99:1 ⑧
膝の白い箱を撫でながら、少女はまた涙を零した。セドリックは彼女に興味を抱いた。不思議な波動を感じたからだ。
「そうか。大変だったね。今いくつなんだい?」
「来月で十九歳です。同い年の人はみんな奴隷のお仕事をしているのに、 私だけが未だにあぶれたままで、お国に尽くせずに恥ずかしいことです」
少女は申し訳なさそうに首を折り曲げた。ほとんどの娘が十五歳で奴隷になり、翌年か翌々年には子供を産む。十九歳で施設にいるのはかなり珍しいケースだ。セドリックは腹の辺りがきゅうっとなった。若い娘からこんな言葉を言わせる制度。奴隷という未来しかない人生。
男女の人口比率は依然99:1のまま。現在までSSMの影響が残っており、生まれてくるのは男ばかりだ。だからこそ女性は貴重なはずなのに、この国ではマイノリティに人権を与えない。数学の天才然り、彼女たちにもめいめい光る才能があるはずなのだ。当然この娘にも。「主人を不幸にする」を才能と呼ぶかは謎だが、虐げられてきた彼女らの怨念がとうとう牙を剥きだした反逆の前兆かもしれないと豪快に笑い飛ばしたくなった。自分の信念がこの子には通じている。そんな気がした。
「よし。じゃあ僕が君を貰おう。今から施設で手続きするよ。僕はセドリック。整骨医をしてる。君が最初の奴隷だから、どう扱っていいか正直分からない。 多分仕事を手伝ってもらうことになるだろう。医院には三人の男性看護師がいるけど、気のいい連中だから、居心地は悪くないと思うよ」
「いけません。私がいると先生にも不幸が訪れるかもしれません。私にはなんらかの不吉な力が備わっているのですから」
「もしそうなったら君の力が強かったってだけさ。僕はそれに勝てなかった不運な男に過ぎない。君を不幸にするだろう男に天罰を下しているとも考えられるからね。それを逆手に取れば、君を大事にすればラッキーが訪れるんじゃないか?その恩恵を得てみたいから、僕のところで働いてくれないか」
セドリックの心に熱い思いがたぎっていた。共に幸せになる道を探したい。奴隷に対する認識が変われば、この国ももう少し優しくなる。その先駆者になりたいと思った。
♢♢♢
医院で働き始めた娘は真面目で優秀だった。すぐに仕事を覚え、報酬計算などの事務作業もあっという間に習得した。丁寧な問診。足腰の悪い老人を優しく支える気配り。誰をも安心させる笑顔は患者の間でも評判だった。本当は首輪も付けさせたくなかったが、それで訴追されては困るので、制度に従いリングを装着させたが、その裏側に「いつか」と記した。
親しみを持ってもらおうと、セドリックは「ミラ」と彼女に名付けた。マスコット的存在として愛されるのに名前は不可欠だった。「ミラ」は呼びやすく、トーンが明るい。可憐な花を思わせるイメージが一致したのか、すぐに馴染んだ。待合室や施術室でも「ミラ」「ミラ」と当たり前のように飛び交う。その名前が響く度に医院の中が華やぐが、反感を持つ者も当然いた。
「奴隷を甘やかすな」「名前など不要だ」「奴隷は奴隷らしくしろ」
彼らの糾弾はルール上は正しい。 同行させた調教の行き届いた奴隷を例えに「こうあるべきだ」とセドリックは 説教を受けたりした。けれど決して謝罪はしなかった。悪いことはしてない。黙ってやり過ごした。その度ミラは悲しそうな顔をした。
「気にしなくていい。今まで通りに患者さんに接してくれ。君に会うのを楽しみにして通院されている人もいるんだからね」
声を掛けると、ミラは目を伏せたまま頷いた。沈んだ顔を見ると胸が痛い。だがギスギスしてる現場より、笑い声がさざめく所の方が誰でも居心地がいい。その空気感を味わってもらえればよかった。またどこかが痛んだ時、どの病院に行くかを決めるのは患者側。医者の腕だけでなく、あそこは雰囲気がよかったと印象に残っていれば、人は不愉快でない方を必ず選ぶからだ。その証拠にセドリックの患者の八割はリピーターだった。町人の寄り合い所と化し、待合室では会話が絶えない。コーヒーがあればカフェと変わらぬ賑やかさだった。だからといって「女性も我々の仲間です。平等に接しましょう」とキャンペーンを打てば反逆罪に問われる。常に危険と隣り合わせのはがゆい抵抗であった。
ある日の朝だった。玄関前の花壇に水をあげていたミラが歌を歌っていた。それは昔の映画の主題歌だった。晴れた空の下を手を広げて踊りたくなるような爽やかでリズミカルなメロディ。決して大声でなく、日常で口ずさむ程度のボリュームだったが、ずっと聞いていたくなる魅力的な歌声だった。セドリックは瞬きも忘れて、聞き入った。水道の蛇口を止めていたミラははっとし「 すみません」と深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。どうかお許しを」
ミラは跪いて許しを乞うた。口唇がわなないていた。奴隷が歌うなど許されない。だからこの国には女性歌手が存在しなかった。男より高い場所に立ってはならず、喝采を浴びるなど以ての外だった。だがセドリックはそんなことどうでもよかった。
「怒ってなどいないよ。聞き惚れていたんだ。とても素晴らしい声だ。どこで歌を?」
「最初にお仕えしたご主人の家です。ミュージカル映画をご観賞されたり、音楽をお聴きになられるのがお好きで、お休みの日になるとよくこの曲を流していたんです。それで覚えてしまって。奴隷が歌うのは禁じられていると分かっておりますが、明るい曲と元気の出る歌詞が好きで、ひとりになるとつい口ずさんでしまうんです。今日はとてもお天気も良いものですから気分が弾んでしまって…。本当にすみませんでした」
一瞬、大画面のスクリーンに映し出されたような映像が目の前に現れた。どこか広い劇場のステージの上。マイクの前に立ち、歓声と拍手に包まれてスポットライトを浴びるミラの後ろ姿が見える。背中の大きく開いた青いドレスにアップした髪。顔は見えないが彼女と分かる。この白昼夢はきっと予告だとセドリックは思った。
歌声の感動を胸に膨らませたまま、ミラを立ち上がらせて、診察室へ連れてきた。そして準備をしていたレントゲン技師や看護師を施術室に呼び、もう一度ミラに歌わせた。
みなの表情がすぐに変わった。驚きから感動への移行は早く、気付けばミラの歌に合わせて手拍子をし、スイングしていた。五人だけのコンサートは大喝采だった。口々にブラボー!と叫んだ。ミラが奴隷と忘れていた。たった今誕生した歌姫に惜しみない拍手を送った。
春風のように伸びのある声と歌唱力の確かさ。特別な指導は受けてないのに、ミラはもう完成していた。生まれ持った天賦の才能だった。
その日からそれぞれの好きな歌を持ち寄ってはミラに覚えさせ、診察前に歌ってもらうのがルーティーンになった。ミラは二、三回視聴するだけで暗唱し、時には原曲を越えるクオリティで歌い上げる。数を重ねるごとに彼女の表現力は磨かれた。ダンサブルなナンバーからしっとりしたジャズやバラードまで、どんなテイストの曲も自分のものにしてしまう。彼女というフィルターを通すことで生まれる新たなストーリーと感情。奴隷であるがゆえの悲しみや切なさ。希望や願いが解き放たれた魂の声だった。
歌っているミラは生き生きしていた。笑顔より魅力的な顔になる。なにをしていても彼女の中には音楽が流れていて、そのメロディやリズムがミラを動かしたり励ましたりしているのだった。
ギターが得意な看護師が爪弾く音色に合わせて、違う世界を夢見る若者の思いを綴ったミラの歌が重なった時、セドリックの頬に涙が伝った。歌を聴いて泣くなど初めてだった。そんな繊細な人間ではないのに、止められぬほど波が高ぶる。ミラの歌声にだけくすぐられる場所があるのだ。
そんな日が続いた冬のはじまり。診察前に十数人が玄関口に集まっていた。事故でも起きたのかと慌てて扉を開いた。
「どうしたんですか?」
慌てて羽織った白衣の襟を直したが、重傷な様子の者は見当たらなかった。 すると一番前に立っていた男性が口をにっと横に広げ「ミラが歌うんだって?」と耳打ちした。彼女の歌が外まで漏れていたのだった。歌わせたのは自分だ。責任があるなら僕です…。言いかけた直後だった。
「以前この前を通り掛かった時に耳にしてね。最初はレコードかと思ったけれど、その後に拍手とブラボーという声が聞こえた。それで次の日も来てみたら、私の大好きな曲を素敵な声の女性が歌っていた。あの歌の女性音源はない。それで歌っているのはミラと分かったんだよ。最後まで聴いていた。あまりに素晴らしくて、動けなくなってしまったんだ。それで友人も誘って散歩ついでにこっそり盗み聞きしていたんだけど、我慢できなくなってね。目の前で聴いてみたいと思い、 こうして押し掛けたんですよ」
すぐには事態を飲み込めなかったが、期待が笑顔として溢れていた。 狭い診療室では入りきらないので、施術室に集まってベッドを椅子代わりにした。総勢十六人のコンサート。戸惑うミラをよそに、客のひとりがさっそくリクエストし「楽しみにしていたんだ」と大きな拍手をすると、彼女は胸に手を当てて挨拶し、すべるように歌いだした。光の粒子が部屋に弾けた。手拍子では我慢しきれず、踊り出す客までいた。幸せな空気が包んでいた。
この国でこんな光景が見られるとは。セドリックも信じられなかった。ミラの歌が心をひとつにした。誰もが感動には素直に従う。触れたら震える琴線がある。しがらみに縛られているのは、女性の素晴らしさを知らないからだ。誰しもに優れた特性があることを。ミラの歌がこの国の人間の意識を変えるかもしれないと思った。彼女の本当の才能はそちらではないかと。
歌声を国中に届けたい。日に日にその思いは強くなった。施術室でのミニコンサートは日毎に動員を増し、しまいには入りきれないほどの評判になっていた。どこも悪くないのにミラの歌を聴きに来る客だけで待合室がいっぱいになってしまう。誰もが夢見心地で歌を聴き入った。奴隷法に違反すると訴える者はいなかった。感動を求める純粋な気持ちがあるのみだった。
全ての診察を終え、掃除と片付けをしていた夜。看護師たちも帰り、医院の中にはセドリックとミラだけが残った。カルテを打ち込む後ろで、ミラは薬の注文表の確認をしていた。
「先生、ありがとうございます」彼女はぽつりと言った。
「ん?なにがさ」振り向かずに尋ねた。
「歌わせて下さったことです。今、毎日がとても幸せなんです。私のためにみなさんが拍手をしてくれて、朝早くから来て下さる。奴隷にはあるまじき違反なのに、優しく受け入れてもらいました。先生のお人柄のおかげです。先生が私を奴隷としてでなく、人間として接して下さったから、周りの方も先生に合わせてくれたのです。ひどい虐待を受ける奴隷もいるのに、私だけこんなに恵まれて申し訳なくなります。お仕事は決して手を抜きません。ですから先生がお許しになられる範囲で、歌を続けてもよろしいでしょうか。なにかあれば、全ての償いは私が受けますから」
歌いたいと願う彼女の強い思いが背中合わせにも伝わっていた。主人になにかを求めるなど本来なら許されない。それを知っていて口にしたミラの勇気。もちろんだ。歌いなさい。答えたいのに胸が詰まって言葉にならなかった。くるりと向きを変え、ミラを抱き寄せた。
今でも医師と看護師以上の関係にはなっていない。ミラには子供を産むよりやってほしいことがあったからだ。しかしこの瞬間、抱きしめる以外に思いを表す術がなかった。まるで花束のように大事に胸に包んだ。
「一先生、私いつも歌っていて、ひとつだけ分からないものがあるんです。よく出てくる言葉。愛ってなんなのでしょうか。誰かを求める気持ちなのでしょうけど、本当はよく分かっていないんです。分からないまま歌っているのに、愛という言葉を口にすると、なぜか涙が零れそうになるんです。体の奥に小さな明かりが灯って、胸が温かくなるんです。不思議ですよね。その意味を無意識のうちに心が受け取り、染み込んできて泣きたくなるのかもしれません。だから私は愛の歌を歌い続けたいと思っています。同じ思いを誰かにも届けてゆきたいから…」
「ああ、歌いなさい。僕もまだ愛が何か分かっていないけれど、絶望が覆う世界に君の歌が響き渡れば、きっとなにかが変わる。それを信じよう」
♢♢♢
一年半が過ぎた頃、国中を揺るがす衝撃的なニュースが報じられた。大富豪エスティマ氏の奴隷三十八人が集団自殺を図ったという。この事件は瞬く間に拡散され、人々の間に波紋を広げた。
深刻な女児不足に陥っている現状において、生涯ひとりも奴隷が飼えない者も珍しくない。奴隷年齢を十五歳から十三歳に引き下げる案も出ている危機的状況でも、特権階級が奴隷を飼い集めては粗末に扱い、死に至らせる。このままでは女性がいなくなり、国の滅亡にも通ずる。
一部の都市では不公平な分配に反対するデモが起こりだし「時代錯誤の奴隷制度」という著者不明の本がベストセラーになった。エスティマ氏と癒着の深い政府は沈黙を通したが、かつてはスルーしていたメディアが報じ始めたことで、変化の必要性を国民も感じ取っていた。
セドリックは連日流れるニュースを見ながら思った。奴隷制度が見直されれば、彼女たちにも権利や自由が与えられる。奴隷の新たな一面、 いや、奴隷という言葉自体を撤廃できるかもしれない。今政府は選択を迫られている。千載一遇のチャンスだと行動に出た。
日曜日の昼下がり、この国の歴史上初めて、ラジオから女性の歌声が流れた。水たまりに映る虹のように清らかなその声は、電波に乗って全国へと広がった。驚くほど軽やかに、自由に空を駆けた。
放送直後からリスナーの反応は凄まじいものとなった。「法に触れる」という一部の抗議を、圧倒的な称賛の声が飲み込んでいった。「あの歌声の主は誰だ」「もう一度聴きたい」という熱烈なメッセージがラジオ局に殺到し、電話やメールが鳴り止まなかった。
「というわけなんです。セドリックさん。こちらは対応に追われて、てんてこ舞いです。 今のところ政府からお達しもないので、もう一度歌を流したいのですが、 よろしいでしょうか。リクエストが殺到してラジオ局まで詰め掛ける人までいます。聴き逃したから是非聴きたいという嘆願書まで届いて、とにかくこの番組始まって以来の大反響ですよ」
