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委ねるといふこと


朝の掃除、洗濯等のルーティンを終え、雨でぐんぐん伸びてきた庭の草むしりをした後にコーヒー豆を挽いた。
休日の青空を見ながら、コーヒーを味わっていると、「委ねる」という言葉が浮かんできた。今朝ほどメール句会で関西メンバーの投句をまとめて結社の代表にメールしたところであったので、先ずイメージしたのは俳句。

俳句には長年、日本文化の暮らしの中で培われてきた季語を用いる。
季語を用いない俳句もあるが、私の場合は季語を入れた俳句を作り続けてきた。
俳句では、季語にすべてを委ねるという言われ方がよくされる。
五七五という短い形式であり、言いたいことが言えない文学とも言われ、結果的に読み手に委ねるという形になる。従い、作者のイメージとは全く異なる受け止め方をされることがよく起こる。
この出来事も予定調和的でなく、他者との関わりの中での転換が生まれる。
他者が介在し、代表が選をされるので、当然ながら自分と他者との比較という要素も重なってくるため、内側の潜在的な感情が現れやすくなる。


話は変わるが、15年前に販売されたいわゆるオールドコンデジと言われるカメラを数年前に中古で購入して愛用している。
このカメラは目的をもって何かを撮るというよりも、その時に出会ったものを撮るカメラで、出会った瞬間に撮影できる機能を有している。
ある意味、出会うことに委ねているカメラでもある。従って出会うものがなければ、シャッターを押すことも減っていく。


数年前にラオスを訪れた際も、目的を持たず、初日の宿だけは予約して、あとはそのときの流れに委ねた。計画的ではないので、色々出来事が起こるが、その出来事が自分で意識していないことが顕在化させていることもあり興味深い。
目的、意図を失くしていくと、内側の無意識領域の扉が開きやすくなり、本来、出会うべくして出会うということが多くなると感じる。


本との出合いもそうだ。三島由紀夫氏は好きであったが、noteで出会った
おさむさんを通して執行草舟氏を知り、そして執行氏の「永遠の三島由紀夫」と出会った。そしてこの著書をガイドとして「葉隠入門」、「豊饒の海」、「太陽と鉄」、「真夏の死」、「鏡子の家」と三島氏の真意を知る重要な作品を読んでいった。さらに「永遠の三島由紀夫」の中で引用されていたドストエフスキーの著書に導かれていった。

「真夏の死」の最後の場面は二人の息子を水難事故で失った母親が数年後に
その事故のあった海岸を訪れて、水平線をただ見つめる場面で終わるが、その母親の眼差しにおいては、悲しみや苦しみは決してなくならないが、自分の運命を受け入れ、ただ未来から訪れてくるものに委ねるという姿勢に溢れていた。

三島由紀夫氏は生涯、葉隠を愛読され、大乗仏教の阿頼耶識に強い関心をもたれていたようだ。
訪れてくるものに委ねていくことを意識する姿勢が葉隠や阿頼耶識とも
繋がっていたのではと受け止めている。


花の雨栞を挟む罪と罰



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