マイノリティ

私は、文化というものは本質的にマイノリティのものだと思っている。

もちろん、文化が多数派に受け入れられることはある。しかし、それは文化が成立した後の話であって、文化そのものはたいてい周縁から生まれる。最初から社会の中心にあり、全員に歓迎され、誰も反発しないようなものが文化を創造した例は少ない。

文学はその典型である。

日本語は誰でも使う。だから文章を書くという行為自体には特別な価値はない。しかし文学作品を書くとなると話は別だ。そこには個人固有の体験や執着が必要になる。何かを語らずにはいられない事情が必要になる。

人生に何の葛藤もなく、既存社会の価値観に完全に適応し、幸福な消費生活を送っているだけの人間から強い文学が生まれるとは私は思わない。文学は多くの場合、自分の居場所のなさや違和感から生まれる。だから文学は本質的に少数派の営みである。

しかし、これは文学に限った話ではない。

高級文化と呼ばれているものも、歴史を振り返ればもともとは周縁の文化だったものが多い。

現在では高級車の代名詞のように扱われるブランドであっても、創業当初から権威だったわけではない。音楽も同じである。ジャズもブルースもロックも、最初から大学で研究される教養だったわけではない。むしろ社会の周辺にいた人々の文化だった。

私は文化史というものを見ていると、一つの共通したパターンがあるように思う。

まず周縁で新しい文化が生まれる。

次に少数の熱狂的支持者が現れる。

その後、主流社会はそれを下品だとか危険だとか言って警戒する。

ところが、その文化が一定の成功を収めると、今度は主流社会が取り込み始める。

そして最後には学校で教えられ、美術館に収蔵され、大学で研究される。

こうして反抗文化は高級文化へと変貌する。

私は二十世紀アメリカ文化にも同じものを見る。

禁酒法時代の酒場文化、移民街の音楽、売春やギャングが入り混じるアンダーグラウンドな世界は、当時の善良な市民から見れば決して褒められたものではなかった。しかし、その時代に形成された美意識やライフスタイルは、後のアメリカ文化を決定的に方向づけた。

後世の人間は結果だけを見る。

しかし、文化が誕生する瞬間には必ず摩擦がある。

誰かが既存の秩序に反発し、自分たちの存在を主張しようとする。その過程で新しい文化が生まれる。

だから私は、文化とは本質的に反抗の産物だと思っている。

そして面白いことに、その反抗が成功した瞬間、それは反抗ではなくなる。

大学で教えられ、専門家によって権威づけられ、高級文化として保存されるようになった時点で、それはすでに勝者の文化になっている。

すると、次の時代の文化はまた別の周縁から現れる。

文化とは作品の集合ではない。

周縁から中心へ向かう運動そのものなのである。

付け加えると、創作の「動機」があるのはマイノリティだけってことなんだろうと思う。別のエントリーにしようかと思ったけれど、追記する。
動機がないから、恵まれた階層の人の芸術運動、文学運動は失敗に終わる。それは脱サラの事業が失敗するのと似ている。動機が甘いんだ。差別されている人たちは本気にならざるをえないから。だから一時期、在日文学がすごいプレゼンスだったけれど、差別の最後の世代の人たちが必死に書いたんだよ。それも在日だから差別するというのが、東京の子供のかなりの割合が混血になった今となっては、無くなったのでモメンタムも無くなりそういう動きも沈静化した。そういうダイナミズムがインプリメントされているんだと思いますよ。それは計画できるものじゃない。

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