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99:1 ⑦


食事が進み、互いに三杯目のビールをおかわりした頃だった。グラスをコースターに戻したパジェロ氏が「さきほどの論文どう思います?」と尋ねた。

「母乳の研究の件ですか?」

セドリックもグラスを置いた。ええ、と氏は頷いた。

「大きい声では言えませんが、以前からその指摘はありました。私も自分の奴隷で精密検査をしたことがありますが、彼女らは確かに骨も腸内環境も我々より強いんですよ。それが母乳を長期間飲むことによって強化されるというのは、正直私も驚きです。長寿記録も十七位までいずれも女で、しかも全員七十五歳以上という驚異的な年齢に達してます。常に我々より質素な境遇にいるにも関わらずですよ。女という生き物は科学では証明できない、底知れぬ生命力があるのかもしれませんね」

「同意ですよ。女性に我々と同等の権利を与えれば、とんでもない能力を発揮する者が出てくるかもしれません。その芽を摘んで潰しているとあれば、それこそが国家的損害です。女性の特性をうまく利用すれば、奴隷以上の働きをなすかもしれませんよ」

「今更奴隷を解放できませんよ。下手に権利など与えれば、必ず歯向かってきます。中途半端な改革はかえって混乱を招くだけです。そっとしておいた方がいいんですよ。出産に耐えるために丈夫に生まれついてるという説もありますからね」 

「痛みに耐えるのが女の仕事ということですか。片足の娼婦になるのが運命だったなんて、僕だったら神父の言葉でも受け入れがたいですがね」 

奴隷制度の話題になるとつい熱が入る。パジェロ氏も黙ったまま、白い泡が残るグラスを持ち上げてぐいと飲んだ。

「セドリックさんもどこかで耳にしたと思うんですが、二月に数学界の長年の謎だった「マークXの定理」を大学教授が解明したと騒がれましたよね。私の同級生なんですが、実は彼の所にいる十九歳の奴隷が解いたんですよ。私その場にいたんです。検算も手伝いましたから。全く無学の少女だったんですが、ある日いきなり五次方程式の解の公式を求めだしたんです。教授の書斎の掃除係をしていて、パソコンにあった問題を見ているうちに数学の能力に目覚めたようなんです。そこで教授が面白がって次々難題を出してみた所、娘は全部解いてしまったんです。それで私を家に呼び「マークXの定理」をやらせてみようと娘に挑戦させると、八時間一度も休むことなく、一心不乱にスクリーンに計算し始めて、とうとう四百年間の長き謎を解明してしまったんです。仰天しましたよ。とはいえ奴隷が表舞台で表彰されるわけにはいきませんから、彼が解明者となったわけです。だから私は危機を感じていますよ。女の隠し持つ力と、あなたのような正義が彼女らの味方になってしまうことがね」

食事の後、カジノにも誘われた。こうなったらなんでも一度は見てみようと、初めて入店した。会場は盛装した客たちが様々な賭事を楽しんでいて、華やかな雰囲気と笑い声がさんざめいていた。

スロット、バカラ、ルーレット、バックギャモン、ポーカー。高価なチップを石ころのようにベットするプレイヤーたち。 ゴールドのビキニ姿で飲み物を運ぶセルヴーズ。慣れた手さばきでカードを配るディーラー。ステージではジャズバンドが「It Don't Mean a Thing」を演奏していた。

スイングしなけりゃ意味がない…か。確かにここでケチケチ遊ぶなど意味がない。とはいえ先立つものがなければ席に着けず、借金してまでやりたいとは思わない。ギャンブルで散財するなら新しい車に乗り換えたかった。

「私はバカラが得意でね。去年は10倍に増やしたんですよ」 

パジェロ氏はほくほくした目で振り向いた。「それはすごい」と驚きながらも、きっと勝つまで止めないタイプだなと心で呟いた。

その日パジェロ氏はトントンだった。勝っては負けの繰り返し。後ろで見ていたセドリックもすぐにルールを把握し、PLAYERとBANKERとどちらに賭けるべきかと予想しながら勝負の行方を見守った。

「今日はなかなか大当たりがないなあ。セドリックさん、次の勝負あなたの運に賭けます。どちらか選んで下さいよ」

 九回連続で負けたパジェロ氏は残りのチップを手の平に広げてこちらを見上げた。 

「いや、僕はギャンブルに疎いですから」

「そういう欲のない人こそ当たるんですよ。一点勝負で行きましょう。ここで勝ったらあなたに半分差し上げますから」

甘い言葉に誘われ、どこにベットするかを考えた。バカラのルールは単純。PLAYERとBANKERに配られる二枚ずつのカードの合計が、どちらか9に近いかを推理するゲームだ。上級者になれば使用したカードの種類を算出して出目を予想したりも出来るのだろうが、いかんせんそんなところにまで気が回らない。とはいえ他人の金を無駄にするわけにも行かず、ボードを見つめながら悩んだ。

「私は余った金で遊んでますから、気軽に選んでくれて結構ですよ。他の方もあまり待たせられませんから」

他のプレーヤーはベットを済ませていた。誰も早くしろとは言わないが、勝っている人は流れを止めるのを嫌がったりする。

「じゃあ、タイで行きましょう。最後なら勝負します」 

セドリックは「引き分け」に賭けた。勝てば八倍の配当。遊び慣れたパジェロ氏は「いいじゃないですか」と愉快そうに全額タイに置いた。左右に座るプレーヤーや、見物していたギャラリーから「おー」と声が上がった。 

「なかなかの勝負師ですね。ゲームはこうでなくちゃ」

 負けすら楽しむのが真のギャンブル好き。セドリックにとっては皮肉のつもりのベットだった。 優れた女性もいるのに奴隷以上になれぬ差別へのクエスチョン。男も女も変わらぬ生き物と確信したからこその「引き分け」。負ければパジェロ氏は損を被るが、金持ちの顧客がたくさんいる彼ならすぐに取り戻せるはずだった。

タイに賭けているのは五人のプレーヤー中パジェロ氏だけ。緊張と嘲笑とが入り交じった雰囲気の中で配られたカードにどよめきが起きた。PLAYERにはスペードのAとハートの6。BANKERにはダイヤの3とクローバーの4。どちらも7。タイだった。誰よりセドリックがびっくりした。パジェロ氏も思わず立ち上がり「やった」とガッツポーズした。

大量のチップの山。これだけあればまだゲームに挑みたくなるものだが、さすがに疲れたのか、パジェロ氏はすぐに換金した。ネットバンクに入金された配当金の半分を約束通りセドリックの口座に移した。あまりに簡単に手に入った月給二か月分。 当てたのは自分だが、申し訳ない気持ちになった。 

「こんなに頂いてしまって…恐縮です」

「ははは。あなたの強気の姿勢がもたらした勝機なんですから受け取って当然ですよ。ただあまり突っ走り過ぎない方がいいですよ。私はセドリックさんの心根を好いてますけど、国には国のルールがある。それを覆すのは並大抵のことじゃない。ほとんどの男は奴隷制度に疑問などなく、同情もしていません。こき使う者。子供を生んで増やすマシーン。彼女ら自身もそう教育されています。人口増加に協力しないと、セドリックさんご自身も反逆罪の対象になる可能性もあります。善意や親切心はとても素晴らしいものですが。あなたがそれに飲み込まれないように気をつけて下さい。良い心というのは一歩間違えるとエゴになる。身分は上がらないのに優しくされたら奴隷は混乱します。彼女たちの存在を認めるなら「奴隷」としての仕事をきちんと与えてやることですよ」

 パジェロ氏は肩を叩いて微笑んだ。彼の奴隷はちゃんと躾られている。車の前で氏を待ち構え、荷物を受け取り、ドアを開いて立っていた。彼女らに悲壮感はない。氏は「正しく」奴隷を使っているからだ。彼女らを可愛がっている。もちろん暴力的な意味ではなく。

セドリックは答えを模索した。自分の心に従うか、そぐわぬルールの上でそつなくこなすか。不条理と戦うのは難しく、己の正義と折り合いをつけるにはさらに勇気と新たな視点がいる。ひどい場所で働かせる奴隷を減らすためには自分が雇う方がいいのかもしれない。覆すのが難しい体制の中で出来ることといえば多分そのぐらいなのだ。

 ♢♢♢

酔いざまししてから車を走らせていた時だった。暗くなった道路の真ん中に白い影が浮かび上がり、慌ててブレーキを踏んだ。甲高くタイヤが鳴き、ゴムの焼ける臭いが漂った。ハンドルを握りしめていたセドリックはぎゅっと腕を縮めたが、何かにぶつかった音もなく、感覚もない。そろりと首を前に戻すと、リネン生地の白いネグリジェ姿の少女が立っており、胸にミルクティー色の猫を抱いていた。

「大丈夫かい?」

窓を開けて尋ねたが、少女はじっとしたまま目を潤ませた。なにか言いたそうに口を動かすが言葉として出てこない。見ると、腕の中の猫はぐったりし、目を見開いて頭から血を流していた。事故に遭ったらしく、道路の真ん中に黒い染みが残っていた。かすかな意識の中で、かろうじて動く前足の先をピクピクさせていた。どうやって助けを求めればいいか分からないでいる少女の瞳から大粒の涙が溢れて落ちた。この子はまだ泣けるんだ。セドリックは頬の涙を見つめた。

獣医の知識はないが、腕のいい医者なら知っている。腰痛持ちのサニー氏だ。ここからならそう遠くなかった。

「お乗り。病院に連れて行くよ。君の猫かい?」

少女は首を横に振った。ウエーブした黒髪の娘は印象的な瞳をしていて、まだ首輪がなかった。十四歳以下には見えぬが、持病を抱えているのか、施設で着用するネグリジェを着ている。だが脱走者を探している警備隊もいない。どこの娘か確かめなければならないが、今は猫の命が優先だった。

首が後ろに垂れる猫を娘はなんとか支えていたが、間もなく息絶えるだろうと分かる。けれどサニー氏に連絡を取ってスピードを上げた。猫は危ういがまだ生きている。目が左右に小刻みに揺れていた。

病院に着くなり、サニー氏は優先して猫を診てくれた。セドリックと少女は待合室で無事を祈った。そこで少女が裸足であるのに気付いた。 白い指の先に砂利がこびりついている。どこから来たんだろうと思った。すっきりした利発そうな額。カタログに掲載されていたらすぐに指名されそうだが、心配そうに診察室を見つめる横顔に、今はそっとしておくことにした。 

二十分ほどしてサニー氏が診察室から出てきた。同時に顔を上げると、彼はそっと首を横に振った。待合室から診察台に横たわる猫が見えた。ちんまりと動かないそれは、降り積もった綿毛のようだった。
少女は口許を押さえながら外に飛び出し、駐車場の端にしゃがんで顔を覆った。待合室に面した窓の向こうで声を殺して嗚咽する少女を、セドリックは見つめた。

看護師の女性が猫を白いタオルに包んでくれた。そしてみなで祈りの言葉を捧げてから、セドリックに手渡された。死後硬直が起きる前の処置がちゃんと施されていた。瞳は閉じられ、舌が飛び出さないよう紐で口の回りを括ってあった。猫はもう息をしていなかったが、まだほんのりと温かかった。

「お忙しいところありがとうございました。お世話になりました」

診察代を支払おうと電子マネーのアプリを開いたセドリックは口座の残金に思わず驚いた。カジノで勝ったことをすっかり忘れていたのだ。あの享楽の場からの落差に切替えがついてゆけなかった。

「まだ首輪をしてないようですが、セドリックさんの奴隷ですか?」

サニー氏は目を細めた。確かに彼女は彼の好みだった。まだ若くて初々しく、大きな美しい瞳を持っている。仕込み甲斐がありそうだと舌なめずりしている腹の中が透けていた。いつもならなんとも思わないが、あの少女をサニー氏に預けたくないと思う自分がいた。猫のために泣く彼女の涙を尊いままにしておきたかった。

「ええ。トライアル期間でして…。みなさんにもそろそろと勧めて頂いてるんで」

 もちろん嘘だった。彼女がどこの誰とも分からない。だが悲しみに暮れている少女を慰められるのは自分しかいない。セドリックはタオルに包まれた猫を抱いて外に出た。夜風がぬるく吹いていた。 立ち上がった少女は鼻の頭が赤くなっていた。

「穏やかな顔だよ。体も拭いてもらったから、きれいになって天国に行ける。きっと君にありがとうと言っているよ」

少女は猫をじっと見つめ、タオルに沈む頭や腹を撫でた。草原に奏でるハープのような澄んだ泣き声が響いた。

動物専門の葬儀社で火葬してもらった猫の骨は散った菊の花びらに似ていた。さらに小さい箱に収まった猫を少女は愛しげに胸に納めた。

「ーさて、どうすればいいかな。どこから来たの?首輪がないから、施設の子かな」 

少女は猫の遺骨を膝に乗せたまま「はい…」と口唇を軽く噛んだ。

「もしかして脱走してきたとか?事情があるなら聞くよ。僕も捕まりたくないから、話してくれないか?」

奴隷の足抜けは重罪だ。脱走者と知っていて匿った者も同罪になる。だが、事情がありそうな少女を放っておくわけにいかなかった。少女はためらいながらも、ゆっくり息を吸い込んだ。

「…実は私、出戻りなんです。これまで四人の方に飼っていただいたのですが、なぜかその家のご主人に不幸が起こるんです。心臓発作で急死されたり、家が火事になったり、事業がだめになって会社が倒産された方もいました。その度に施設に戻されて、今では「不吉な奴隷」という肩書きがついてしまい、もう一年間売れ残っているんです。施設でも疫病神と呼ばれて、誰も話しかけてくれず、居場所がないんです。時々庭に遊びに来てくれるこの子だけがお友達で、唯一の話し相手だったんです」