語学自体は無駄になるスキルじゃない。語学は正直だ。なんでもそれは言えるな。
◆エッセイ:語学と後進国意識──私の時代の「仏独語」の意味
自分の感覚が決定的に古いと感じる瞬間がある。フランス語やドイツ語を必死に学んだ理由が、いまの若い世代と全く違うということに気づくときだ。
いま仏語・独語を学ぶ学生の多くは、「ヨーロッパで働きたい」「国際的なキャリアを積みたい」という、まっすぐで健全な動機を持っている。その目的意識はシンプルで、現代のグローバル化された社会ではむしろ正しい。
しかし私の世代の語学学習は、まるで別物だった。フランス語もドイツ語も、海外で活躍するためではなく、“日本の学問の過去”にアクセスするために必要だった。欧州に行きたいからではない。日本の学者たちが引用してきた原典に負けないためだ。当時の日本の人文・社会科学には「欧米思想の受容」という構造が色濃く残っており、原語で読めない者は議論で劣後すると本気で信じられていた。
だから語学は、パスポートではなく武装だった。
後進国意識に押されて、負けまいと仏独語にしがみつく。振り返れば歪んだ動機だが、それもまた当時の“気分”だったのだろう。
今の日本は、そうした構造から大きく抜け出した。英語一本で国際的な議論に参加できるし、日本語の学問も独自に展開するようになった。もはや「原典コンプレックス」で語学を学ぶ必要はない。それは社会が成熟した証拠でもある。
しかし、だからといって、私がフランス語やドイツ語に注ぎ込んだ時間が無駄だったとは全く思わない。
むしろ逆だ。語学というのは目的を超えて、思考の幅や感性の領域をひらく。パズルのように文法を解き、辞書を引き、原文と向き合うあの作業は、知性の筋肉そのものを鍛える。語学が役に立たなくなることは決してない。
世界がどう変わろうと、英語がどれほど支配的になろうと、仏語も独語も、学んだこと自体が価値を持ち続ける。
だから、あの努力はひとつも損ではなかった。
むしろ自分の知的風景を形づくる土台として、今も息をしている。
ドイツ語できて、フランス語できて後悔はしない。できなくても同じだとは思わない。それは自信が違う。圧倒的に違う。
