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切りかえの音

あと何回通えば気づいてもらえるんだろう。
あとどのくらい続けたら。

たばこの煙を見ながらそんなことを考えていた。
とにかく行かなくちゃ、今日は診察の日だ。

***


「すずこさん、そろそろかしらね」
微笑む夫の母に悪気がないのはわかっていた。

たまに顔を出す嫁が、仕事優先で家事がおろそかになっていると話してもにっこり笑ってくれるお母さん。息子のことはお任せしているからと言いながら、帰りにはいつもたくさんのお惣菜を持たせてくれた。

私の実家近くに引っ越すと決めたときには、寂しさを隠さず、それでも最後には2人の好きにさせてくれた。

優しいお母さんが好きだった。

だから、期待には応えなければならない。

会社を辞め、36で結婚した。退社後は同僚のフォローのおかげで、打ち合わせ以外は在宅ワークとなった。時間をやりくりできるようになったのはよかったけれど、今まで続けてきた企業の販促物作りはチーム作業が基本。まだオンラインも主流ではない頃だったから、仲間と距離がある中で働くのは思った以上に大変だった。

今まで誰かがやってくれていたマシンの不具合も自分でなんとかしなければならない。勝手なアイデアを形にしてくれる仲間はそばにいない。軌道に乗せるまでは余裕のない日々の連続。でもなんとかやり切らなくては。ただただ必死だった。

そんな私を見て、夫はよく外食に連れ出してくれた。お気に入りは近くの小料理屋さん。カウンターでご主人が作るおすすめの料理を食べながら、こんな風に2人で年を重ねていくのも素敵だなと思っていた。

夫とは結婚前に子供のことを話し合っていた。私は保育科を卒業するくらいには子供が好きだったけれど、広告業界で長く働くうちに自分の子を授かるのは難しいと思うようになっていた。夫は子供を望んでいたものの、私の意思を尊重してくれて、今のペースで仕事を続けることを応援してくれた。

義母の口から、そろそろかしら、というセリフが出るようになったのは結婚して2年を過ぎた頃。なぜ今さら?私はもうあきらめているのに。

夫は気にする必要はないと言ってくれた。でも気にしないでいられるはずがない。お母さんは若くして家庭に入り子供を産んだ。私の年齢や仕事がどうとかそういうことではない。結婚したら子供を授かり、家族が増えていくのが幸せだと体感してきた方だから、世間一般は別としても息子夫婦はもちろん同じ思いだと信じている。屈託のない笑顔を見たらそれくらいわかる。

私は婦人科に行くことを決めた。検査をして必要であれば治療をして、それでも縁がなかったらあきらめる。それなら納得してもらえるはずだ。夫に話すと私が決めたのなら協力すると言ってくれた。

そんな思いで始めた通院だったのに。

なんでこんなに辛くなっちゃったんだろう。

待合室にいる幸せそうな妊婦さん。一緒についてきた子供たちの笑い声。診察室のドアが開いたときに聞こえる心音。

夫婦2人でもいい、そう思った気持ちは本当。でもやっぱり私は。

病院が終わったとメールを送ると、夕飯行こうか、と返事が来た。どうだった?と聞かずに誘ってくれる夫の優しさに何度救われたことだろう。

***


今月は忙しくて体温もちゃんと測れなかったし。
引っ越し準備もあって重いものも結構持っちゃったからな。
1ヶ月休憩ってことでいいよね。

自分に言い訳しながら たばこを消して家を出た。結局、禁煙もできないんだから、通院が辛いなんて言う資格はない。

病院の待合室はいつものように幸せな笑顔であふれていた。小さな女の子が絵本を読んでいる。年中さんくらいかな、かわいいな、と思っていたら名前を呼ばれた。

診察台に乗る。何度座っても苦手だ。こればかりは慣れることはないだろう。

じゃぁ診るね、という声のあと器具を入れてのエコー検査が始まった。
モニターに画像が映し出される。


「おめでとう」

一瞬、耳を疑った。

「ほら、動いてる、これが赤ちゃんの心拍ね」

え、あ、え、

うまく声が出なかった。でもちゃんと見えた。動いてる、私の赤ちゃん。

「おめでとう、よかったね」

カーテンの向こうから先生の声が聞こえていた。
はい、と答えたような気もするけれど、よく思い出せない。


その日も夫は夕食に誘ってくれた。食事を終えてコーヒーを飲みながら怪訝そうな顔をしているのがおかしくてちょっと笑ってしまった。いつもなら真っ先にたばこに火をつけるのは私だから。

「あのさ、赤ちゃん、できたって」

夫が飛び上がった。大袈裟ではなく本当に椅子から飛び上がった。私の両手を握って大きく上下に振りながら、よかった、よかったと言ってテーブルのこっち側まで飛んできた。

やっぱり子供が欲しかったんだね。でもほら、ほかのお客さんびっくりしてるよ。

あはは、と2人で笑ったあと、バッグからロングのボックスを出して夫に渡した。セブンスターから紆余曲折、なんとか1mgまで落としたものの、どうしても手放せなかった たばこ。でももういらないから。

そういえば、かわいいパッケージのあの たばこ、あのあとどうしたんだろう。

さすがに覚えていないよね。


16歳になった息子は たばこを吸っていた私を知らない。正確に言うと、たばこを吸っていたことは知っているけれど、ピンとこないらしい。

自分は何も変わっていないのに不思議だなと思う。確かに生活はラクになった。火の始末に気をつかう必要がなくなったし、吸わない人との食事もストレスフリー。どんな集まりにも気楽に参加できるのはこんなにもうれしいことだったんだ、なんて思ったりして。

あれ、やっぱり変わったのかな。


昔の私が大切に抱えてきたものと、息子が結んでくれた新しい縁と。私の今はそういうものでできている。新しい出会いの輪には息子を取り巻く環境の中でお世話になった人々がたくさん入っているけれど、それだけではない。息子が見ている景色、聞いている音、好きなもの、大切に思うもの、そういうものまでたっぷり詰まって鮮やかだ。私1人では見つけられなかったものばかり。

あの日、私の中で動いていた小さな命。
実を言うとあの診察台でどんな心音を聞いたのかまでは覚えていない。でもしっかり瞳に飛び込んできたあの心拍は、はっきりと私の人生を新しい道へと導いてくれた。


分岐点を過ぎてその先の世界へ。
今、その道の途中を歩いている。






こちらの企画に参加させていただきます。


noteはやめない、そう思いながらも心に余裕がなく、何も読めず、何も書けずの数ヶ月。数日前、ふと思いたってページを開いたときに、偶然 こちらの企画を知りました。

らんさんだ!書きたい!

そんな思いから書きはじめた文章。本当に仕上がるのか心配でしたが、進めていくうちに忘れていた気持ちがあふれ出てきて、あの日感じた心を、はっきりと思い出すことができました。

十数年も経てばいろいろなことが起こるし、隣にいたはずの人との距離も変わりました。でも、どんなに環境が変わっても切れない縁というものもちゃんとあるんですね。

目に見える形は関係ないのかも、なんて思うのは、年を重ねたせいでしょうか。

らんさん、初企画、おめでとうございます。
素敵な企画に参加させてもらえてうれしいです。
ありがとうございました 。



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