人間は記号だけでは生きていけない。言葉や概念、イメージだけを操作していると、一見高度な思考をしているようでいて、実際には現実との接点を失い、観念だけが自己増殖を始める。そこでは何が真で何が偽かを判定する基準も失われ、やがて思考は閉じた循環へと陥る。いわば独我論の地獄である。
現代美術を代表するアンディ・ウォーホルは、まさに記号操作の天才だった。マリリン・モンローもキャンベル・スープ缶も、彼にとっては消費社会を構成する記号であり、その反復によって現代社会そのものを作品へと変えてしまった。しかし、そのウォーホルの自宅には礼拝堂が設けられていたことが知られている。彼は日常的に教会へ通い、カトリックの信仰を保ち続けた。記号の世界を極限まで押し進めた芸術家が、最後には宗教という、自分では操作できない絶対的な現実へ身を置いていたことは象徴的である。人間は記号だけでは精神の均衡を保てないのである。
この問題は哲学でも繰り返し論じられてきた。フッサールは、世界は単なる私的意識の産物ではなく、「他者」が存在して初めて客観的世界として成立すると考えた。私一人の世界では、それが夢なのか現実なのかを区別する基準がない。しかし他者が同じ世界を経験し、互いに確認し合うことで、世界は客観性を獲得する。客観性とは、物そのものの性質というより、共同主観性によって支えられた世界なのである。
このことを逆から言えば、他者を失った世界では、記号はどこまでも自己増殖してしまう。言葉は言葉を呼び、理論は理論を生み、現実との照合が失われる。すると思想は外部から修正される機会を失い、内部で完結した体系となる。それは論理的であるように見えて、実際には検証不能であり、真とも偽とも判定できない。独我論とは、まさにそのような状態である。
文化が宗教や共同体、家族、友情、恋愛、祭りといった制度を長い歴史の中で育んできたのも、この危険を知っていたからではないだろうか。人間は必ず他者と交わり、身体を動かし、現実に触れ、自分の考えが修正される場を必要とする。その仕組みが失われれば、観念だけが際限なく増殖し、人間は現実感覚を失ってしまう。
ポストモダン以降、「すべては記号である」という考え方は強い影響力を持った。しかし、人間そのものまで記号として生きることはできない。どれほど情報化社会が進んでも、人は誰かと話し、食事をし、身体を持って生活し、現実に触れることでしか精神の均衡を保てないのである。記号は文化を豊かにする。しかし、文化そのものが他者との共同性を組み込んでいるのは、記号だけでは人間が壊れてしまうことを、長い歴史の中で知っていたからなのだ。
