99:1 ⑲
まなざしは事情を察していた。触れてこなかった部分。パルメザン自身も避けていたが、唯一過去を知っている祖母に事実を教えてもらうしかなかった。
「おばあ様も知っているでしょう。アンドロギュノスの完全体が発見されたこと。連日ニュースで報道していますから、当然聞いてますよね?」
ええ、と祖母は頷き、角砂糖をひとつカップに入れた。「知っているわ」
「彼女は妊娠しているそうです。受精が確認されたと先方の病院から報告がありました。彼女は性別手術を受けていません。両性を具有した状態のままで受精したんです。この目で診察したわけではないので、彼女の身体が現在どういう形になっているかは分かりかねますが、初の事例であるのは間違いありません。しかも自然妊娠です。このまま十月十日を経て無事出産を迎えられるかは定かでありませんが、アンドロギュノスは極めて短命で、かつ生産能力がないと言われていた定説を真っ向から覆しました。なによりその子は無菌室など一度も入らずに育っています。これは医療関係者や科学者を驚かせただけでなく、世界中に衝撃を与えました。両性具有者は、常に二つの選択肢しかない環境に置かれる存在だったからです。男女どちらかのみを優遇する国では混乱を招く異分子として抹殺され、 そうでない国では性別手術を受けられる年齢までは完全隔離されます。免疫不全で感染症に掛かりやすいと言われていたからです。私も四歳まで無菌室で育ちました。防護服を着た両親とアクリル越しに面会する寂しい日々を過ごしましたよ。触れあいもなく、まるでこちらが病原菌のように真っ白な部屋にひとりきりでした。冷たいベッドで体を丸めながら眠った夜を今でも覚えていますよ。そしてある日手術が行われた。私の中にあった子宮という臓器が取り除かれ、男という性を与えられてようやく外に出られるようになりました。両親が私を男にしたいと望んだからです。子供だった私に選択権はなく、男女の違いすら分かっていませんでした。外に出られるならなんでもよかったんです。けれど自我が生まれる前に性別手術をするのは果たして正しいことなのでしょうか。定説を信じるあまりに繰り返されてきた習慣。科学者の怠慢ではないのですか。私は彼女の受精の報告を聞いてどうしても知りたくなったのですよ。あのまま私が成長していたら、両性具有のまま大人になっていたら、私自身になにが起きていたのかとね。心と身体。脳と器官はどこまで混乱しながらその機能を果たそうとするのか。自身はどちらの性別と認識するのか。生理や欲求やホルモンバランスをどうコントロールしたのか。今も私の腹に残っている小さな傷跡がここ最近疼いて仕方ないのですよ。摘出したのは子宮ではなく自由です。なぜこの国は性別の平等性を一貫しているのに「両性具有者」という第三の性については受容しなかったのですか。おばあ様は当時研究所におられた。アンドロギュノスを何人も見てきて、彼等の生態に誰より詳しかったはずです。なぜ彼等の可能性をもっと信じなかったのか。私が私を知る権利として明確な答えを求めております」
パルメザンは膨らむ呼吸を最小限に抑えて吐きだした。自身もアンドロギュノスとして生を受けたパルメザンは、性別手術によって男性になった。子宮を摘出し、二十年間男性ホルモン注射を打ち続け、自他共に男性と識別できる身体になった。髪が生え、声が低くなり、脂肪より筋肉がつきやすい。 遺伝子検査でもXXと診断され、男性器も正常に機能し、精子も作られる。
だがずっと拭えない違和感。お喋りより仕事を。着飾るより孤独を。甘い食べ物より苦いコーヒー。これはどちらの起因によるものかと考える。男だからなのか、男にさせられたからなのか。意思とは無意識なのか信号なのか分からなくなるのだった。
「私自身の手で彼女を検体検査したかったのですが、妊婦の渡航は世界規約で禁じられているので断られてしまいました。おばあ様はこの一件をどう見ますか。彼女の子宮は未成熟で、ある程度まで育った段階で母子共に限界を迎えて死に至る場合もあります。けれどもし出産をすれば新しい人類が誕生したことになります。子供を宿せるアンドロギュノスは珍しい症例ではないのかもしれない。私の体にも空洞があります。その部分は決して埋まることはありません。亡くなった両親や、おばあ様を責めているわけではありません。あなた方も決断を迫られていた。私の命を長らえるために選択せざるを得なかったのでしょう。ただあのアンドロギュノスが見つかってから、私の存在はどこまで私のものなのかと考えずにはいられないのです。捨てられた子宮も私自身だからです。男性を愛する男性、女性を愛する女性。トランスジェンダー。性の選択は生き方の選択に直結します。私が男として生きてきたのはそれしか残らなかったからです。三十四年前には遺伝子研究もかなり進んでいたはず。なのに両性具有のまま大人になれるかと証明しなかったのですか」
コーヒーをかき混ぜていた祖母は「あなたを実験台にできるわけないでしょう」と押し殺すように言った。
「アンドロギュノスの九割は知的障害を持って生まれるわ。現在隔離されている子もそうと聞いています。白痴でなければ耐えられない現実を突き付けられるからよ。昔一度だけ、 健常者の両性具有検体に一般的な知識と教育を施して養育する実験をしたの。思春期になった時、男性の体はこうで、女性の体はこうなってる。あなたにはどちらもあると詳しく説明をしたわ。その翌日から無邪気さが消えたの。他者に接する時にどちらの性で接していいのか分からなくなってしまったからよ。自分を「僕」と呼ぶ女の子は女の子だからこそ使えるアプローチに過ぎない。 本当にどちらも持っていたら「主語」すら迷う。常に嘘と本当が同居する状況。その子はある年齢に達してから、なにも興味を持たなくなって、ひたすら自分の性にだけ関心を寄せるようになったわ。来る日も来る日も自慰をして、どちらがより快楽を得られるのか没頭するようになったの。あげくには自分ひとりで自分を妊娠させられるかという実験に夢中になってしまってね、精神的にも肉体的にもこれ以上の負荷を掛けられないと判断して性別手術を行うことにしたの。その子は最後まで性別を選べなかった。適性検査を繰り返して、器官の発達具合で決めることにしたわ。それで結局女性になった。性への依存が強かったから犯罪を起こさせないために私達が判断したの。手術の後に彼女に言われたわ。もっと早くにこうしてほしかったと。欲望を覚える前に決行してほしかったとね。私たちにとって苦い記憶であり教訓ともなった経験だった。あなたを男にしたのはみんなの判断よ。頭が良くて冷静、数学的思考が強くて、お人形よりパズルや勝敗のあるゲームが好きだった。生き物への関心も高くて、 虫や植物を育てたり観察するのも得意だったわ。なにより男の子の顔をしていたの。行動パターンなども細かく分析して、男の子の方が生きやすいと思ったのよ。今も選択を間違ったとは思っていない。あのままあなたを大人にしていたらきっと狂ってしまった。私は多くの生死を見てきたわ。今回がレアケースなのよ。稀な症例を計りに私たちが犠牲者を生んできたような物言いは止めて。最善を尽くしてきたわ。彼等にも、あなたにもね」
コーヒーを飲み干したパルメザンが席を立とうとした刹那、祖母は手首を掴んだ。
「あなたが汚い老人に装って他国を回っているのは、あなた自身の中にある女性性を排除するため?疎まれて卑しい者のように見られることで、女性なら耐えられない尊厳への強度を試しているの?あなたは確かにかつては女でもあった。手術を受けたとしても、心や脳に影響が残っているのは珍しくないことです。折り合いを付ける難しさに直面することもあるでしょう。けどそれも含めてあなたなのよ。多方面からの視野と分析力を備え持った特別な力と認めてあげなさい。パルメザン、私をごらんなさい。こんなに髪は真っ白で顔もしわくちゃ。けど私は恥ずかしいなどと少しも思っていませんよ。私は私。私を幸せにできるのも不幸にできるのも私次第。まずは自分を愛することです。男であろうと女であろうとその気持ちがなにより大切なのよ。自分を卑下したり自傷行為などしてなにが生まれますか?人は強くなくたっていいの。短所もあって当たり前。けれど自分を否定してはだめ。私だってまさか世界最高年齢になるまで長生きするとは思わなかった。二十年前にはとっくに死んでる算段で生きてきたから、少々のずるいことや悪いこともやってきたわ。こんなに長い反省の時間を与えられると思ってませんでしたからね。でも今はこの運命に感謝してる。ひとつでも多くの出来事を見てやろうと思っているわ。あなたが両性具有者として生まれたことにもちゃんと意味があるのよ。アンドロギュノスは神の子。私達には踏み入れられない神殿があなたの中にあるはず。それを大切にしてちょうだい。パルメザン。私はあなたが何者であろうと愛してますよ。それだけは決して忘れないでいてね」
九十三歳の老人の握力とは思えぬ力強さだった。サッと引いたのは痛いからではなく、その力に引き込まれそうになったからだ。パルメザンは祖母に首を下げた。
「お食事中失礼しました。仕事に戻りますのでこれで」
振り向かずに車へと急いだ。胸の中で双頭の蛇が暴れ回っているようだった。自分を愛するなど、失望しながら生きている者にとって何より難しい。人間は孤独な時こそ本当の決断をする。パルメザンは研究所に戻るなり、チームの一員を集めた。
「これからのスケジュールを言う。年内中に人工母体の精度を上げ、受胎期間をこれまでより五十日短縮させる。この国の出生率が下がっているのは、女性のIQが高いせいと言われている。生活レベルと知能の高い人間は子供を望まないのはデータにも出ていて、本国こそがエビデンスだ。だが国を維持するためには人口をこれ以上減らせない。それに役立つのが人工母体だ。あの機械はSSMのロボット版だ。男しか生まれない。XYの染色体はプログラミングされない仕組みになっている。女性が減少しても価値と敬いがあったのは、彼女たちが出産できる種族だからだ。だが近年の女性は母親になる役目を放棄している。なら女性はなんのためにまだ存在している?トイレを二か所作るためか?我々が構造をシンプルにしてやろう。男だけで子供を生めばいいのだ。この人工母体こそが地球の母になる。最優先プロジェクトだ、今すぐ取り掛かれ」
研究員たちは「はい」と返事をし、直ちにデスクのパソコンに向かうと、モニターに設計図を映しだして話し合いを始めた。パルメザンもすぐに過去のデータを見直していると「所長、例のアンドロギュノスの件ですが…」と秘書が話しかけてきた。
「君はどっちだ。パルミジャーノか?レッジャーノか?」
「パルミジャーノです。兄の方です、私は左分け、弟は右分けと先週もお教えしましたが」
「そんなものいちいち覚えてられるか。もうそれはいい。国際手配されたくないからな。 先方はアンドロギュノスの生態を調査するより、無事出産させることを優先してるのだろう。世界が注目する奇跡の賜物を預かる重責は並大抵ではない。女どもが神の子を殺すのか生かすのか、私もここで観させてもらうことにした。もう関わるな」
パルメザンは祖母との会食後に決意した。女を完全に消し去ろうと。アンドロギュノスすら二度と生まれない世界にしてやればいい。同時に奥底に居座り続けているもうひとつの性を消滅したかった。消えそうで消えないたまゆらの灯。理知的に思考したい時も顔を出してくる心配症で粘着質のある感情。それがいつも邪魔だった。時には必要な冷徹な決断を下した後に残る後味の悪さ。とっくに摘出したはずの器官がでしゃばってくるのだ。
うるさい!うるさい!と紙を破くように切り捨ててゆく。女という存在をまとめて抹殺したかった。男だけでも社会は成り立つ。感傷などいらない。他国を何年も偵察してきたからこそ分かったこと。出産を自己判断に任せていたら効率は悪くなる一方。女に頼らぬ社会を作る方が手っ取り早い。女が女を疎ましく思っているなら異存はないはずだった。これからゆっくりと、 けれど確実に女を絶滅させる。まずはこの国から。パルメザンは胸の奥からの問い掛けを無視した。ほんとにいいの?と騒ぐかしましさに耳を塞いだ。
♢♢♢
連日人工母体の改良を重ね、猿の冷凍卵子を使って実験を繰り返した結果、とうとう受精から150日での誕生に成功し、マスコミでも大々的に報じられた。男女比が99:1 になってから各国でも密かに人工出産の研究は行われていたが、倫理上の観点やリスクの 大きさに見合う結果にならないことから取りやめる所がほとんどだった。だがパルメザンはさらなる短縮を目指した。しかし実験は失敗続きで、毎日猿の嬰児を始末する研究員たちにも疲れの顔が滲み出し、ある日三人が同時に退職した。それでもパルメザンは止めなかった。アンドロギュノスなどに子供を生まれてたまるか。それのみが彼を狂信的なまでに突き動かしていた。
150日で生まれた猿は一見成功に思えたが、器官や内臓が未発達だったせいで栄養を吸収できず、二十日で亡くなった。死亡原因を考えながらパルメザンが帰宅すると、祖母が家の前で待っていた。いつもにこやかな祖母だったが、暮れた空の下に立つ彼女には微笑みがなかった。挨拶をする前に「おやめなさい、すぐに。 あんな実験」と眉を潜めた。
「あなたがしていることは生命の冒涜です。子供は機械で生まれるものではありません。人智への侮辱です。こんなことをするためにあなたは研究者になったのですか。軽蔑しますよ、パルメザン」
季節の変わり目になると膝が痛む祖母は赤褐色の杖に両手を乗せていたが、佇まいはまるで貴婦人のようだった。なぜ彼女はいつまでも美しくて年を取らないのかと不思議でならない。SSM以降の平均寿命は七十歳。それをはるかに超える九十三歳という年齢こそが人智を超越している。彼女こそが研究対象になるべき素材で、 本当に人間なのかと確かめたくなる。
「私のしていることは人類の救済です。政府がどんなに子育て政策を充実させても、賢い女性は子供など欲しがりません。 母親という立場になった途端に社会的不利になると分かっているからです。SSMがもたらした結果は女性の総意ではないのですか。人類で二つの性別しかないのに、出産機能を持つ側が役割を放棄したら誰が子供を増やしますか。私は感謝こそすれ、侮辱されることはひとつもしていませんよ」
「あなたの所を辞めた研究員が処理する死骸の数に精神が耐えられなくなったと話してましたよ。あなたには良心の呵責がないのですか」
「まさか私に罪悪感を要求しているのですか?そんなちっぽけなものと戦うほど暇ではありません。今日までの医学の発展は犠牲があってこその進歩です。誰でもマウスが百匹死ぬより自身や家族が助かる方がいいですからね。人類が黙視で数えられるようになってから後悔しても遅いのですよ」
「それで人類が滅びるのなら運命と受け入れます。大切な孫の手を血に染めるより私には簡単です。パルメザン、例え高尚な目的があろうとも侵してはいけない領域があるのです。 このままではあなたからどんどん人が離れてゆきますよ。あなたは確かに孤独が好きだけれど、本当のひとりぼっちになってごらんなさい。どんなに寂しいか。世界中から相手にされなくなることがあなたにとっての勝利宣言ですか?なりたかった自分ですか?まともでないことを続けていたら、元の場所に戻りたくなった時には、もう帰る場所がなくなっているかもしれません。それを失わないうちに正しい決断をしてちょうだい。私はあなたの手術をしたことを後悔していませんよ。当時はまだ両性具有者は短命だった。どちらかを選ばざるを得なかったの。あなたを救いたかったから決行したのよ。あなたから女性の人生を奪ったのは私よ。恨むなら私を恨みなさい。子供を生める女性たちまで滅ぼそうとしないで」
パルメザンは前だけを見ていた。次の言葉を発したら自分が自分でなくなる。懸命に喉の震えをこらえながら息を吸い込んだ。
「悪魔も神が作った存在ならば、生まれた意味があるのでしょう。これ以上墜ちる所もないのなら与えられた場所で働くだけです。 明日も仕事がありますのでこれで失礼します。おやすみなさいおばあ様」
パルメザンは礼をして家に入った。足の悪い祖母をひとりで帰したことに胸が痛む。転んだりしないかと気掛かりなのに飛び出してゆけなかった。
♢♢♢
ひと月後に人間の受精卵を使っての実験に着手した。卵子を提供したのは事情を知らぬ研究所の受付嬢。結婚は望んでいないが子供はほしいという未婚女性に協力を仰いだ。父親となったのは、精子バンクに登録している提供者の中から彼女が条件に見合う相手を選んだ。会社経営をしているハンサムな外国人の男性だった。現在では提供者の情報は全て開示されていた。人口の減少によって知らぬ間に近親者になる確率が増えたためだった。
双方の血縁関係は0%。男性方の備考欄には〈相手方の条件/特になし。誕生後に報告〉と記されていた。面談をして相手を選びたがる男性もいる中、もし子供が生まれたら教えてくれればいいというのは、この実験にうってつけだった。
取り出した卵子は三つ。それを提供者の精子と体外受精させてから、人工母体という名の培養カプセルで胎児を育てる。カプセル内は実際の子宮とほぼ同じ環境。胎児は人工の胎盤に守られながら人工の羊水に浮かんでいる。その間は母親となる人間から採血した血液にアミノ酸などを混ぜた合成液を、へその緒を通じて赤ん坊に送られていた。だが三台用意した人工母体のふたつで受精卵が育たず「流産」してしまい、一台のみが順調に成長していた。まずは成功させるのを目的とし、一般的な胎児と同じく三百日での誕生を目指すことにした。
