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【表層的リアリズム】地政学が流行り、構造論は無視される(後編)──二つのマキャベリズム対比と戦術・戦略・政略、三つの層

現代の地政学ブームから紐解く、骨相学からナチズムの系譜とマキャベリズムと韓非子を消費するリアリズム層批判(後編)

※本稿は前編・後編の構成の後編です。前編は下のリンクです。



第四節:韓非子と荀子の対比──そして「お題目」が選ばれる理由

東洋思想においても思想的に非常に近しい対比があります。

・韓非子=「君主論」的立ち位置

戦国時代末期の思想家。人間の本性は利己的であり、徳や礼(=個人の素養)による統治には限界があると論じました。故に、法・刑罰・術(権術)によって統治すると主張しました。

韓非子の核心は「術」です。君主が臣下と民衆を操るための技術・謀略・権術。情報の管理、賞罰の使い分け、権力の集中。指導者の「術」の巧みさが国家の命運を決めるというものです。

これは君主論的マキャベリズム・地政学的思考と構造的に一致しています。個人の能力(術)が政治を動かすという世界観です。

しかし韓非子を「術」の象徴として消費する層の多くが、韓非子の著作の経緯を知らない。韓非子は秦の始皇帝に招かれながら、嫉妬した同門の李斯の謀略によって獄死したのです。「術」を最も深く論じた者が「術」によって殺された。この逆説が何を示すか?術(個人の権術)は、より大きな構造的権力の前に無力だという事です。韓非子自身の死が、術の限界を証明しました。

さらに韓非子は「術」だけを論じたのではありません。「法」と「勢」を合わせた三本柱が法家統治論の本体だ。「法」は制度的規範であり、「勢」は構造的権威だ。韓非子の思想は個人の能力(術)だけでなく、法(制度)と勢(構造)を組み合わせることで初めて統治が成立するという論理を持つ。しかしながら、その「勢」を「君主のポジションが持つ権威」という個人的属性に求めたところに韓非子の限界がありました。

「術」だけを取り出して「韓非子的リアリズム」と呼ぶことは、韓非子の半分も読めていないのです。

・荀子=「ディスコルシ」的立ち位置

韓非子の師にあたる思想家。人間の本性は悪だが、礼(制度・規範)によって善に向かい得ると論じました。そして、韓非子の「勢」に当たる部分を「構造的」に設定していたのが荀子です。

荀子の核心は「礼」にあります。礼とは単なる礼儀作法ではなく、社会的規範・制度・秩序の総体=構造です。この礼という制度的枠組みの中に置かれることで、人間は変わる。構造が人格を規定するという命題の東洋的先駆なのです。

「人之性悪、其善者偽也(人の本性は悪であり、善なるものは人為的なものだ)」という荀子の命題は、人間が本性として礼(制度)に関係なく善を持ち得るという楽観論を否定し、だからこそ礼が必要だという論理を立てました。

韓非子から荀子への関係を整理すると、韓非子は荀子の弟子でありながら、師の「礼(制度)が人間を変える」という命題を「法(強制)」に転換し、「勢(君主の権威)」という属人的な要素を立てました。これは、共和制というものを知り得ない当時の中国の歴史的事情を考えれば、必然であったかもしれません。

そして、韓非子は概念的だった師の思想を当時の時代背景に沿う形で、個別具体的な「術」という形で精緻に表現したのです。ゆえに当時の時代背景的には合っていても、現代の事情に照らしわせると必ずしも合っているとは言えない方法・表現も多く、引用・参照には注意が必要なのです。

韓非子自身は「凡庸なリーダーでも機能する客観的システム(法・勢)」を目指したはずでした。しかし、そのシステムの頂点に「君主の絶対的権威(勢)」という代替不可能な属人性を残してしまったがゆえに、後に彼自身の死と秦の滅亡という二重の悲劇を招き、後世(そして現代)においては、構造論ではなく、君主が部下を操るための「術論(属人的リーダーシップ論)」としてのみ都合よく消費される結果になってしまったのです。

こうした、荀子から韓非子への抽象から具体への転換は、結局、師の打ち立てた、構造論から個別・具体的な術論への退行となってしまいました。しかし地政学・リアリズムを語る層はこの退行の問題を認識しません。師の荀子より弟子の韓非子を好むのは、術論の方が能力主義・リーダーシップ論と整合するからです。

・なぜ「お題目」が選ばれるのか

連載記事『民主主義という名の隠れ蓑』で論じた「善意の最適化の積み重ね」という命題が、ここでも機能する。

君主論と韓非子の「お題目」(強い指導者への依存)は、現在の権力者にとって都合がよい「お題目」です。「優れたリーダーが必要だ」という処方は、現在の指導者層の存在意義を正当化します。一方、ディスコルシと荀子の「神髄」(優れた制度への依存)は、現在の権力者にとって不都合です。「制度を変えよ」という処方は、現在の指導者層の権力基盤を問い直すものだからです。

意図的な歪曲ではく、使いやすい部分だけを取り出すという合理的行動の結果として、著作の本来の複雑さが失われる。構造からくる善意の最適化の積み重ねが、「お題目の消費」という知的退行を生むのです。

連載記事『民主主義という名の隠れ蓑』で論じたデューイ・ミル・トクヴィル・ハーバーマスという西洋の思想的系譜と、荀子・ディスコルシという東洋・ルネサンスの思想的系譜が同じ命題に到達しています。これは、時代・文化・思想的立場を超えた独立した到達です。そして、独立した思想的系譜が同じ命題に到達しているという事実は、その命題の普遍性の証明でもあるのです。

しかし、その事実は研究者等の特殊な層にしか届いていません。地政学・リアリズムという流行語の消費層には届いていません。これは連載記事『なぜ構造論は無視されるのか?』で論じた「構造論の抑圧」の知的な側面です。


第五節:戦術・戦略・政略という三つの層

これが本稿の核心的概念です。

多くの政治分析は、戦術と戦略という二層で思考しています。しかし政略という第三の層を加えたとき、問題の本質が見えてきます。

・戦術(Tactics):個別の状況への対応

個別の状況でこの手をどう打つか?局面の問題。短期的・具体的・可視的な対応です。

韓非子の言う「術」の層です。地政学的分析の多くはここに留まっています。「ホルムズ海峡をどう通るか」「この国とどう交渉するか」「代替調達はどうするか」「この危機にどう対処するか」という問いです。

前稿で論じたホルムズ危機において、日本政府が考えていたのはこの戦術レベルです。「艦船を派遣するか」「個別交渉をするか」「有志連合に参加するか」「調達先をどこにするか」「国内の説明をどうするか」という問いだ。

・戦略(Strategy):複数の戦術を統合した目標の実現

どの戦術の組み合わせで目標を達成するか?中期的な問題です。

君主論的マキャベリズムはここまで到達します。「どのような外交的配置で国益を最大化するか」「どのような同盟関係・人間関係を作るか」という問いです。地政学は戦略的思考の道具を提供しようとする試みとも言えます。つまり、地政学は戦略における、地理的要因=戦略的要衝という従来からある言葉の言い換えであるとも言えます。

しかし戦略もまた、より深い層によって規定されます。

・政略(Grand Strategy):戦術と戦略を規定する構造の設計

今ある制度・規範・同盟の枠組み、社会の仕組みはどのようなものか?そして、どのような制度・規範・同盟の枠組み、社会の仕組みを作るか?今、手元にある材料は使えるか?使えないなら、使えるような仕組みをどう構築するか?あるいは、使える手を創造するために、新たな枠組みを作るか?長期的・根本的な問題です。

構造論・ディスコルシ的マキャベリズムはここを論じます。「どのような制度的環境を作れば、個別の戦術・戦略が自然に最適化されるか」という問ですだ。

・戦術も戦略も、所詮は政略に規定される

これが本稿の核心命題です。

いくら優れた戦術を持っていても、その戦術を生み出す意思決定システム(政略)が機能不全なら、優れた戦術は生まれない。いくら優れた戦略を描いても、その戦略を実行する制度的基盤(政略)が欠如していれば、戦略は絵に描いた餅です。

連載記事『相場師が大統領になった日』で論じたホルムズ危機における日本の失敗を、この三層で読み直してみます。

日本は戦術レベルで失敗したのではない。アラグチのオファーへの応答・NHK支局長問題の活用・有志連合への対応、出光丸、エネオスタンカーの海峡通過という個別の局面で、適切な戦術的選択肢は存在していました。

日本は戦略レベルで失敗したのでもない。「日本が仲介者になり復興パートナーになる」という戦略的構想は、私ような市民や一部の言論空間の声が正確に描いていました。

日本は政略レベルで失敗した。「米国が明示的に許可するか、国際的枠組みの中に明確に位置づけられるか、のどちらかが無ければ独自行動できない」という外交意思決定システムの制度設計が、戦術的・戦略的可能性を全て封じたのです。

制度設計(政略)が戦術も戦略も規定したのです。

この問題は、今の改憲論議や、防衛力強化の動きにも接続します。これらの議論の中でしばしば聞くのが、「国家としての自立」ですが、そもそも自律的外交態度を取り得ない構造的・制度的背景を放置したまま、憲法の一部を変更し、武力の強化を行ったところで、国家としての自律性を得られるはずもありません。なぜなら、個々の憲法改変や防衛力強化はどこまでいっても「戦術」の層に過ぎず、それ自体に「政略(構造)」を突き動かす動かす力など無いからです。

地政学の本質的な限界は、それが常に「与えられたチェス盤(枠組み・仕組み・ルール)の上での駒の動かし方」しか論じられない点にあります。山があり、海峡があり、隣国があるという「与えられた地理(環境)」を前提とする以上、地政学が描き得る最高到達点は「その盤上でどう勝つか(戦略)」でありません。

しかし「政略」とは、チェス盤のルールそのものを書き換える、あるいは新たなゲームの枠組み(国際規範や制度)を自らデザインする試みです。地政学を語る者がどれほど現実主義者を気取ろうとも、彼らは「他人が作ったゲーム・ルールの奴隷」であることから一歩も抜け出せてはいないのです。


第六節:表層と深層と地政学の流行

地政学的・君主論的分析が「表層」に留まる理由を整理します。

・表層的理解:事象の記述

「ホルムズが封鎖された」「トランプがこう言った」「中国がパキスタンを使った」「日本が外交的に委縮した」。

これらは事象の記述だ。何が起きたかの答えを与えるが、なぜ起きたかの答えを与えません。地政学は事象の記述に優れた道具を提供します。もっと言えば、起きた事に対して事後的な説明をします。しかし「なぜ」という問いへの言語を欠いています。

・深層的理解:構造の認識

「なぜホルムズが封鎖されたのか?」:イランの生存戦略と米国の経済的コスト計算という構造。

「トランプの行動を規定している論理は何か?」:相場師としての価格連動型行動様式という構造。

「なぜ中国がパキスタンを使ったのか?」:CPEC・25カ年投資計画・ペトロダラー代替という構造。

「なぜ日本は外交的に委縮するのか?」:外交意思決定システムの制度設計という構造。

連載記事の論考群全体がこの「深層の構造認識」の実践でした。筆者が「状況ではなく構造を見ろ」と繰り返したのは、

戦術=表層=状況。政略=深層=構造。

という、地政学的な表層分析から構造論的な深層分析への転換を意図しているからです。

・なぜ地政学が流行るのか?

なぜ「地政学」という言葉が流行するのか?の問いは、連載記事『なぜ構造論は無視されるのか?』で論じた「抑圧の五つの構造」に接続しています。

地政学は権力者にとって都合がよいのです。「地理的条件という不変の現実がある、だから強力なリーダーシップが必要だ」という論理は、能力主義・リーダーシップ論と完全に整合しています。「地政学的必然」という言葉は、権力者の政策選択を「客観的な地理的現実への対応」として正当化する機能を果たすのです。

さらに地政学は、構造論という「不都合な真実」から目を逸らせる機能を担っています。

「なぜ日本は外交的に委縮するのか」という政略レベルの問いは、日本の外交意思決定システムという制度設計の問題を暴露します。これは権力者にとって不都合です。なぜなら、「ホルムズという地政学的地点で何が起きているか?」という戦術レベルの問いは、政治的コストの非常に高い制度設計の問題を回避したまま論じられる為です。

日本が政略レベルで失敗し続けているのは、誰かが悪意を持って邪魔をしているからではありません。ここでも「善意の最適化の積み重ね」が機能しています。 「米国のお墨付きがなければ動けない」というシステムは、裏を返せば、「独自の政略(制度設計・長期的ビジョン)を構築するコストと、その責任をすべて外部にアウトソーシング(外注)できる」という、日本の官僚・政治機構にとって極めて合理的で痛みのない最適解なのです。主体的思考を放棄することによって得られる目先の安定。この「依存の最適化」こそが、日本から「政略の言語」を奪い去った真犯人だと言えます。

地政学ブームは、連載記事『なぜ構造論は無視されるのか?』で論じた「能力主義による構造論の抑圧」の現代的発現です。構造論が政策において周辺化されるのと同じ構造的理由で、インスタントに物事を判断できる地政学が流行し、知的コストの高い構造的分析が忌避されるのです。

またメディアとの親和性も重要です。「地政学的な場所」「地政学的競争」という言葉は、複雑な構造的要素を単純な可視的要素に変換します。地図上で示せる。視覚的に理解しやすい。これはメディアの情報伝達の論理と整合しています。深層の構造は可視化が困難ですが、地政学的地点は地図上に赤い矢印で示せるのです。

連載記事『民主主義という名の隠れ蓑』で論じた「劇場型報道と地政学的分析の親和性」がここに確認できます。どちらも表層の可視性を優先し、深層の構造を見逃しています


終章:政略という言語の回復

戦術と戦略だけでは、政略的問題は解けません。

今回の連載論考群全体を通じて論じてきた問題を振り返ります。外交の失敗・政党政治の限界・民主主義のリテラシーの欠如・構造論の抑圧。これらは全て政略レベルの問題です。そして、制度設計の問題でもあります。

地政学という流行語が与える言語は、この政略レベルの問いを立てる道具も方法論も持ちません。地政学で考える限り、「次の危機にどう対処するか」という戦術・戦略の問いしか出てきません。「そもそもなぜ危機に能動的に対処できないのか」という政略の問いは出てこないのです。ゆえに常に表層の議論に終始し、問題は解決しないのです。

マキャベリは君主論とディスコルシという二つの著作を書きました。前者は戦術・戦略を論じ、後者は政略を論じた。現代の地政学ブームは前者だけを参照し、後者を忘れました。

荀子は「礼(制度)によって人間は変わる」と論じた。韓非子は「術(権術)によって君主は統治する」と論じました。現代の地政学的思考は韓非子的術を重んじ、荀子的礼を軽視しています。

デューイは「民主主義は生活様式であり、参加によって形成される」と論じました。地政学は参加ではなく権力の地理的布置を論じている。市民の政治的知性ではなく指導者の戦略的判断と必然性を論じています。

「状況ではなく構造を見よ」

この言葉は戦術から政略へという認識の転換の要求です。同時に、地政学という言語から構造論という言語への転換の要求であり、君主論的マキャベリズムからディスコルシ的マキャベリズムへの発想の転換の要求であり、韓非子的思考から荀子的思考への思考の転換の要求です。

そして今回の論考群が示した問いに戻ります。

ホルムズ海峡で2万人の船員が閉じ込められていました。日本はそれを論じる政略的可能性を持っていた。しかし政略を論じる言語を持つ者が圧縮され、地政学的表層分析が公論空間を占めた。

地政学が流行り、構造論が無視される。戦術が語られ、政略が封印される。表層が可視化され、深層が隠蔽される。

この構造こそが、民主主義という看板の下で政党政治が自己利益を追求し、優れた制度が設計されず、市民の政治的知性が開放されないという問題の、最も深い認識論的根源なのです。

政略という言語を回復することが、今この時代に必要な今この時代に必要な知的営為なのです。


本稿は連載記事「相場師が大統領になった日」「民主主義の脆弱性」「なぜ構造論は無視されるのか」「民主主義という看板の隠れ蓑」「後記:先行研究との出会いについて」と合わせて読まれることを意図しています。一連の記事を通じて、ホルムズ危機という具体的な外交的失敗から、民主主義の制度的転換、そして地政学的思考の限界という認識論的問題へと論旨が展開します。是非ご覧ください。

単満男(ひとえ みつお)/『純粋資本主義批判』事務局 note.com/jrh_jimukyoku 2026年6月4日

関連記事・連載記事リンク集

※本記事の前編記事「地政学は流行り、構造論は無視される(前編)」

※「相場師が大統領になった日」

※「民主主義の脆弱性」

※「なぜ構造論は無視されるのか」

※「民主主義という看板の隠れ蓑」

※「後記:先行研究との出会いについて」




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