消えない嘘と、20ワットの裸電球
第3話:丸呑みされる光
良心の告発は、国家の巨大な「嘘」によっていとも簡単に精神病棟の暗闇へと丸呑みされた。 昭和25年、警察内部の拷問を実名で告発した真壁衛刑事。しかし国は彼を「精神異常者」に仕立て上げて抹殺し、世間は手のひらを返して警察の「安全な嘘」を信じ込み始める。 真実が消え去り、人々が沈黙にひれ伏す中、19歳のシズは20ワットの電球の紐に手をかける。 「消してしまえば楽になる」──その極限の葛藤の中でシズが選んだ、一生を懸けた無言の抵抗とは。 現代のネット社会で、違う意見を言った者を「狂人」と叩き、同調圧力の海に沈黙する現代人の姿に、第3話が痛烈な一撃を放ちます。
「本当に恐ろしいものはね、和也。拳を振り上げて襲ってくる暴力じゃないんだよ」
祖母・シズの平屋の居間。 天井からぶら下がる二十ワットの裸電球の下で、シズはゆっくりと湯呑みを見つめながら言った。
「一番恐ろしいのはね……真実が、まるで最初から存在しなかったかのように、巨大な嘘の渦に丸ごと丸呑みされていくのを見ること。
そして、昨日まで一緒に泣き怒っていたはずの人たちが、一瞬にして目をつぶり、耳を塞いで、その嘘を『正しい真実』として信じ込み始めるのを見ることさ」
大学生の和也は、ばあちゃんの隣に静かに座り直した。
スマートフォンは畳の上に伏せてある。ブルーライトは消え、今はこの部屋を優しく包む橙色の光だけが、二人の横顔を照らしている。
「泥だらけになって、立ち上がった後……ばあちゃんはどうしたの?」
和也が尋ねると、シズは小さく息を吸い、さらに深い「暗闇」の記憶へと、記憶の糸を解きほぐしていった。
昭和二十五年の暮れ。 静岡の冬風は冷たく、シズの暮らす小さな町は、目に見えない重苦しい空気に支配されていた。
お父さんを理不尽な押し問答の末に警察署の前で亡くし、町の人々から「人殺しの味方」といじめられ、泥だらけにされても、十九歳のシズは決して心まで泥に染まることを拒んだ。
シズは、お父さんが遺した「二十ワットの裸電球」を居間の天井に灯し、それを心の支えにしていた。
「お父さんは間違っていない。あの子は犯人じゃない」
毎日、薄暗い橙色の光の下で、シズはそう自分に言い聞かせていた。
そんなある日、町の空気を一変させるような、驚天動地のニュースが飛び込んできた。
近所の人が、まるですす汚れた境界線に触れるのを恐れるように、シズの家の前に放り投げていった新聞。そこには、信じられない大きな見出しが躍っていた。
『拷問による虚偽の自白――現職刑事が実名で捜査を内部告発』
告発したのは、その事件の捜査に直接関わっていた警察内部の刑事、真壁衛(まかべ まもる)という男だった。
真壁刑事は、署内で行われていた苛烈な拷問の実態を克明に明かし、「逮捕された十八歳の少年のアリバイは本物だ。警察は自分たちの都合のいい筋書きを守るために、暴力を振るって嘘の自白を書かせたのだ」と、自身の良心の声に従ってすべてを世間に暴露したのだった。
その記事を読んだ瞬間、シズは新聞を抱きしめ、お父さんの遺影の前で激しく泣き崩れた。
「お父さん……! 聞こえる? お父さんの言っていたことは正しかったよ!
警察の中にも、ちゃんとお父さんと同じように、命を懸けて本当のことを言ってくれる人がいた!」
これで、あの可哀想な少年は救われる。
お父さんの死も、決して無駄ではなかった。
町の人々も、自分たちがどれほど愚かな「空気」に流され、無実の家族をいじめていたのかに気づいてくれるはずだ。
シズは、冷え切った平屋の畳の上で、お父さんの二十ワットの電球を見上げながら、暗闇の向こうに一筋の、眩しい真実の光を見た気がした。
だが――その眩しい光は、あまりにも早く、あまりにも冷酷に、国家という巨大な怪物によって消し去られた。
身内の裏切り、それも警察の威信を揺るがす内部告発を、国は絶対に許さなかった。
告発のわずか数日後、真壁刑事は「虚偽の事実を公表して組織を混乱させた」という名目で、即座に逮捕された。
さらに恐ろしいことに、国は彼を裁判にかけることすら避けるため、ある極端な手段に出た。
真壁刑事を、**「精神異常者」**として扱い、鑑定留置という名目で、精神病院の奥深くへ送り込んでしまったのだ。
「え……?」
現代の居間で、和也が思わず息を呑む声を漏らした。
「そんなの……じゃあ、本当のことを言ったから、頭がおかしいことにされたの?」
「そうだよ、和也」
シズは力なく首を振った。
「国という大きな力はね、自分たちに都合の悪い真実を語る人間を、力ずくで『狂人』に仕立て上げたのさ。
昨日まで『正義の告発者』として新聞に載っていた立派な刑事さんが、次の日には『気が狂ってデタラメを叫んでいる哀れな嘘つき』として、社会から綺麗に抹殺されてしまった」
本当に恐ろしかったのは、その後の世間の変化だった。
真壁刑事が狂人扱いされて消されると、昨日まで警察のやり方に疑問を抱いていたはずの町の人々は、恐ろしいほどのスピードで「警察が正しい」という安全な物語にすがりつき始めた。
「やっぱり、あの刑事は頭がおかしかったんだ」
「警察が間違えるはずがない」
「おかしな狂人の言うことを信じて、警察を疑うなんて、非国民のすることだ」
町中に、昨日より何倍も冷たくて重い「沈黙」が広がっていった。
人々は、警察という国家権力の圧倒的な恐怖の前に、自ら進んで目と耳を固く塞いだ。
真実が何であるかを知ろうとすること自体が「危険」であり、少しでも疑いを持てば、次は自分が精神病院へ送られるかもしれない――そんな無言の恐怖が、すべての人を平伏させた。
少年の無実を証明するはずの光は、一瞬にして、巨大な嘘という暗闇に丸呑みされて消えてしまった。
シズは、誰も訪れなくなった寂しい平屋の居間で、一人座り込んでいた。
お父さんを亡くし、町の人に泥を投げつけられても折れなかったシズの心が、この時ばかりは、音を立てて砕け散りそうになっていた。
「もう……誰も本当のことは言えない」
シズは、天井の二十ワットの電球を見上げた。
その小さな橙色の光さえも、巨大な暗闇の前ではあまりにも無力で、虚しいものに思えた。
国が、世間が、すべての人々がこぞって目をつぶり、嘘を真実だと言い張っている。
そんな世界で、自分一人だけが本当のことを信じていて、何になるというのか。
みんなと同じように、この電球を消して、目をつぶって、何も考えていないふりをして生きていけば、どれほど楽だろう。
シズは震える手を伸ばし、電球の紐を握った。
これを引いて、すべてを真っ暗にしてしまえば、もう苦しまなくていい。
だが、その瞬間。 シズの耳の奥に、あの雨の警察署の前で死んでいった、お父さんの最後の言葉が強く響き渡った。
『たとえ国や世間という大きな力が「黒」だと言っても、自分の目で見て「白」だと知っているなら、絶対に目をつぶってはいけない。頼りない光でもいい、俺たちが本当のことを見届けるんだ』
そして、泥だらけになりながら、自分の手で泥を払って立ち上がった、あの日の自分の手のひらの痛みが蘇った。
(そうだ……みんなが目をつぶるというなら。この町全体が、国全体が嘘の暗闇に沈んでいくというなら)
シズは電球の紐を、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
しかし、消すためではない。その手を、静かに下ろした。
(私だけは、この二十ワットの電球の下で、死ぬまでじっと目を開けていよう。
本当のことが嘘に呑み込まれた、あの凄惨な瞬間を、私は絶対に忘れない。
世間がどんなに綺麗な嘘で飾り立てても、私はこの平屋の片隅で、その嘘を睨み続けてやる)
シズにとって、天井の二十ワットの電球は、この夜、単なるお父さんの遺品から、**「巨大な嘘に対する、一生を懸けた無言の抵抗」**へと昇華したのだった。
「それがね、和也。私がこの電球を、七十年間、一度も消さずに灯し続けてきた、本当の理由なんだよ」
シズは語り終え、ゆっくりと和也の顔を見つめた。
和也は、胸を激しく締め付けられるような、強烈な痛みを覚えていた。
自分のスマートフォンに目を落とす。
今も、ネットの海では同じことが起きている。
誰かが投げかけた不確かな疑惑が、瞬く間に「正しい空気」として膨れ上がり、本当のことを言おうとした人間や、違う意見を持った人間が、一瞬にして「狂人」や「悪人」に仕立て上げられ、社会的抹殺(炎上)という名の精神病院へ送り込まれる。
人々はそれを見て、自分が標的になるのを恐れ、「やっぱりあいつはおかしい」「彼が悪いんだ」と同調の言葉を並べ、目をつぶり、耳を塞ぐ。
「……ばあちゃん」
和也は、畳の上のスマホを、ゆっくりと裏返した。
もう、その冷たい液晶のブルーライトに顔を照らされるのは嫌だった。
そんな光に照らされて、無責任な空気のなかで目をつぶる人間には、絶対になりたくない。
「ひいじいちゃんも、真壁刑事さんも……ばあちゃんも。みんな、一人でその暗闇を見ていたんだね」
和也は顔を上げ、シズの深く、透き通った瞳を見つめた。
「でも、その電球は、今も消えずにここを照らしてる」
和也は、天井からぶら下がる電球をじっと見上げた。
熱を含んだ橙色の光が、和也の瞳に小さな丸い像を結んでいる。
「ばあちゃん。もっと聴かせて。
おじいちゃん(シズの旦那)は、この電球を前に、どんな風にばあちゃんの目を見つめたの?
この頼りない二十ワットの光の下で、二人はどんな約束をしたの?」
シズは小さく頷き、かつて激動の昭和を共に生き抜いた、亡き夫との日々に思いを馳せるように、優しく微笑んだ。
(第3話・完)
あなたの身の回りで、特定の誰かや意見が一斉に非難され、炎上しているとき、あなたは周囲の「空気」を恐れて、自ら目をつぶり、沈黙していませんか?誰かを叩く群衆に同調して、自分の良心に嘘をついてしまったことはありませんか?
第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n5b9e53395f98
第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nf5d23309faed
英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n23d8bb9b611f
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。💗
