デカルト的省察

私が学生だった頃、不思議なことにフッサールはあまり評価されていなかった。少なくとも私の周囲では、実際に読んでもいないのに「古い」「観念論だ」と片づける人が少なくなかった。しかし、哲学を本格的に読もうとするなら、カントとフッサールは避けて通れない存在である。好き嫌いはともかく、現代哲学が何を受け継ぎ、何を批判してきたのかを理解するための出発点だからである。

難しさという点では、やはりカントが群を抜いている。一方、フッサールの『デカルト的省察』は、読みにくくはあるものの、論理の運びは驚くほど明快である。一文一文が厳密に積み重ねられ、「なぜそう言えるのか」が飛躍なく説明される。その緻密さには、一分の隙もないという印象を受けた。

『デカルト的省察』の出発点はデカルトである。ただしフッサールは、世界が存在するかどうかを証明しようとはしない。まず「世界が存在する」という日常的な前提をいったん括弧に入れ、世界が私にどのように現れているかだけを分析する。これが現象学的還元である。そして意識とは、必ず何かに向かう働き、すなわち志向性を持つことを明らかにする。机を見る、音を聞く、人を思い浮かべる。意識は常に対象へ向かい、その対象は意識の働きによって意味を持って現れる。哲学は、まずこの意味の成立を記述すべきだというのである。

さらに重要なのは他者論である。もし世界が私の意識に現れるものだけなら、他人も私の想像にすぎなくなる。しかし私たちは、他人の身体を単なる物体ではなく、自分と同じように世界を経験している存在として理解している。この他者経験があるからこそ、世界は私だけの夢ではなく、多くの人が共有する客観的世界として成立する。フッサールは、客観性とは最初から存在するものではなく、複数の主体が同じ世界を経験するという間主観性から成立すると考えたのである。

この論理の美しさは、現代哲学を読むとよく分かる。ハイデガーも、サルトルも、メルロ=ポンティも、レヴィナスも、結局はフッサールから出発している。それぞれが彼を批判し、新しい哲学を築いたが、その出発点は共通している。批判され続けるということは、土台として読み続けられているということでもある。

私はここに、フランス哲学との違いも感じる。二十世紀フランス哲学には、哲学であると同時に文学でもあろうとする伝統がある。文章の美しさや逆説の鮮やかさ、読者を惹きつける表現力が重視される。それに対してフッサールには、そのような華やかさはない。あるのは論理だけである。しかし、その論理の強さゆえに、百年近く経った今でも哲学を学ぶ者はフッサールを避けて通れない。

古典とは、現在でも全面的に正しい本ではない。後の世代に批判され、修正され、それでもなお出発点として読み継がれる本である。フッサールはまさにその意味での古典だと思う。読まずに古いと言うことは簡単だ。しかし『デカルト的省察』を実際に読めば、そこには現代哲学の出発点となった、極めて誠実で緻密な思考が積み重ねられていることがよく分かるのである。

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