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99:1 ⑳


秋の終わりだった。研究所にある報告が届いた。突然の呼吸困難と意識障害で二十代の男性二人が緊急搬送されたが、原因が分からぬまま一週間後に死亡したという。解剖の結果どちらも肺炎を起こしており、新たな感染症の疑いもあることからパルメザンの研究室にも調査の依頼がきた。

血液を分析したが新種の病原菌は発見されず、見つかったのはラノイウイルスのみ。いわゆる風邪のウイルスだけだった。どちらも最新の健康診断ではほぼA判定。免疫不全の傾向があるが、珍しいことではなかった。世界に現存する男のほとんどがそうだからだ。

SSMの影響によって遺伝子が変異し、80%の男性が先天性の免疫不全を患っていた。そのため年に一回のグロブリン注射が義務付けられており、接種を怠らなければ症状は抑えられていた。だが彼等の免疫機能は極端に低下しており、抗体が作られずに風邪によって急性肺炎を起こしていたと分かった。しかし二人とも半年前にワクチンを接種している。部下とパルメザンは首を捻った。

「これといった持病もないしなあ。なにより発症から死亡までが早すぎる。段階なく呼吸困難になり意識混濁になって死に至る。新手の集団自殺じゃないのか?」

「二人に接点はありません。ひとりは大学生。倒れたのはアルバイト先のスーパーマーケットのバックヤードです。商品の入ったダンボールを台車に乗せていた時に突然胸を押さえて意識を失ったそうです。もうひとりは不動産会社に勤務する会社員。客と内見して戻ってきた直後だったそうです。車を降りてすぐだったと。自殺にしてはあまりに計画性がありません」

「周囲にいた人間にも感染症の症状は出てないしな。なによりIgG、IgAの数値が二人とも80mg/dL以下になっている。グロブリンを接種していればこんな低い数値になるはずない。まるで生まれたての赤ん坊だ。内臓と血管を晒して歩いているのと同じくらい危険な状態だぞ。一体何が起きたんだ」

最初の報告から三日後。今度は十六人の男性が同じ症状、同じ容体で搬送された。それに留まらず翌日には四十一人、その次の日は八十九人と倍々ゲームのように増え続け、わずか半月の間に八百人以上の男性が謎の病で死亡した。人々はマスクをつけるようになり、全ての学校が無期限の休校になった。

パルメザンたちも科学者の威信にかけて昼夜通して仮説を立てては調査したが、結果が出るより前に死者が増えてゆくばかりだった。焦りとやるせなさと明日は我が身かもしれない恐怖感と闘いながら些細なことも見逃さぬようデータを収集していたが、数十人の研究員が立て続けに搬送され、施設も閉鎖された。

ひとつだけはっきりしているのは、女性の報告は一件もなく、男性のみが発症していることだった。しかも謎の病は本国だけに限らず、他国でも起きていて、SSMとは反対に今度は男性の淘汰が始まっていた。恐ろしいのは拡大の速さと致死率の高さだった。発症すればほぼ助からない。わずか三ヶ月余りで地球上から1000万人の男性が消滅した。このスピードがさらに加速すれば一年後には男性は絶滅する。統計学者の予測は現実味を帯びだし、追加のグロブリンの接種を希望する者が病院に殺到したが、どこも品切れ状態で、なんの手立ても見出せずにいた。風邪が重病をもたらす。防護服に身を包んだ保健員が消毒液を散布する光景があちこちで見られるようになり、免疫力を上げるとされる根菜や乳製品や海藻などがよく売れるようになった。火葬場は二十四時間体制で稼働しても追いつかず、市民の憩いの場だった国営公園が次々と霊園となった。近代と趣が融合した美しかった街は、文字通りのゴーストタウンと化したのだった。

幸いパルメザンに症状は出ていなかったが、部下たちも右腕だったパルミジャーノとレッジャーノ兄弟も揃ってICUにいた。研究所から人は消えたが人工母体の胎児は生命反応があり、誕生まで九十日と迫っていた。温度の保持と異常信号の確認、そして二匹の猿とゴーダの世話をするために、パルメザンは毎日研究室に通っていた。ゴーダは相変わらずマイペースで、施設内をペタペタと散歩した。あげればあげるだけご飯も平らげた。彼はオスだが元気だった。やはり動物には影響がないのかと安心していた矢先のこと、リコッタとチェダーに同じ症状が現れたのである。

いつもは木の上を走ったりじゃれ合っている二匹が土の上で口を開いたまま倒れていたのだ。まだかすかに意識はあったが瞳孔は開いて焦点も合っていなかった。応急処置をしたが、ほどなく二匹とも息を引き取った。黄色い毛をしたリコッタ。オレンジ色のチェダー。ただの実験材料だった猿だが、 亡骸を前にすると体のどこか分からぬ部分がきゅうっと絞られたみたいになった。差し出したリンゴを両手で持ちながら食べる姿ももう見られない。 研究員たちはペットのように肩に乗せたり、同じテーブルで食事をしたりと可愛がっていたが、パルメザンは彼らの健康状態や知能レベル、行動パターンにしか興味がなかった。猿に挨拶をしたり機嫌がいいかと尋ねるなど意味のないこと。そう思っていたのに、体をなぞりながら呼び掛けていた。
目を開けろよ。木に登って遊べよ。おい、おい。

 彼等の血液検査をするとやはり免疫の数値が極度に下がっていた。人間の男性と二匹の猿の共通点はなんだ。パルメザンは視点を変えて考えてみることにした。 急激に数値が下がった理由を探すより、下がってない者にあるものを調べる方がなにか分かるかもしれないと、症状が出てない男性をリサーチすることにした。 

アンケート形式にした数百人分のカルテを集めて共通事項を抜き出していった。年代別だと高齢者ほど発症率は高く、十代では五十人にひとりと少し緩やかになる。 若いほど回復して退院する割合も多かった。彼らの生活環境を細かく分類するうちに、ひとつの学説に突き当たった。二十年ほど前に整骨医師が書いた「骨粗鬆症の発症率と授乳期間の因果関係」という論文だった。

奴隷制度の改革に命を捧げた英雄と呼ばれる故人の残した論文で、骨が弱い人間は乳幼児期に母乳を十分に摂取していないのが原因という内容だった。今回の死因に骨は関係していないが、確かに母乳は抵抗力のない乳児に必要な栄養分や成分が全て入っているパーフェクトフードだった。カルシウムからミネラル。免疫力をつける抗体のIgGとIgAも母乳から摂取され、長期間飲んだ子供の方がアレルギーも少ないという結果も出ている。

母乳と免疫力。現在蔓延する謎の病を解く鍵があるのかもしれないと思った。女性が発症しないのはそこにプラスの要因があるからだ。女性にあって男性にないもの。 それはひとつしかなかった。パルメザンは確信に近いものがある部分にそっと手を添えた。

四年半だけ体内にあった臓器の影響で罹患しないのか。パルメザンは アンドロギュノスの医療データにアクセスし、自身の成育資料を調べた。そこには成長日誌が克明に記されていた。両性具有者だった生い立ちは彼にとって黒歴史。これまで一度も見ないようにしてきたが、読み進めるうちに画面から目が離せなくなっていった。

〈動物の映像に興味があるよう。特に野生動物のドキュメンタリーになると画面を見入っている。キツネの親子にご執心。夢中になると口が少し開く横顔がなんとも可愛い〉 

〈ボールとラケットを渡すと上手にテニスをやった。父親とのラリーを七回も成功。コントロールがよい。将来はテニスプレーヤー?と期待大である〉

無菌室が部屋であり、庭であり、世界であった。寂しい入院生活だったが、彼等は同じぐらい楽しませようともしていた。忘れていた記憶が少しずつ蘇ってくる。一番優しい記憶が詰まっているのもあの頃だったかもしれない。男であろうと女であろうと愛してくれていた。健康であることだけを願う思いが400ページに渡って残されていた。手術跡が残るのを年頃になって気にするかもという心配まで。

そこに気になる記述があった。子宮摘出をした後、ホルモンバランスが崩れたのか、肌の水分量が極端に減って粉がふくほどの乾燥肌になり、プラセンタのサプリメントを毎日飲んでいたという。期間は二年。プラセンタの原材料は胎盤。つまり胎盤と同じ成分が体内に浸透しているのである。

圧倒的に若者の方が回復が早いのは、彼等がまだ母乳からの免疫の恩恵を受けているせいと思われた。年を取るほど薄れてゆくから高齢者の死亡率も高くなる。それなら女性も同じはずなのに、なぜ彼女らは無事なのか。パルメザンははっとし、急いでSSMの成分について調べた。するとSSMで女の子を選択した時にのみ、プラセンタを混ぜた製剤を注入していることが分かった。女性ホルモンの分泌を促す効果があるからだろう。男児を希望する場合には使われていないのだった。

胎盤の成分が女性たちを保護しているとしたら?それが特効薬になるのかもしれない。 彼女らに使用されていたのは豚や馬ではなくヒトの胎盤から抽出されたプラセンタ。しかし現在研究所内にもプラセンタの在庫など置いてなかった。ある場所は限られていた。本物の妊婦だ。彼女らには胎盤がある。そこから抽出するしかなかった。

免疫の専門医師にコンタクトを取り、自身の過去も含めた体験談をあらいざらい語った。この混乱と危機を救うかもしれないふたつの可能性について。医師は否定できない仮説であると深い興味を示した。なによりどんな薬も効かない今、試して無駄なものはひとつもなかった。 一刻を争う事態。事情を話して産婦人科に協力を要請すると、妊婦から承諾の返事が次々届いた。夫や家族を亡くすかもしれない彼女たちにとっても切実な問題だったからだ。

パルメザンを中心とした新たなチームが結成され、特効薬の開発と臨床実験が急ピッチで進められた。胎盤から抽出したプラセンタの成分を濃縮したエキスをある患者に投与すると、驚くほど即効性のある効果を発揮した。

2000万人もの男性の命を奪った病の原因は、男に生まれたことだった。悪の権化とまで呼ばれたSSMであったが、自然と含まれていた成分によって人類が救われた。パルメザンの素早い判断と行動により、患者の数は日毎に減り、一時の悪夢が嘘のように病院には空きベッドが目立つようになった。

子供たちは学校に通い、通勤電車は満員になり、どこの店も通常営業を始めていた。 安心と平穏。日々のありがたさを誰もが実感しながら生活を送るようになった。毎日会っているあなたが今日もいることが嬉しいと。

あらゆるメディアから取材が殺到したがパルメザンは全て断っていた。正義の人などと呼ばれたくなかった。女性を絶滅させる計画をしていたはずなのに、母乳と胎盤が世界を救うことを発見してしまったせいで、女性の必要性を世にアピールしてしまった。この皮肉なブーメランは誰が投げた。男性を救うためには妊婦が必要。生き残るための意地が生んだ、女の執念のメカニズムとしか思えなかった。

「女というものは、なんともしぶとい生き物よ」

彼はひとりの部屋でぼつりと呟き、しばらく笑い続けた。

 ♢♢♢

 騒動が治まると結婚するカップルが増加した。どの国でもそうだった。子育てに関心が薄かった本国民ですら、人類滅亡の危機を乗り越えたことで人生観が変わり、 統計史上最も高い数の婚姻届が役所に受理された。これだけの男女が一緒になれば、来年辺りの出生率も大幅に上がる。人工母体などいらなくなった。費用を請求する理由がなくなり、予定ならあと二週間で生まれるだろう子供を最後に実験を終わりにすることにした。

事態の最中も培養カプセルの中にいる彼はすこぶる順調に育っていた。顔も手足も目視ではっきり分かるほど人間の形をしており、呼吸も鼓動も正常に動いていた。研究所も百人以上の男性が亡くなり、いくつかのラボは閉鎖せざるを得なくなった。それでも残された者で新たなスタートをしようと結束を固めた。間もなく生まれそうな命は研究員たちに希望を与えてくれた。卵子を提供した女性は毎日息子に会いにきた。画面越しに眺めては「可愛いわあ」と涙ぐんだりした。

誰もが出産の時を今か今かと待ち望んだ。 ベッドやオムツも用意したが、母親の女性がその日を待たずして、くも膜下出血で自宅で急逝した。処置が早ければ助かったかもしれないが、ひとり暮らしをしていた女性は翌日同僚に発見されるまで気付かれず、救急隊が到着した頃には既に息を引き取っていた。

「あの子はどうするんです?」

無事退院したパルミジャーノとレッジャーノが尋ねた。せっかく明るくなった研究所の空気がまだ沈んでいた。プログラム通りならあと四日で生まれる子供は誰が面倒を見るのか。突然の不幸にさすがのパルメザンも気落ちせずにはいられなかった。 

「父親に連絡を取ってみようか」

え?と二人同時に目を開いた。「でも外国人ですよ。本国で誕生する子供は本国の国籍になります。父親が知ったとしても引き取れないのでは」

「けど血縁上はれっきとした父親だ。母親が亡くなった今、父親が育てるのが人間のルールだろう。法律よりそちらが優先されるはずだ。いざとなったら私が上に掛け合う。無事に生まれた時に育てる意思と環境があるか確認しておけ。すぐには無理なら、ある程度まではこちらの施設で責任持って育て、 彼が子供と暮らしたいと言えばその手続きに入ろう。あの騒動のあとだ。より人間らしい行動が賛同されるだろう。すぐに先方の資料を用意してくれ。私が話す」

以前のパルメザンとの違いに、部下たちは一様に困惑した顔をしながらも「はい、ただいま」と慌てて連絡先を探しに行った。パルメザン自身も自分の変化に戸惑っているのが本音だが、流れ上最善のことをやるしかなかった。この風潮において世界を滅ぼす夢を見るなど次元の低い人間のやることとバカにされるからだ。

受け取った連絡先を持って、パルメザンは所長室でコンタクトを試みた。時差は四時間。先方は午後の八時。平日なので帰宅していてもいい時間だった。 もしかしたらあの病で亡くなってるかもと心配したが、幸い彼の名前は死亡者データに記載されていなかった。アドレスに事情を説明した文章をまず送り、返信がほしいと添えた。しかし丸三日間連絡はなかった。当然の反応だった。 

〈あなたの子供が人工母体で生まれます。けれど母親が急逝してしまいました。 無事に誕生したら育ててもらえますか?〉

この文面をいきなり受け取って仰天しない者などいない。誰でもパニックになる。パルメザンはせっつかず待つことにした。そうして翌日、一日も予定日から狂わず、受精から出産まで一度も体内に戻さなかった人間の子供が、人工母体から誕生した。2780gの元気な男の子だった。

彼は思い切り泣いた。顔を皺くちゃにして絶叫した。パルメザンは彼がかつての自分に見えた。無菌室から初めて出た時の感動。ようやく外に出たぞ。無機質で窮屈な部屋からやっとおさらばできたと歓喜していた。

「頑張ったな…」

赤ん坊を抱きながら呟いた。もっと叫べ。もっと喜べ。よくぞ無事に生まれてきた。パルメザンは初めて、命を心から愛おしいと思った。

誕生の連絡を追加した翌日、ようやく男性と会うことができた。画面越しの彼は落ち着いた目をしていた。この数日間は怒濤の如く過ぎたに違いない。天地がひっくり返るほど驚き、夜も眠れないほど悩み疲れただろう。けれどひとつの結論に達したらしい彼は子供を引き取りたいと言った。自分の元で育てたいと。

「僕の国では男女は区分した島に暮らしていて、ある期間のみに結婚が許されます。けれど僕はその歳を過ぎてしまいました。本来ならもう渡れないのですが、子供がいるなら母親が必要だろうと特別に許可が降りて、結婚相手を探せるチャンスを与えられたんです。 なのでその子を連れて行ってみることにしました。昨年結婚した僕の友人に今年子供が生まれたんです。彼等が力になってくれるというので決心しました。一緒に子育てしよう。お前の子供はおれの子供だ、奥さんの母乳を分けてやるから元気な子供にしてやろうと言ってくれました。一時は気が狂いそうなほど悩んだのですが、友人の簡単な一言ですべきこともはっきりしました。知らせてくださってありがとうございました。その子の写真はありますか?」

 眼鏡を直しながら話す彼は静かな声をした男性だった。 生まれたばかりの子供の映像を見せると「うわあ、ちゃんとした赤ちゃんだ」と目を開いて見入った。

「人工母体という初の試みで生まれましたが、とても元気で、先天性の異常もありません。もうしばらく経過観察は必要ですが、なるべく早いうちにそちらにお連れするつもりです。それまでは責任持ってお預かりさせて頂きます。それまで素敵な名前を考えてやって下さい。我々のチーム全員の息子でもありますから、どうかよろしくお願いします」

彼は「はい…」と首を捻りながら、困ったように肩を竦めた。いい父親になりそうな男だと思った。まなざしがとても優しかった。

綿密に健康診断をし、全ての項目で優良児と判断された赤ん坊は、誕生から十八日後に父親の元に送り届けられた。待っていたのは彼と彼の友人夫妻とその子供。大きいバスケットの中でおくるみに包まれた赤ん坊を覗くなり「そっくりじゃん」と彼の友人は笑った。パルメザンは亡くなった子供の母親の写真も持参し、無断で精子を使用したことを詫びた。 

「こんなことでもなければ子供を持てなかったと思いますから、きっとラッキーなんです。ただの思い付きで登録したのに、これも縁ですかね。彼女のためにも頑張って育てます」 

こちらを一切責めることなく彼は母親の写真を受け取った。決断した者は強いのだ。迷いがない。別れがたくなって泣き出したら困るため、チームの人間は連れてこなかった。ひとりで来て正解だったとパルメザンは思った。ひとりなら寂しさも隠せるからだ。

「ところで名前は決まったんですか。よければ教えて頂けますか?」

ええ、と男性は頷き、これから提出するために持っていた記入済みの出生届を見せた。名前の欄には「ツキ」と書いてあった。

「ラッキーとか幸運とか、そういう意味です。みなで考えて一番いい名前にしました。ぼくにとってはまさに転がってきたツキだと思ってますから」 

ラッキー。幸運。ツキ。いい名前だと思った。すやすや眠る赤ん坊の頬を撫でた。

「最高のプレゼントをもらったな。よかったな、ツキ」

 名前を受け取ったサインのように、ツキはふにゃあと大きいあくびをした。無事に引き渡しも終わって、彼等に挨拶をしてから立ち去ろうとした時だった。彼の友人がすっとパルメザンの顔を覗き込んだ。

 「どうかお気をつけて。ところでよれよれ歩くあの犬は元気ですか?」

明るい髪をなびかせる彼は、手を後ろに組みながらにんまりと笑い掛けた。