている。
普通なら、矛盾は隠したくなる。
強い人なら強く見せる。
弱い人なら弱さを売りにする。
けれど少年キャバ嬢は、強さと弱さを高速で入れ替える。
偉そうなことを言った直後に、自虐をする。
人を批評した直後に、自分も笑いの対象にする。
知的に振る舞ったあとで、幼い感情を見せる。
近づいてきたと思ったら、急に距離を取る。
見る側は、その不安定さに振り回される。
しかし、だからこそ見続けてしまう。
「本当はどんな人なのだろう」と考えてしまう。
少年キャバ嬢は、自分のすべてを明かさないことで、人の関心を持続させる。
なぜ今、少年キャバ嬢なのか
もしかすると、時代そのものが少年キャバ嬢を求めているのかもしれない。
昔の男性的なカリスマは、もっと分かりやすかった。
強い。
迷わない。
弱音を吐かない。
人を引っ張る。
しかし今、そのような人物像は少し古く見える。
完璧なリーダーよりも、迷いながら話す人のほうが信用されることがある。
自信満々な人よりも、自虐を挟める人のほうが親しみやすい。
何も気にしない強者より、人の目を気にしながら人前に立つ人のほうが、現代的に見える。
一方で、ただ弱いだけでは注目され続けることは難しい。
人前に立つ以上、自分を演出し、言葉を選び、空気を動かす技術が必要になる。
そこで、少年性とキャバ嬢性が結びつく。
傷つきやすく、未完成で、認められたがっている。
しかし同時に、人を楽しませ、場を支配し、自分の魅力を分かっている。
その両方を持つ人が、今の時代には強い。
SNSでは、日常と演出の境界が消えている。
本音を語ること自体が演出になり、弱さを見せることも自己プロデュースになる。
「ありのままの自分」と言いながら、そのありのままを最も魅力的に編集して見せる。
誰もが少しずつ、自分の店のキャストになっている。
自分という店を開き、言葉や写真や動画で客を呼び込む。
その意味では、蓮見さんや岸谷さんだけが少年キャバ嬢なのではない。
僕たち自身も、すでに少年キャバ嬢化しているのかもしれない。
「男らしさ」の次にあるもの
少年キャバ嬢という言葉は、男性を女性化して笑うための言葉ではない。
むしろ、男性がこれまで禁止されてきた複雑さを表す言葉として考えたい。
愛嬌がある。
嫉妬する。
注目されたい。
気分に波がある。
自分をきれいに見せたい。
人に選ばれたい。
でも媚びているとは思われたくない。
こうした感情は、昔から男性の中にもあったはずだ。
ただ、「男らしくない」として隠されてきただけなのだと思う。
少年キャバ嬢は、それらを完全には隠さない。
知性やユーモアや反抗心と混ぜながら、人前に差し出す。
その姿は、従来の男らしさよりも自由である。
しかし、同時にかなり疲れそうでもある。
ずっと人から見られ、自分の魅力を更新し続けなければならないからだ。
少年のままでいたい自分と、客を満足させなければならない自分。
その二人が、いつも頭の中で話し合っている。
「本当の自分を見てほしい」
「でも、本当の自分を見られたら困る」
少年キャバ嬢とは、その矛盾を抱えたまま、舞台に立ち続ける人なのだ。
時代は少年キャバ嬢なのかもしれない
蓮見翔さんと岸谷蘭丸さんは、まったく同じ人物ではない。
二人を一つの言葉で簡単に説明することもできない。
それでも僕は、二人を見たときに感じた共通の気配を、少年キャバ嬢と呼びたい。
少年のように世界に反発しながら、キャバ嬢のように世界をもてなす。
愛されたいことを隠しながら、愛されるための技術は磨いている。
自信と不安、自意識とサービス精神、反抗と愛嬌。
それらが同じ体の中で、絶妙なバランスを取っている。
もしかすると、これから人気を集めるのは、完成された大人ではないのかもしれない。
未完成であることを魅力に変えられる人。
傷つきやすさを隠さず、それでも人を楽しませられる人。
「僕のことを分かってほしい」と言いながら、「簡単に分かった気にならないで」と笑える人。
時代は、少年キャバ嬢なのかもしれない。
いや、時代はダウ90000というか蓮見翔なんだと思った。
