入江泰吉記念写真美術館にて
緑のラインを颯爽と走る鹿のマークの電気バスは、観光客の多い興福寺周辺の道を抜けて、若葉かげの春日大社の方へ、音も立てずにすうっと進んだ。
その日、入江泰吉記念写真美術館に行こうと思ったのは、このごろ写真熱が上がっていたというのはもちろんあるが、それよりも、この展示の「大阪時代の文楽」というテーマに惹かれていたからで、その会期が迫っていることを思い出し、思い立って出かけたのだった。文楽がモチーフでなければ、わざわざ奈良まで足を運んではいなかったと思う。
梅雨晴れ間の明るい空、子鹿を連れた母鹿を横目に、バスは観光客のほとんどない木陰を抜けて、土壁の細道に入る。浮見堂の辺りまでくると奈良の都を思わせるなだらかな丘陵地になり、この辺まで来ると、観光客を見上げてお煎餅をねだる鹿はいなくなり、頭を垂れて草をはむ「神様のお使い」としての鹿の姿が増えてくる。
目的地の、写真美術館は「高畑町」にあるが、バスは「破石町」で降りる。もう少し先まで行くと、「帯解寺」というお寺もあり、「高畑」とか「破石」「帯解」と言う名にも、天平の、朴訥とした神話的な奈良王朝の息吹を感じる。

バスを降りて閑静な住宅街をまっすぐ歩き、右に曲がるとすぐ写真館がある。入江泰吉といえば、万葉のふるさと「大和」を撮る写真家として有名だということを、私は白洲正子さんの随筆で知った。
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写真展は、蛇腹カメラを構え、被写体を見据える入江泰吉本人の写真からはじまった。たしか、カラー写真はこの一枚で、それから先はモノクロームの世界。展示されていた文楽の写真は、前に記事にも書いた森山大道のスナップ写真とは違って、ある程度用意されたもの、場所で撮影されているもので、文楽人形たちはありのままに、愛おしく写っていた。
モチーフの良さに依るとはいえ、飾り気や衒いのない素朴な画風には、人形という「作り物」の無表情の奥に感じるさまざま、例えば歌舞伎で着物を着せられた子役が出てくるとき胸の奥にキュッと感じる愛しさや、それでいて、やはり人間の子とは違う、能面のような奇妙な趣、人形たちとともにある人形使いの手や、舞台ように特別に作られた箱のような下駄などの道具のより人間味のあることなどが、そのまま捉えられている。
が、それ以上に、私が驚いたのは、この日見た写真が、私が普段見ていた「写真」とは違っているということだった。
平成の真ん中に生まれた私にとっては、snsにせよニュースにせよ、写真といえば情報を伝えるツールであることが多く、こだわりのある写真であっても、日々のこと、特別な出来事を伝える媒体であることが多かったのだ。写真家の写真も、写真集などで見ることはまれ、小さい画面の中で見ることがほとんどで、それでも「写真」を味わっているつもりだったが、それとはまた異なる「写真」の存在を初めて知ったのだった。
写真に精通して、よく写真展へ行く方には珍しくも何ともないことかもしれないが、実は私は、これまで、写真展に行かずとも、写真は写真集で見れるのだからそれで十分、とばかり思い込み、展示に行くのは今回が初めてで、それだけに写真の新しい側面との出会いは、とても新鮮だった。
印画紙に焼きつけられた、かつての文楽座や人形たちの写真には、一枚の絵としての味わいがあり、禿の人形の簪一つとっても、光の粒が白く光って、じんわりとしたフレアがあり、さながら、墨絵を見ているよう。写されたものが、景色でもなく旅の記念でもないところが、絵画を思わせたのかもしれない。あるいは、かつて画家を志していたとあったから、写真家の作画によるのか、それとも印画紙によるのか…
細かいことはわからないが、何の言葉も感想も哲学も持たず、ただ白と黒の粒子で焼き付けられた一枚の絵を、じっと眺めていたいような気持ちになった。

ミュージアムショップ(という名のささやかな販売所)で、展示されていた写真が収録された、昭和二十二年の「写真集文楽」の復刻版を買い、生駒山を越え萌黄の田んぼ道をゆく列車の中でひらいたが、それはやはり「図版」なのだった。
今日見たものの中から、たとえばあの下駄の写真、二人禿、劇場の様子、どれか一枚でも部屋の壁にかけられたら、どれほど幸せだろう。山並みおおどかな田舎道で、建物の密集した中に小さく潜む自分の部屋のことを考えた。
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最近読んだ、文筆家の円地文子さんと白洲正子さんの『けり子とかも子の古典夜話』という対談で、源氏を訳した円地文子さんが「現代語では、あの仮名文字で書かれた巻物にある味わいは出せない。だからそれを目指すのは諦めて、現代語の感覚で訳すと決めた」とおっしゃり、白洲正子さんは「やっぱり活字になることを想定されるでしょうし…」と言っていたが、どのように”表記”されるかで、同じようでも、実は全然違うものを見ることになる。
図版や、画面の中に見るそれらも「写真」であるのだが、同じ「写真」といえども、印画紙にプリントされたものは、こんなにも違うものか。そしてやはり、私はアナログに惹かれるのだった。が、「フィルムを買って現像して…」とまでは手が出せない私にとって、この日、アナログなカメラで撮られ、アナログな方法で現像された写真を見れたことは眼福だった。
文楽、文章、文化…行く先々「文」がついて回るのが面白いが、もともと「きれいな模様を織りなす」という”あや”、あるいは誰かに何かを伝える、”ふみ”。織りなされた縁のなか、思わぬ出会いや発見があることは、とても嬉しい。
展示を見たあと、急遽大阪へ帰ることになって慌ただしくしてしまったが、近くに入江泰吉旧邸もあったらしい。涼しくなったら写真家の旧邸や、そのそばに鬱蒼と広がる杜の奥、春日大社にも訪ねてみたい。


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