会社員

私は、自分のような人間が会社の中枢で仕事をしていたこと自体、一種の偶然だったと思っている。会社員向きの性格ではなかった。むしろ、組織を外から観察してしまう側の人間だった。フランス哲学を読み、構造や権力や言語について考え込むような人間が、役員会を回し、社長の見る景色を演出していたのである。

だが、そういう「社会のバグ」のような人間でも、組織の中で機能できた理由がある。それは、最低限の能力保証としての学歴があったからだ。

これは綺麗事ではない。

組織というのは、本質的に他人を信用していない。だから、最初に「この人間は一定以上の抽象的思考能力と持久力を持っている」という保証が必要になる。その最も安価で効率的な指標が学歴なのだ。

もちろん、学歴だけで仕事はできない。東大を出ていても使えない人間はいくらでもいるし、高卒でも優秀な人はいる。しかし、大組織は個人をじっくり観察している暇がない。だから、最初のスクリーニングとして学歴を見る。これは残酷でも何でもなく、単なるコスト管理である。

実際、私がやっていたような仕事は、単なる事務処理ではない。役員の発言の意味を理解し、先回りして資料を整え、複数の利害関係を頭の中で同時に処理し、誰が何を恐れているかを読み、言外のニュアンスまで察知して動かなければならない。抽象的思考力も必要だし、文章力も必要だし、長時間の集中力も必要だ。

そういう能力を、二十代前半の段階で完全に測定することは不可能である。だから企業は、「難関大学を突破した」という事実を、とりあえずの品質保証として使う。

私は、その仕組みを内側から見てきた。

だから、学歴社会批判が抽象論に見えることがある。「学歴なんか関係ない」と言う人に限って、自分が病気になったら、高学歴で専門訓練を受けた医者を探す。会社の経営危機では、地頭の良い人間に意思決定を任せたがる。結局、人は重要な局面ほど、「能力が担保された人間」を求めるのである。

そして厄介なのは、私のような、内面はディレッタントで、頭の中ではベンヤミンだのレヴィナスだのを考えている人間ですら、その「能力保証システム」の恩恵を受けていたという事実だ。

会社は、私の思想には興味がなかった。

極論すれば、夜中に何を読んでいようが、フランス哲学にかぶれていようが、締切までに役員会を成立させ、事故なく組織を運営できるなら、それでよかったのである。

だが、その入口に立つためには、やはり学歴が必要だった。

だから私は、学歴を人格の価値だとは思わない。人間の深みや幸福を保証するとも思わない。だが、巨大組織の中で重要な仕事を任されるための「通行証」としては、依然として強力だと思っている。

結局、私自身がその制度の受益者だったのである。

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